眠れる伝説の皇帝 | フリードリヒ1世バルバロッサ

バート・フランケンハウゼン

バート・フランケンハウゼン(Bad Frankenhausen)は、キフフォイザー山地の南に位置する人口一万人ほどの小さな町だ。この町から20キロほど北に上がったところに、カイザーヴィルヘルム国定公園がある。1871年にドイツ帝国が統一されたことを記念して、皇帝ヴィルヘルム1世に敬意を表して建設された。この場所はドイツの国民的伝説であるバルバロッサ伝説とも密接に関連している《キフフォイザー記念碑(Kyffhäuser-Denkmal)》がある。高さ81mの記念碑の東側には、フリードリヒ1世バルバロッサの姿が伝説の皇帝として石に刻まれている。記念碑の塔まで250段の階段を上ると、ハルツからテューリンゲンの森までの壮大な景色を一望することができる。

伝説によると、バルバロッサ皇帝は地下城の石のテーブルで眠っている。何世紀にもわたる睡眠の間に、彼のあごひげはテーブルを通して成長している。百年ごとに皇帝は深い眠りから目覚め、黒いカラスがまだ山の周りを飛んでいるかどうかを確認している。カラスがいなくなると、バルバロッサは帝国を再現するために舞い戻ってくるのだ。この伝説の発端は、12世紀、フリードリッヒ1世が参加した第3次十字軍に遡る。

ニュースはキリスト教への衝撃としてもたらした。1187年にエジプトのスルタン、サラディンがエルサレムを征服した。聖都は再びイスラム教徒の手に落ちた。これに対して、教皇クレメンス3世は、第3回十字軍を呼びかけたのだった。「バルバロッサ」として知られる神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は、すでに高齢だったにもかかわらず、1188年5月、マインツ帝国議会においてエルサレムへの軍事遠征を決定した。

この頃、フリードリヒは難敵であった北イタリアの都市とハインリヒ獅子公の脅威をすでに排除していた。帝国の政治情勢は穏やかであり、十字軍による聖地奪回は、バルバロッサの人生の集大成となるはずであった。 1189年5月、軍はレーゲンスブルクから東へ向けて出発。フリードリッヒに同行した者のなかには、ヘルマン・フォン・バーデン(Hermann von Baden)辺境伯や テューリンゲン方伯ルートヴィヒ3世などの多くのドイツ貴族がいた。テューリンゲン州。ブルガリア南部で越冬した後、十字軍は1190年3月中旬に小アジアのガリポリ(Gallipoli)へと渡った。

フリードリヒが困難な陸路を選んだ理由はわかっていない。海路を選んでいれば、一行は数ヶ月前に目的地に到着していたはずだった。しかし、小アジアでは、一行は多くの山々を越えて進まねばならず、そこで彼らは装備の大部分を失うこととなった。これに加えて、イスラム教徒の態度は非常に敵対的であった。


1190年5月、サラセン人のスルタンであるクルチ・アルスラーン(Kylydsch Arslan)が、現在のコニア(Konya)であるイコニオン(Ikonion)で十字軍を攻撃したのだった。それはドイツ人が不利な立場に陥った最初の戦いとなった。皇帝が戦闘に介入したときには、すでに何人かは戦場からの逃亡を図っていた。 「何をためらっているのか!何を嘆いているのか!己の血をもって天国を手に入れるために故郷から出て来たのではなかったのか!」と皇帝は檄を飛ばした。 「神が命ぜられた!神が勝利するのだ!」バルバロッサは騎手たちの先頭に出て叱咤激励し、敵を敗走させたが、3,000人の兵士を失うこととなった。

イコニオンでの勝利は戦士の士気を高めはしたが、東方への道はますます困難を極めた。病気が蔓延し、司教数人が命を落とし、行進の秩序は維持できなくなった。極度の暑さと水不足は騎士と従者の気力を奪っていった。 「馬を降りて、動物のように山の斜面を這い下りた」と、この時の記録は述べている。


1190年6月10日、十字軍はアナトリア南部のサレフ川(Saleph)沿いのセレウキア(Seleukia)に到着した。ここでフリードリッヒは、自分の運命と向き合うことになる。皇帝は、自身の軍隊が見守る前で、溺死したのだった。

ある言い伝えでは、サレフ川にかかる橋は非常に狭かったため、橋を渡る行軍速度は遅くなったと報告されている。待ちきれなかった皇帝は、馬を川へと向け対岸へと渡ろうとしたのだが、荒々しく流れる洪水に呑まれてしまったという。しかし、齢70歳になろうという君主が、わずかな時間を稼ぐ為にそのような致命的な危険をあえて冒すだろうか?2番目のバージョンは、可能性がいくらか高いようだ。

フリードリッヒは川岸に宿営を設置し、昼食をとっていた。6月の灼熱の暑さの中で、皇帝は体を冷やす必要性を感じた。山からの澄んだ川の流れは、体を冷やすにはぴったりだった。1500年前、偉大な支配者も同様に、川で体を冷やした。それが、フリードリッヒのこの時の行動に影響を与えたと考えられる。伝説によると、アレキサンダー大王がペルシャへの行軍途中に、当時「カリカドノス川(Kalykadnos)」として知られていた川に浸って、暑くなった体を冷ましたのだった。どうやらフリードリヒはマケドニア王の行動を真似したのではないかと考えられている。 側近からの制止の声にもフリードリヒは一切耳を貸さなかった。フリードリッヒは泳ぐ方法を知っていたからだ。


確かに、中世の人々のほとんどは泳ぐことができなかった。その点、皇帝は珍しいスキルを持っていたわけだが、ほとんど役には立たなかった。皇帝が水中へと入ったとき、その突然の温度変化が心臓発作を引き起こしたのだった。

皇帝の遺体を腐敗から守る為、アンティオキア(現シリア)で、死体は煮られ、骨と肉を分離させた。遺骨はエルサレムの聖墳墓教会に埋葬されることになっていたが、この都市に十字軍が来ることはなかった。フリードリッヒはレバノンの都市タイロス(Tyros)近くの洗礼者ヨハネ教会で自身の安息の場所を見つけたのだった。

皇帝の死はドイツに大きな悲しみをもたらした。人々はその悲しみを伝説で慰めたのだった。伝説によれば、フリードリヒは死んではおらず、ドイツに危機が訪れたときには、眠りから覚め、舞い戻ってくると。それまで、テューリンゲンのキフホイザー山地で眠りについているのだ。

この伝承は、当初はフェデリコの愛称で呼ばれたフリードリヒ2世について語られたものだった。当時は、フリードリッヒ2世が祖父であるフリードリヒ1世バルバロッサよりも重要だと考えられていた。しかし、フリードリヒ2世は、39年のうち28年、つまり治世のほとんどの時間をイタリアで過ごしたため、ドイツの代表者には適していないとみられたのだ。中世の終わり頃、この伝承の主人公は、フリードリッヒ2世からフリードリヒ1世へと徐々に移り変わったのだった。

1871年にホーエンツォレルン帝国によるドイツ帝国の設立により、《白ひげ:バルバブランカ》ことカイザーヴィルヘルム1世は、12世紀にシュタウフェン朝の《赤髭:バルバロッサ》ことフリードリヒ1世が始めたものを完成させた。1896年にキフホイザー記念碑が設立されると、国民神話としてのバルバロッサ崇拝が最高潮に達したのだった。バルバロッサ神話は、ふたつの大戦中もその人気が失われることはなく、ヒトラーが1941年6月のロシアへの侵略戦争を「バルバロッサ作戦」と呼んだように、ナチス政権下においても、神話の人気は衰えなかった。戦後、政治的なつながりが切れた後、町はバルバロッサ伝説を愛する人々の観光名所となった。

ジンツィッヒ(Sinzig)、カイザースラウテルン(Kaiserslautern)、ゲルンハウゼン(Gelnhausen)、アルテンブルク(Altenburg)、バートフランケンハウゼンなど、このキフフォイザー山地一帯にある町は、自らを《バルバロッサ都市(Barbarossastadt)》、または、バルバロッサの出身であるシュタウフェン朝から《シュタウファーランド》と呼び、伝説の皇帝とのつながりを誇りにしている。

参考:

welt.de, “Friedrich Barbarossa – ein Kaiser ertrinkt”, 07.01.2008, Jan von Flocken, https://www.welt.de/kultur/history/article1526330/Friedrich-Barbarossa-ein-Kaiser-ertrinkt.html

region-suedharz-kyffhaeuser.de, “Kyffhäuser-Denkmal”, https://www.region-suedharz-kyffhaeuser.de/resources?otg-node-id=817086789168-ajrz

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