ドイツのロココ建築

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【ドイツの建築】溢れんばかりの装飾でバロックに続く建築様式

多くの壮大なバロック様式の建物がドイツに建てられたのは、イタリアやフランスから遅れること約 1 世紀後のことだった。これは、ドイツ、つまり神聖ローマ帝国で発生した戦争の影響を大きく受けている。三十年戦争(1618年から1648年まで)の大部分は現在のドイツで行われ、それに付随する多くの「サブ戦争」とも呼ばれるべき地域闘争・極地紛争も発生した。戦争前に17億人いた人口は、戦争が終結した1650年には10億人に減少していた。多くの戦闘地域は戦争による破壊から回復するのに長い時間が必要であった。

バロック建築における全体的な空間構成は、途方もない建物の高さと溢れんばかりの装飾によって設計されていた。これは、世俗の領主や教会の司教が比類なき存在であり、大きな権力を有している事実を大衆に納得させる働きを持っていた。しばらくの間、聴衆はこの壮大な建築を称賛したが、ついにはそれにも見慣れ、飽きがきてしまったのだった。バロック建築は魅力的ではあったが、その壮麗な飾りも一時的なものであり、時間は過ぎ去っていくものだということを、観る者に常に想起させ、祈り、悔い改めなければならないことを絶えず思い出させた。当時の人々にとって祈りは重要であったが、彼らは何世代にもわたる絶え間ない戦争から回復したばかりで、ただ生きたい、平和に幸せに暮らしたいという強い願望を持っていた。

こういった時代背景により、バロック後期の建築は影響を受けたと思われる。バロック後期もしくはロココと呼ばれる建築様式は、常に明るく、より陽気な装飾が施され、真剣な忠告は遊び心のある要求に取って代わられ、暗い石の列は明るい金とパステルカラーに置き換えらた。その顕著な例は、ミュンヘンにあるアザム教会である。最新のフランスのトレンドに習い、画家、建築家、彫刻家として活躍したアザム兄弟によって建てられた教会である。

ファサードもインテリア デザインも、湾曲したアーチとピンク色の大理石の柱で囲まれた救世主の椅子(ドイツ語:Gnadenstuhl)や建築主の肖像画も、儚さと暗がりへの過剰な恐怖を伝えていないのだ。

建設は 1733 年にカール・アルプレヒトの命により開始された。カール・アルプレヒトは、1726年以降、バイエルンを統治しており、1742年から45年までは神聖ローマ皇帝を務めた君主である。芸術愛好家として知られ、1716 年には見聞を広めるべくイタリアへ旅行に出かけており、1725 年 9 月 5 日にフランスでルイ 15 世の結婚式に出席している。

1 年後アサム教会が奉献され、この建築はロココとして知られるようになり、ドイツでは美術史上、 1730 年頃までさかのぼるバロック様式の活気に満ちた最後の 10 年を彩った様式となる。

アザム教会(Source:kunstplaza.de)

フランスから輸入され、後期バロックから発展したこのスタイルは、装飾的なモチーフである《ロカイユ》にちなんで名付けられた。ロカイユは、2 つのフランス語の単語であるロック(roc:岩)とコキール(coquilles:貝殻)から成る単語で、岩場の貝のことを指す。

バイエルン州ダッハウにあるアルトミュンスターのロカイユ装飾(Source:kunstplaza.de)

ロココの装飾要素として、非対称性を初めて建築にもたらし、これまでのバロック様式の対称性を大胆に解体して人気を博した。ロココ時代の芸術家がみな貝殻で装飾したわけではなかったが、その遊び心のある様式はバロックの持っていた哀愁に対する抵抗を示すとともに、新たなバリエーションをもたらした。ロココで最初に目を引くのは、その溢れんばかりの装飾だろう。ペーターホーフ城(Schloss Peterhof)やシュヴェツィンゲン城(Schloss Schwetzingen)もあまたの装飾で覆われている。

まったく新しいアイデアにより、バロックの最も重要な要素の 1 つである厳密な対称性は放棄され、巻きひげやつるつる植物の意匠、波線や曲線が多様されることとなった。

教会や建物の室内装飾、家具や手工芸品については、彫刻家、大工、刺繍師などが信じがたいほどの精密さなデザインを実現し、数々の素晴らしい作品を残した。こういったバロックとロココの明確な相違点に注目し、インテリア デザイナーや美術工芸家は、ロココを後期バロックとは厳密に区別し、別の時代として見なしている。
こういった装飾が全面に押し出されることにより、建築自身が持っていた豪華さは失われれ、城は小さくなり、メインの建物は実際に執務が行われる建物から分離される結果となった。宮廷には豪華な広間以外にも小さなプライベートルームやプライベートの小さなパレスが建てられ、軽やかなデザインと遊び心と共に、エレガントなディテールが再現されていた。装飾に対する新たな欲求とともに、権力への崇拝は衰退していった。そういった感情は宮廷社会にとってそれほど重要でなくなったのだった。

この頃の領主たちも単なる華やかさには退屈しており、フランスで流行していたロココは、ドイツの宮廷生活にも繊細で洗練された優雅さを持ち込んだのだった。

フランスのルイ 14 世でさえ、自身の生活を崇高なバロック様式で飾っていた。ルイ14世は自身に対する信者 である貴族を宮廷に留めることで、自身の望み通りに操ろうとした。ロココ時代には、文化的なライフスタイル、細やかな生活態度、研ぎ澄まされた感覚、優雅な社交マナーを養うために、人々は私生活へと引きこもった。

インテレクチュアルな分野では、すでに歩み寄る啓蒙主義時代の最初の先駆者もこの文化の一部であった。トマス・ホッブス (Thomas Hobbes)、ジョン・ロック (John Locke)、モンテスキュー (Montesquieu)、イマヌエル・カント (Immanuel Kant) は重要な作品を著し、ゆっくりとしかし確実に啓蒙主義がその広まりを見せていた。
1700年頃以降、合理的な思考というものが確立され、理性が普遍的な判断基準として登場することとなった。領主だけでなく、市民にも建築家にもこの考えは広まった。こういった新しい思考方法は建築にも影響を与えた。啓蒙主義の芸術としてのロココは、従来は名誉なことであったはずの教会のプロパガンダであったり、領主を讃える表現としての役割を担うことを拒絶したのだった。

ロココの装飾には、波線やアラベスク以外にも不思議で奇妙な点がいくつかある。一見上品に引き締まった表情も、注意深く観察すると、グロテスクに誇張されていたり、皮肉として解釈できるようなポイントもあり、観る者を飽きさせない。しかし、こうした装飾品や石膏による過度なデザイン、壁や天井全体を覆うように描かれたフレスコ画は、まるで精神の自由な広がりを埋めてしまうかのように、建物のスペースを呑み込んでしまい、しまいには、合理的に許容できる装飾の限界を超えてしまうのだった。つまり、日常生活を行う上で視覚に耐えうる限界を超えた過剰な装飾が見られるようになったのだ。

ある時点で非常に洗練されていたはずのデザインは陳腐になり、優雅さは安っぽく見え、画期的であった装飾も退屈になり、享楽は拷問へと代わってしまったのだ。啓蒙主義についての議論が行われ、啓蒙の光が当たった人々ほど、装飾過多のサロンにいることを場違いに感じだしたのだ。こうして啓蒙主義によって引き起こされる革命が起こる直前の1770年頃に、ロココ様式が古典主義(Klassizismus)に取って代わられるのはある意味で当然の帰結であった。

参考:

kunstplaza.de, “Baukunst in Deutschland – Kitsch as Kitsch can oder Rokoko?”, Lina Sahne, https://www.kunstplaza.de/kunststile/baukunst-in-deutschland-kitsch-oder-rokoko/

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