【ドイツの歴史】ノイス包囲戦 | ブルゴーニュ公シャルルの侵略

ノイス

デュッセルドルフ近郊の小さな町ノイスを舞台とした包囲戦

現在はデュッセルドルフの一地区となっているノイスだが、15世紀にはブルゴーニュ公シャルルによって町が包囲される事態を経験している。《ノイス包囲戦》として知られるこの戦いは、小さな町であったノイスがブルゴーニュの大軍に包囲されながらも1年近くもの間戦い抜き、最終的に帝国軍の援護を受けて、陥落を免れたことで後世に語り継がれている戦いだ。

イングランドと組んだブルゴーニュは、フランスとドイツに対して戦争を仕掛けていた。ブルゴーニュ公爵シャルル豪胆公(Karl der Kühne)はケルン大司教領に侵入し、小規模ながらも要塞化された町ノイスを包囲した。対するノイス側の防衛はヘルマン・フォン・ヘッセン(Hermann von Hessen)司教が指揮を執っていた。司教は1,800人の兵士を駐屯させ防衛に当てていた。

ブルゴーニュ公爵は3,000人のイングランド兵と3,000人のイタリア兵からなる傭兵部隊を指揮し、最初の攻撃によって町を降服させたいと考えていた。彼の指揮下にあったイングランド軍は勇敢にノイスを襲撃したが撃退され、かなりの損失を被った。この第一陣の攻撃が失敗に終わった後、ブルゴーニュ側はノイスを四方八方から取り囲んだ。

ノイスの街は、エルフト川(Erft)がライン川に流れ込む河口のすぐ上流に位置している。ライン川の中州はノイス側の兵士が占領しており、ケルンからやってくる船のアクセスを容易にしていた。これにより、包囲された市の城壁内部の人々に食料を供給することができた。ライン川の右岸は15,000人の強力なドイツ軍が防御しており、食料が川を渡って運搬されるルートを守っていた。

この状況を分析したブルゴーニュ公は最初にこの島を征服することにした。イタリア軍がこの任務に自ら志願した。彼らはライン川の浅瀬を使って島に渡ろうと考えた。しかし、ライン川の流れは強すぎ、数回失敗した後、イタリア軍は一旦撤退する必要があった。シャルル豪胆公はその中島を氾濫させるためにライン川にダムの建設を命じた。同時にノイスへの攻撃をより自由に行えるように浅瀬を迂回させた。ダムの建設作業はすぐに開始されたが建設完了までには時間がかかった。

一方、皇帝フリードリヒ3世はケルンと多くの帝国諸侯による緊急要請に応える形で、ノイスを支援するために2万人の軍隊を派遣することを約束した。しかし、軍隊の編成と戦闘準備には長い時間がかかり、ブルゴーニュ公爵は次の数週間から数ヶ月間、皇帝軍に邪魔されることなく包囲を続けることができた。シャルル豪胆公は、この戦いの後、イングランドと組んでフランスと戦争を行うことを考えており、対フランス戦に専念するためにもできるだけ短期間でノイスを落としたかった。ノイス包囲戦はすでに6か月にも及び、都市は四方八方を囲まれ、外部からの援助は絶たれ、町へのあらゆる供給が遮断された。その結果、食糧だけでなく、防戦用の弾薬や火薬にも事欠く事態となった。

11月、ようやく神聖ローマ皇帝フリードリッヒは60,000人の軍隊と共にアンダーナッハ(Andernach)に到着。皇帝軍はノイスから少し離れたところで立ち止まったのだが、ブルゴーニュ公爵は自軍が陣営内に閉じ込められることを回避し、ドイツ軍に対峙できるよう、自軍の一部を包囲網から撤退させなければならなかった。フリードリヒ皇帝の援軍が到来した結果として、ブルゴーニュ側の包囲が緩んだことで、ノイスにはケルンからの援助物資の一部が再び搬入されはじめた。

デンマーク王はブルゴーニュ公に調停を申し出、自らブルゴーニュの野営地へと行き、そこで2か月間滞在した。しかしシャルルはどうしてもノイスを占領することを望み、この戦闘に勝たずして戦場を離れる気はなかったので、調停は失敗に終わった。

1475年、皇帝フリードリヒは未だブルゴーニュ軍を攻撃することなく、敵陣と対峙を続けるだけだった。一般的に、フリードリッヒは戦争指揮ついての知識が乏しいと考えられている。フリードリッヒは攻撃を仕掛けるよりもさらなる援軍の到着を待つことを優先したが、援軍の到着は遅れに遅れ、結局、敵を攻撃するベストなタイミングを逃してしまった。さらに、フランス王はドイツ軍を支援するために2万人の兵士を派遣しないという自身の約束を破った。
待ちわびていた帝国軍がついに到着し、フリードリヒ3世の軍隊に加わったのは、もう春が到来しようとする頃であった。フリードリッヒ・フォン・アンダーナッハ(Friedrich von Andernach)もついにケルンに向けて前進を決意し、3月20日にケルンに到着。 4月中旬に彼はノイス方面へと移動し、ブルゴーニュ軍の対面に陣取った。彼の戦力は今や10万人ににも上り、圧倒的な優位性を誇っていたにもかかわらず、攻撃の目的はノイスにさらなる援助物資を輸送することに定め、攻撃は小規模なものだけに限定した。

5月24日になって大規模な戦闘が発生。両軍はエルフト川を挟んで対峙していた。ドイツ軍は右翼をライン川方面に、左翼を丘へと移動させた。ブルゴーニュ軍は浅瀬を越えてエルフト川を渡り、敵の左翼を攻撃した。ブルゴーニュ軍が攻撃を開始し、ドイツ軍の野営基地は混乱に陥った。ブルゴーニュの槍騎兵は敵軍の塹壕を急襲するべく、イングランド軍の弓騎兵と共に前進した。

カンポ・ボッソ伯爵(Campo Bosso)率いるイタリア騎兵隊は、逃亡中のドイツ兵を敵陣営まで追撃し大打撃を与えた。その後、ドイツ軍は3,000人の騎手で出撃を試みたが、イタリア軍によって撃退されてしまう。ミュンスター司教のハインリッヒ・フォン・シュヴァルツェンベルク(Heinrich von Schwarzenberg)は5,000人のドイツ軍の軍団長を自ら務め、激しい抵抗の末、ブルゴーニュ軍を押し返すことに成功した。

しかし、シャルル豪胆公が新しい軍隊を再編したとき、彼はミュンスター司教ハインリッヒ・フォン・シュヴァルツェンベルクを再び押し戻した。ドイツ兵の多くがライン川を越えて逃亡を図ったときには日が暮れ出しており、戦闘は中断された。

この戦闘の後、スイス軍とフランス軍が後方からブルゴーニュ軍を脅かしていたため、シャルル豪胆公は交渉のテーブルに着くことを余儀なくされ、6月9日に和平が成立した。

皇帝フリードリヒ3世は帝国軍に対する権限をほとんど持たなかった為、ブルゴーニュ軍との和平交渉にあっても、皇帝の意に反して、偶発的にブルゴーニュ陣営に対する攻撃が行われた。こうして継続的な小競り合いが起こったが、シャルル豪胆公はまずドイツ軍を撤退させ、その後、和平条約のとおりノイスの包囲を解いたのは、包囲開始から10か月後の1475年6月27日であった。

参考:

deutschland-im-mittelalter.de, “Die Belagerung von Neuss”, https://deutschland-im-mittelalter.de/Militaer/Liste-Belagerungen/Neuss

hofvanbusleyden.be, “Das Lager Karls des Kühnen bei der Belagerung von Neuss 1475”, Adriaen Van den Houte, https://www.hofvanbusleyden.be/das-lager-karls-des-k-hnen-bei-der-belagerung-von-neuss-1475

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