【ドイツ観光】ルターハウス – ヴィッテンベルク

ヴィッテンベルク

ルター ハウスは 1504 年にアウグスチノ修道院として建てられた。当時は、アウグスチノ修道士のローブの色から「黒い修道院」という名前で知られていた。マルティン ルターも 1508 年から修道士としてここで暮らしていたが、宗教改革の過程で修道院は解体されている。ルターは 1532 年にこの家を与えられ、家族と妻のカタリーナ ・フォン ・ボラと一緒に暮らした。

1580 年代半ばに建てられた正面の建物は、大学のパトロンであったザクセンのアウグスト 1 世を記念して、アウグスティウムと名付けられた。 1844 年、ルターハウスはフリードリッヒ・ アウグスト・ シュトゥーラー(Friedrich August Stüler)によって 40 年間にわたって徹底的に改装されている。シュトゥーラーは建築家であると同時にプロイセンの高官でもあった人物で、ベルリンの新美術館(Neue Museum)の建築で知られている。

ルター学校は 1937 年まで家屋の 1 階にあり、1883 年には最初の部屋が博物館としての目的で使用されている。レウコリアのアウグスティウムは現在、ルター記念財団の特別展の場所として使用されており、ルターハウスは 1996 年以来、ユネスコの世界遺産に登録されている。

カタリーナ・フォン・ボラの銅像(筆者撮影)

この家でルターと一緒に暮らした妻のカタリーナ・フォン・ボラの銅像。カタリーナ・フォン・ボラは、ザクセン地方貴族の娘として生まれたが、貴族とは名ばかりの貧困家庭であった。カタリーナは、幼いころに母親と死別したことから、10歳になると叔母が院長を務める女子修道院に預けられた。当時、教育目的や口減らしのために子どもを修道院に預けることは珍しくなかった。一生寝食の心配もなく、しかも教育を受けることが出来たからだ。ただし修道女の結婚はタブーであった。カタリーナと修道女たちは、ヴィッテンベルクに住む宮廷画家ルーカス・クラーナハ家に落ち着き新生活を始めた。

クラナッハ夫妻は、1525 年 6月13日の結婚式の日に、カタリーナ フォン ボラをヴィッテンベルクの黒修道院に連れて行った。そこでカタリーナ・フォン・ボラとマルティン・ルターは友人たちの前で結婚した。夫婦は選帝侯ヨハン 2 世が改革派に利用できるようにしたヴィッテンベルクにある旧アウグスティヌス修道院(現在のルターハウス)に定住。カタリーナ・フォン・ボラは広大な地所を管理し、家畜と醸造所を経営して、ルターや彼の学生の世話をし、訪問客を受け入れた。ペストが流行した時には、彼女はホスピスも経営し、彼女と他の女性が病人の世話をした。

ルターハウスの内部(筆者撮影)
クラナッハ作《十字架のキリスト》(筆者撮影)

1571年、キャンバスに油彩。ルターは1538年に宗教改革の発見の本質を次のように要約している。「言葉に注意を払う者、私を信じる者は、最後の審判を恐れる必要はない。」クラナッハはこの作品で、十字架に架けられたキリストを孤独な姿で描いている。十字架の後ろに掲げられた板には、次のような文章が書かれている。

「私を観察する人間よ、自分自身と自身の罪を観察せよ。お前が死に値しないのであれば、私は死ぬ必要がなかったのだ。」

ルターの説教壇(筆者撮影)

1511年頃、ルターはヴィッテンベルクの修道院内で説教を開始した。遅くとも1514年からは、彼は定期的に市の教区教会で説教を開いた。そこでは、福音を描いた木製の説教壇を使用した。ルターはたいていの日は、一日に3度も4度も説教を行ったという。2000回以上も説教は行われたという。彼の説教は人々をわくわくさせるものであり、彼は多くの人々を改革へと動かした。

ルターの書斎跡の一部(筆者撮影)

ルター邸の裏のスペースは、13世紀から町の堀の一部だった。1515年以降、黄色いレンガで出来た4階建ての建物が町の堀に建てられた。部屋のサイズは8m×8メートルで、古い図面でも確認できる。1519年5月に書かれたルターの手紙によると、この建物はもともとプリオール・コラート・ヘルト(Prior Konrad Helt)の住居であった。1532年以降、7メートルの高さの壁が建てられ、それまでエルベ川まで見えた素晴らしい見晴らしは失われてしまった。建物の地下室には、二つの部屋があり、西側の小さな方の部屋には、トイレのある南側には窪みがあった。もう一つの部屋についた錆の跡からは、この部屋が暖房で温められていたことがわかる。地上階には床暖房が備え付けられていた。小さなストーブから出る熱気は、床下の導管を通って、部屋を暖めていた。ルターのディナー後のスピーチや手紙からわかることは、ルターが1522年以降、この建物を書斎として使用していたことだ。

《十戒》ルーカス・クラナッハ年長の作、1516年、木版に油彩

1516年、ルーカス・クラナッハ(年長)は、市議会から旧市庁舎の法廷に絵を描くよう注文を得た。それぞれのシーンが漫画のように構成されている。ほとんどのシーンで、与えられた戒めの順守と不服従が示されている。善と悪を擬人化した天使と悪魔の描写。貴族は身に着けたその派手な衣装で観客の目を惹きつけるのではなく、もっとも頻繁に戒めを破っているように見えるからだ。十戒を与えることによるノアと神との最初の契約の象徴として、虹が配置されているのは非常にユニークなデザインだ。左下にはザクセンの紋章が見て取れる。この絵画が描かれたとき、ルターは十戒について説教を行っており、多くの信者を惹きつけていた。

人間は、特定の状況下で、神の前で執り成しを行ったり、特定の状況下では人間を助けさえするような能力を聖人に与えてきた。ルターの意見では、聖人崇拝は最初の戒律に背き、救いへの唯一の道であるイエス・キリストの存在を軽んじているのだった。従って、ルターは聖人崇拝、または聖人の肖像画や彫刻作品であっても拒否した。しかし、神の母である聖母マリアに対しては深い敬意を示し続けた。ヴィッテンベルク大学のクリストフ・ショイル(Christoph Scheurl)教授は、ヴィッテンベルクの城教会にも同様の二重ピエタ像があったと報告しているが、その作品は偶像破壊の犠牲になったと考えられる。

(手前の本)カトリック教会のミサ典礼。シュトラスブルクの印刷家、ラインハルト・ベック(Rheinhard Beck)による1518年の作。教会歴(Kirchenjahr)の祝祭の為に使用される晩餐典礼。ケルン出身の印刷家、ラインハルト・ベックは、1511 年にシュトラスブルクの市民となったが、 ペストのため、1511 年に印刷機を持ってバーデン バーデンへと一時的に避難している。1512 年にはストラスブールへと戻り、1522年に他界している。現在では約40点の作品が残っている。

(背景の衣服)16世紀に作られた聖母マリアの意匠が施されたカズラ(Kasel)。カズラとは、カトリック教会や一部のルーテル教会の司祭が着用する祭服の一種で、頭からかぶる菅頭衣のこと。この衣服は16世紀のマリア崇拝の為に作成されたと考えられる。

①ハルバード(Helebarden:先がカギ状になった槍)と一本の槍。ドイツとイタリアの16世紀ごろの作。木製の棒に鉄製パーツ、②鎧の胴当てと鉄兜。1520年の作。③大砲の筒。16世紀。アイスレーベン市からの貸与品。④大砲の玉。16世紀、鉄製 ⑤農民の武具。スイスもしくは南ドイツ製。16世紀初頭。農民や市民は領主に対して兵役義務を負っており、自費で武器や防具を維持する必要があった。農民戦争の間、農民たちは鍬や鎌などを改造した武具を用いた。軍事教育を受けた傭兵が農民を支援した場合には、農民軍も一時的に軍事的な成功を収めることができたが、そうでない場合は、1525年のフランケンハウゼン(Frankenhausen)で起こったような大虐殺は不可避であった。

《論争の際の議長のデスク》ヨハン・ヤコブ・マルチャント(Johann Jacob Marchand)の作。1685年以降の作。彫刻を施された木材に、金メッキなどが施されている。講師は定期的に繰り返される学術論争を担当していた。論争の議長は、学生たちが自説を弁護し、異説を攻撃する論文の提出を行った。最下部には、哲学、神学、法学、医学の各学部の紋章が描かれている。中央にはルターの肖像画が描かれており、その上には、キリストの磔刑像とヘブライ語の文字が描かれている。

ここは、マルティン・ルターが友人や同僚と有名なテーブルトークを行った部屋だ。1階の食堂で夕食を食べた後、少人数のグループがここに集まって語り合った。参加者は後世の為にルターの語ったことを記録に残した。リビングルームは、1535年から1538年の間に備え付けられれた。床の一部、テーブル、チェストシートやベンチは、当時の調度品の一部であった可能性が極めて高い。写真の右端に見える黒いストーブは1602年に作られた。部屋は1602年から1630年に塗られた。1655年には、ルターの部屋は《ルター博物館》(museum lutheri)として紹介されている。

ルターが住んだ当時の調度品と考えられるテーブル(筆者撮影)

多くの訪問者が、壁にチョークで碑文を残したが、そのほとんどは19世紀に取り除かれた。しかし、1712年にツァーリであったピョートル大帝がヴィッテンベルクを訪れた際には、西側の扉に描かれた彼の名前はそのままに残されていた。このルターの部屋は、2016年から2017年にかけて大規模な改修が行われた。

16世紀の印刷機を1983年に模倣したもの。ルターの著作の最初の印刷者は、大学の印刷者であったヨハン・ラウ・グルーネンベルク(Johann Rhau-Grunenberg)であった。1513年から1517年の春まで、グルーネンベルクはアウグスティヌス修道院もしくはその周辺で印刷工房を経営していた。

シャドー作のマルティン・ルター像(筆者撮影)

石膏による作品。1807年作。この彫像を作ったヨハン・ゴットフリート・シャドー(Johann Gottfried Schadow)は、ベルリンのブランデンブルク門の上に《クアドリカ》の名で知られる馬車に乗る女神のモニュメントを作成した人物だ。ルターの足跡を辿って旅行をした後、1806年にシャドーはルターの胸像を作成した。モニュメントを巡る取り組みは、1809年に政治情勢により中断する。1815年にプロジェクトが復活すると、プロイセン王が計画を引き継いだ。フリードリヒ・ヴァインブレナー(Friedrich Weinbrenner)やカール・フリードリッヒ・シンケル(Karl Friedrich Schinkel)など数人の芸術家が新しいデザインを提出しており、ゲーテもこのテーマにおいて3つのスケッチを行っている。

参考文献:

“【世界から】ルターの宗教改革から500年 偉業支えた「強い妻」”, 共同通信、15.08.2017, https://www.47news.jp/102817.html

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