ミュンスター市立博物館

ミュンスター

ミュンスター市立博物館(Stadtmuseum Münster)は、1979年に開設されたが、建物が手狭だった為に、1982年に現在の場所に移っている。現在の建物は、デパートが入っていた場所で、建物の外観はその頃のものが現在も使用されている。2階と3階が常設展示を行っている階であり、総面積は2,500㎡の展示スペースは33の展示室に分かれている。2階はミュンスター市の創設から19世紀のプリンス・ビショップ(諸侯としての地位、つまり世俗的な権力をもつ司教)時代の終わりまでの期間、3階は現代に関するテーマを扱っている。

市立博物館の設立後、1604年頃にミュンスターで生まれたバロック画家ヨハン・ボックホルスト(Johann Bockhorst)のコレクションが新たに開設された。 ボックホルストは、アントワープでピーター・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens)の親友であり、またアンソニー・ヴァン・ダイク(Anthonis van Dyck)の友人であった。

この博物館のみどころは、16世紀にミュンスター市が再洗礼派に支配されていた頃に関連する展示物だ。再洗礼派のリーダーが拷問、処刑されたときの状況を物語る血なまぐさい品々も展示されている。そして、ミュンスターは、オスナブリュックとともに三十年戦争の講和条約であるヴェストファリア条約が結ばれた場所であり、その為、三十年戦争に関する展示物も豊富である。

墓石の断片。バウムベルク砂岩。12世紀半ば。発見場所:ミュンスター大聖堂。1987年に大聖堂の聖ヨハネ聖歌隊席で発掘調査が行われ、11世紀から13世紀頃のレンガ造りの墓がいくつか発掘された。1140年から1142年まで大聖堂の首席司祭であったランベルトゥスもしくはレンベルトゥス・フォン・ミュンスターの可能性がある。

ミュンスター大聖堂の角柱の柱頭。砂岩、ミュンスター、1220/1250年頃。1945年頃、ミュンスター市立博物館。この柱頭は、ミュンスター大聖堂のがれきから発掘されており、建物のブロックとして壁で囲まれていたと思われる。調査の結果、1225年頃に始まり、1265年の奉献で終わった3番目の主要なロマネスク建築段階に由来すると思われる。

諸侯司祭ヘルマン2世・フォン・カッツェンボーゲン(1173ー1203)の墓石。1220年頃、マリエンフェルト修道院の教会で砂岩で作られたオリジナルに基づくレプリカ。

ヘルマン2世・フォン・カッツェンボーゲンは、中世の最も重要なミュンスター司教の一人であった。テックレンブルク伯爵(Tecklenburg)が1174年頃にミュンスター教区のフォークト権(Vogteirecht: 神聖ローマ帝国における代官または代弁人であるフォークトが、その領地の守護と裁判をつかさどる領主の権利)を売却した後、ヘルマン2世は最初の諸侯兼司教となり、ミュンスター修道院とミュンスター市長となった。ヘルマン2世は、1200年以前にミュンスターでの職を辞し、1185年に自身が設立したマリエンフェルト修道院に隠居した。1203年、ヘルマン2世はそこで修道士として亡くなり、修道院教会の合唱隊席に埋葬された。

ランドベルゲナー都市同盟(Landbergener Städtbund)。ランドベルゲン条約。1246年5月22日付けのオリジナル文書。ミンデン市立博物館。市立アーカイブ。

ランドベルゲナー都市同盟は、ミュンスターとオスナブリュックの両市の間で都市領主に対する防衛同盟であり、1246年にランドベルゲンで締結された。ミンデン、コースフェルト(Coesfeld)、ヘルフォルト(Herford)の各都市もこの同盟に属した。ミュンスターとオスナブリュックの司教たちによる同盟と同様に、私闘のは、ヴェストファリアの商業都市の活動を脅かした。同盟は、貿易、輸送、市場における市民の安全に関する規定を定めた。貴族による攻撃は、加害者に対する制裁が行われた。ランドベルゲナー同盟は、ヴェストファリアの貿易都市の重要性が増したことを意味していた。

刻印入りの銅椀。銅合金、型押し、彫刻。12/13世紀。発見場所、ミュンスター。中世には、ミュンスターで様々な商品の製造に多くの職人が雇用されていた。それにもかかわらず、多くのオブジェクトは、他の地域からも取得された。4人の天使の存在で非常に単純化された装飾が見て取れる。このようなボウルは、バルト諸国、ライン川中流地域、ドイツ中部など、リューベック、シュヴェーリン、ハーメルン、ヴォルムスなど様々な場所で作られた。

魂をもった天使。バウムベルク砂岩。ヨハン・ヴォルト(Johann Wolt)作。1460年頃。ミュンスター博物館。この像は、おそらく善良な泥棒の魂を天国に運んだ磔グループから来ている。頭部の形とひだのスタイルから、ミュンスターの彫刻家ヨハン・ヴォルトの作品であることがわかる。

天使。ヴェストファーレン。15世紀初頭、ヘルスター門の再洗礼派によって壁に囲まれ、1979年の建設作業中に再発見された。この後期ゴシック様式の天使は、より大きな文脈、おそらく磔の描写、またはマリアの戴冠式の一部でキリストの血を集める為に、聖杯を持っている。

ヤン・ファン・ライデンの王のチェーン。ヤン・ファン・ライデン治世下のバプティスト派のターラーの金印付きネックレス、金。16世紀。個人コレクションからの貸与。

この金の鎖は、ヤン・ファン・ライデン王のものであったと言われている。

十二長老支配下の貨幣。再洗礼派が引き継いで財産共同体が導入された後、ミュンスター市では通貨経済が廃止されたが、再洗礼派は1534年3月から8月まで、12人の長老の助言のもと、低地ドイツ語で聖書からの引用を含むプロパガンダ銀貨を鋳造した。目的はアナバプティストの信念を広めることだった。ハーフターラーは、1ターラーの重さで、ミュンスターの新しい支払い方法であった。

ミュンスターの剣。鋳造、革で覆われた木製の柄。1550年頃。ミュンスター市立博物館蔵。ミュンスター市は、市民に対して血統管轄権を持っていたので、死刑宣告を下すことができた。元の三本の剣のうち、2本は現在も保存されている。この剣はもっとも古いもので、19世紀に市議会が最後の死刑執行人の未亡人から入手したものである。

拷問用の首輪。鉄、鋳造、16/17世紀。ミュンスター市立博物館。この拷問器具は、犯人の自白を引き出す為に使用された。拷問を受け、実際には犯していない自白を行うこともあった。このような拷問器具は、魔女裁判でも使用された。ずいぶん昔からミュンスターの市庁舎に保管されていたこの標本の年代と正確な用途については、これ以上何もわかっていない。複雑なロック機構があり、一度首にかけると二度と開けることはできない。

1624年の聖マウリッツ、1625年、37年、ケーニッヒスヒルデン・都市の地区に応じて、都市防衛を組織し、小教区に限定されたライフル兵のギルドが設立された。

134個の王家の盾がついたチェーン。1557年に再建されたグレートライフルカンパニーは、市民の軍事訓練に貢献することを目的としていたために、王室の射撃など、評議会からの強力な支援を受けていた。王は1年間の免税を受けていた。都市防衛は1589年までギルドによって組織されていた。

市民将校の武器。6本の鉾(ハルベルデ)。1600年頃。ミュンスター市立博物館。これらの武器は旧市街の所有物であった。将校と下級将校は、武器によって認識できた。

ヤン・バエゲルト(Jan Baegert)の作。オーク材にテンペラ画法。1505年~1510年。この作品は、ヴェ―ゼル(Wesel)出身の画家、ヤン・バエゲルトの作であり、クレメンス病院の所有であった。ヤン・バエゲルトは、ヴェストファーレンのクライアントの為にも働いていた。この祭壇画には、中央部分の2枚が欠落している。マリアの生涯を表した作品だが、一番最初の「マリアの誕生」には、ベネディクト派の依頼主がろうそくを持っている姿で描かれている。

フランツ・フォン・ヴァルデック司教(Franz von Waldeck)ヴィットリオ・アンドレアス(Vitorio Andreas)の作品のレプリカ。この作品は、イーブルク城(Schloss Iburg)にあるオスナブリュック司教の肖像画ギャラリーの為に作成された。1656年の作。1532年6月1日以来、フランツ・フォン・ヴァルデックはミュンスターの司教を務め、絵画下部の碑文には、彼の功績として、ミュンスターの再洗礼派に対する勝利について言及している。

鉄のかご。1535年製のオリジナルのレプリカ(1888年の作)。3名の再洗礼派指導者は処刑された後、この鉄籠のなかにそれぞれ入れられ、遺体は埋葬されることがなかった。見せしめの為に、この鉄籠にいれらた彼らの遺体は、ミュンスター市の中心にあるランベルトゥス教会のプリンシパル・マルクトに面した側に吊るされた。オリジナルの鉄籠は、現在でもランベルトゥス教会に吊るされている。

鉄製の拷問器具。16世紀前半。1536年1月22日、3名の再洗礼派指導者が、ミュンスターの中心地であるプリンシパル・マルクトで、拷問にかけられ処刑された。拷問に用いられたのは、火にくべられて真っ赤に熱せられたこのトングであり、拷問の後、3名は短剣で刺され、処刑された。この博物館の展示物は、何世紀にも渡って出所を特定できるため、本物であると考えられている。1536年の出来事を忘れない為、1848年頃まで市庁舎に掛けられていたという。

ヤン・ファン・ライデンの鎧。鉄と革製のベルト。16世紀前半。ミュンスター市は、この鎧を1558年に取得している。この甲冑は、長らくヤン・ファン・ライデンのものと考えられていたが、年代の調査の結果、ライデン所有のものではなく、当時の鎧のひとつであると考えられる。

ヤン・ファン・ライデンの肖像画。作中のライデンが身についていているのは、ローブ、リング、チェーンであり、これらは王の階級を示唆しており、王位を継承した者や、選帝侯よりも優れていることを示している。本や巻物は、預言者の印として描かれる。地上における全能への欲求と差し迫っていた処刑との間には矛盾が感じられるが、ライデン自身の署名がそれを物語っている。「ほんの短い時間だったが私はそれ(王)であった。」(Ich war es nur kurze Zeit.)保存上の理由から、1536年の銅版画は公開されていない。

ミュンスター市庁舎における、スペイン₋オランダの和平条約締結。1670年のジェラルト・テル・ボルヒ(Gerard Ter Borch)作のレプリカ。1648年5月15日、オランダとスペインの大使が、ミュンスター市庁舎内の会議室で会合を行い、同年1月30日に合意に至っていた平和条約の履行を誓った。

(左)トルコ軍の鎖帷子。クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレンは、対トルコ戦において帝国司令官の一人に選出されたが、オーストリアと国境を接するハンガリー西部の町、ザンクト・ゴットハルト(ハンガリー名:Szentgotthárd)で行われた「ザンクト・ゴットハルトの戦い」(St.Gotthardt)には参加しなかったと思われる。フォン・ガレンは主に物資の編成を担当し、大砲と3,000人の歩兵を提供した。しかし、彼の財産には、このザンクト・ゴットハルトの戦いの戦利品も含まれており、この鎖帷子もその一部である。

(中央・右)ハンガリー軍の兜と騎士の鎧。1660年/70年頃の作。ケルン市立博物館蔵。甲冑はゴシック様式の装飾で飾られ、胸当てにはクロス・モーリン(Cross Moline:先が二股に分かれた十字架)が施されている。中世の十字軍の伝統に対するプリンス・ビショップ(諸侯としての地位、つまり世俗的な権力をもつ司教)の意識的なつながりが示されている。

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