捕らわれた英国王

シュパイヤー

中世史で必ず名前が出てくる、イングランドのリチャード1世(Richard I.)。その肩まで伸びたブロンドの髪と、何者をも恐れない勇猛果敢な性格から、リチャード・ライオンハート(獅子心王)と呼ばれた。彼はイングランド王に即位するや否や、十字軍遠征の為の資金を確保し、1190年の夏に遠征に出発した。フランス王フィリップ2世や、バルバロッサの愛称で知られる神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世とともに十字軍を指揮している。

この半ば伝説と化したイングランド王だが、彼の足跡はドイツにも残っている。リチャード獅子心王は、第3回十字軍からの帰途、その権力の絶頂期に敵のレオポルト5世により捕らえられた。その後、レオポルト5世はリチャードを皇帝ハインリヒ6世(Heinrich VI.)に引き渡したのだった。リチャードはトリフェルスのライヒスブルク、現在のアルザスにあるハーゲナウ(Hagenau)の皇居、そしてライン川上流の主要都市であるシュパイアー、ヴォルムス、マインツで1年以上に渡って監禁されたのだ。

ことの顛末は次のようなものだった。第3回十字軍はフランス王や神聖ローマ皇帝など、当時、欧州を代表する君主が一堂に会したことにより、大きな注目を集めた。しかし、彼らはたがいに反目し合い、満足のいく結果は得られなかった。

神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世は、エルサレムへの道中に水死。リチャードとフランス王フィリップ2世とも次第に関係が悪化し、対立関係に発展していった。一緒にアッコンを攻め落とすことに成功した、オーストリアのレオポルド5世とも功を巡って対立している。そしてこれが、後にリチャードがドイツで幽閉される事態へと進展していく。

フィリップ2世やレオポルド5世が帰国した後も、リチャードはひとり戦闘を継続したが、結局エルサレム奪還は実現できず、1192年9月2日に帰路についている。そして、オーストリアを通過しようとしたとき、恨みを買っていたオーストリアのレオポルド5世に捕らえられ、デュルンシュタイン城(Dürnstein)に幽閉されるのだった。

リチャードが引き渡されたシュパイヤー大聖堂

年が明けたシュパイアー。1193年3月21日、オーストリアのレオポルト5世は囚人となったリチャードと共にシュパイアーに入った。1193年3月22日から25日まで開催されるシュパイアー帝国議会に参加する為である。会議2日目の3月23日、シュパイヤー大聖堂の前でレオポルト5世が獅子心王リチャードをハインリヒ6世に引き渡したのだった。この会議では、獅子心王ことイングランド国王リチャード1世が参加した第3回十字軍での「犯罪」について、シュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が訴えを起こした。

ハインリッヒの足にキスをするリチャード(ベルン市民図書館蔵)

リチャードに対する申し立てのリストは長く、その中には殺人の陰謀や十字軍の反逆罪も含まれていた。しかしリチャードはキリスト教の指導者として既に名声を得ており、ローマ皇帝ハインリッヒに対しても、論理的かつ感動的な議論を展開し、自身を巧妙に弁護した。おそらくリチャードは自分に対して同情的な皇太子や他の出席者の感情を見透かしており、そこを巧みに突いたのだった。また、リチャードは、反対派の諸侯たちと決闘裁判さえ要求したが、当代きっての勇敢な騎士であるリチャードと相対しようとするものは誰もいなかった。これは一種の「見せしめ裁判」であり、たとえ起訴状が取り下げられたとしても、リチャードは3月23日に囚人として計画通りに皇帝に引き渡されたのだった。 2日後、シュパイアー帝国議会は、ケルン・シルバーマルク(Kölner Silbermark)の重量換算で、100,000マルク相当の銀を身代金として、その支払いと引き換えに、リチャードの釈放に合意した。ケルン・シルバーマルクの重量換算では、シルバーの重さは約233グラムであったので、身代金は約23.3トンの純銀であった。

イングランドによって身代金が支払われるまで、リチャード獅子心王はさまざまな場所で数か月間人質生活を送ることとなった。1193年、リチャードはシュパイアーで復活祭を過ごしている。シュパイヤーでの勾留生活の後は、トリフェルスのライヒスブルクへと輸送された。ライヒスブルク・トリフェルスは、シュタウフェンの支配の中心部にあり、四方が激しく傾斜した岩だらけの高原に建てられたため、シュタウフェン朝にとって最も安全な場所の1つであった。リチャードは、1193年4月の初めにハーゲナウの皇居に連れて行かれる前に短期間だけここに拘留され、ここで再び皇帝ハインリヒ6世と会っている。

トリフェルスのライヒスブルク

この後もリチャードはヴォルムス、マインツ、シュパイアーへと輸送され、それぞれの勾留地で文書を発行し、イングランドからの使者に会い、手紙のやり取りを行い、自身が治める国の行く末を指示した。辛い勾留生活を強いられていたリチャードは、1194年のクリスマス直前に書いた、教皇ケレスティヌス3世(Coelestin III.)への手紙の中で「…そして私をまるで牛かロバかのように皇帝に売ったのです!」と不平をぶちまけている。

その在位中イングランドに滞在することわずか6ヶ月であったが、ドイツを含む幽閉生活は1年近くに及んだ。この時、次のような伝説が残っている。ブロンデル(Blondel)という吟遊詩人が、リチャードが幽閉された先を確かめるべく、城という城を渡り歩き、夜な夜なリチャードの好きな歌を歌ったという。リチャードが幽閉されていれば、返事の歌がかえってくるはずだというわけである。ブロンデルは見事リチャードの幽閉場所を見つけ出し、救出に尽力したとされるが、実際には、イングランドから身代金が支払われたのだった。

1194年2月の初め、リチャードの母親であるアキテーヌのエレオノーレ(Eleonore von Aquitanien)は、この莫大な金額をマインツで皇帝に支払い、リチャードは釈放されている。この時イングランドが支払った銀は大量であり、その為、銀製のシャンデリアや銀のフォークやナイフなど、イングランドの高価な調度品でこの時代のものはほとんど残っていない。また、身代金の徴収にはイングランド中のすべての人々に影響を及ぼした。 十字軍の遠征費用と身代金。こういった重税を課された人々の過酷な生活が、ロビンフッドの伝説に繋がるのである。

リドリー・スコット監督作《ロビンフッド》

イングランドから支払われた銀はドイツ皇帝とオーストリア公爵の間で分割された。 皇帝ハインリッヒ6世は、シチリア遠征のために身代金を活用し、シチリア平定後、その数倍とも言われる銀貨を獲得して戻ってきた。獲得した銀は、ヴォルムスとシュパイアーの都市の建設と強化に使用したと言われている。オーストリアは身代金として受け取った銀を活用して、ウィーンの城壁と東部の小さな町を改築し、ウィーナーノイシュタットの町を建設したのだった。 残った銀はオーストリア造幣局の設立にも使用され、この身代金に由来する少量の銀が、 1960年代までオーストリアの10シリング硬貨に含まれていたという。

リチャードの銅像

中世騎士の模範とされた男は、マインツで解放された後、数週間ドイツを旅し、故郷のイングランドへ戻っている。リチャードが解放されたとき、フランス王フィリップ2世は、リチャードの息子で、当時リチャードと対立していたジョンに宛てた手紙の中で「気をつけろ、悪魔は解き放たれた」と書いたと言われる。イングランドに戻ったリチャードは、国内を固め、王位を回復したのち、フランスへ転戦し、フィリップ2世との戦闘を続ける。1199年3月25日、アキテーヌ公領シャリュでシャリュ城を攻撃中、敵の矢を受け死亡。41歳の生涯に幕を閉じたのだった。

参考:

geschichte-wissen.de, “Richard Löwenherz in der Pfalz – sehenswerte Ausstellung in Speyer”, 29. Juli 2017, https://geschichte-wissen.de/blog/richard-loewenherz-in-der-pfalz-sehenswerte-ausstellung-in-speyer/

visitworldheritage.com, “Richard Lionheart and Blondel”, https://visitworldheritage.com/en/eu/richard-lionheart-and-blondel/754b23ed-57e4-43ed-ae3e-d98ef9f87bf1

worms.de, “Englischer König saß im Wormser Knast”, https://www.worms.de/de/kultur/stadtgeschichte/wussten-sie-es/liste_persoenlichkeiten/2008-05_englischer-koenig.php

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