クヴェトリンブルクの鳥好きの国王

クヴェトリンブルク

クヴェトリンブルクを流れるボーデ川。その川のほとり、トゥルン通り(Turnstraße)とアデルハイド通り (Adelheidstraße)が交差する広場に、面白い噴水がある。これは、「ザクセン公ハインリッヒの噴水」と呼ばれる噴水で、ハインリッヒ公が戴冠する場面を表したものだ。

ザクセン公ハインリッヒの噴水

話は、フランケン出身のコンラート1世(Konrad I.)の治世に戻る。コンラート1世は、帝国の統一を確立しようと8年間に渡ってもがいていた。バイエルン、ザクセン、ロートリンゲンの強大な公爵がコンラート1世の計画を何度も妨害した。919年の初め、自身の人生の終わりが近づいていると感じたコンラートは、政治的に賢明な決断をしたのだった。彼はザクセン公ハインリヒ(Herzog Heinrich von Sachsen)に王冠を与える決定をしたのだ。ハインリッヒ王はこれまでコンラートにとって目障りな宿敵であった。今度は、ハインリッヒ自らが王になる意味を直接体験する番となったのだ。

東フランク王コンラート1世

国王選挙の詳細な状況について信頼できる記録が残っていないため、事件の逸話だけが定着してしまった。伝説によると、ハインリッヒはハルツ山地のクヴェトリンブルク近くの納屋の前に座って、コンラートの一団が戴冠の為に到着したとき、鳥を捕まえることに専念していたのだった。

コンラートの代表団はこの時のハインリッヒの行動を見て奇妙に思ったが、それでも厳粛に王冠を手渡した。当時42歳だったハインリヒは、この逸話から、ハインリッヒ・デア・フォーグラー(Heinrich der Vogler:ハインリッヒ捕鳥王)と呼ばれるようになった。ハインリッヒは王選挙を受け入れるまでに、長い間躊躇したとされている。

事実、ハインリヒ公は、コンラート1世の弟、エバーハルト3世(Eberhard)により、919年に王に選出されている。国王はフランク人からという伝統に反し、初めてザクセン人であるハインリヒが新国王となったのだった。

クヴェトリンブルクにある記念碑は、以上の2つの逸話をまとめて、一つのシーンを再現している。 ハインリヒ公爵は戴冠式の瞬間も鳥を捕まえることに夢中で、傍の司教がそれをいぶかしげに見ている、という構図になっている。ハインリッヒは自分の後ろで何が起こっているか、まったく注意を払っていない。傍らでいぶかしげに見つめる司教は、戴冠式に対する教会側の不承認を表しているだけでなく、これから王になろうとする人物が鳥に夢中になっていることに対する憤慨も表現されている。 これらに背を向けて座っている人物は年代記を書こうとしている歴史家を表している。歴史家はまだ本に何と書いたらいいのか思案しているように見える。 これは、ドイツの歴史がこの戴冠式によって始まったのか、あるいはフランクの歴史が続いたのか、議論を続ける歴史家の間で何世代にもわたって続いた論争を表しているのだった。

ザクセン朝、初代国王ハインリッヒ1世

100年前にカール大帝のフランク王国とキリスト教に強制的に服従させられただ人々の公爵として、ハインリッヒ1世が、919年4月14日に選ばれたのは不思議なことだった。かつては頑固だったザクセン人(今日のニーダーザクセン)は、突然ドイツ統一の先駆者となったのだった。

しかし、戴冠後のハインリッヒには苦難が待っていた。フランク人とザクセン人だけが彼を王として認めた。特に、バイエルンのアルヌルフ公爵(Arnulf)は公然と反旗を翻した。 「彼の父親は我が領土に1インチの土地を持たなかったのに、そのザクセン人が何を望むというのか?」と彼は不平をまき散らした。こういった国内の不協和音を解消する手は現在の政治でも同じ手法を取る。国内の政治危機が発生した場合、外交政策における成功が必要とされる。当時、ライン川の国境は特に敏感な場所だった。川の西岸にあるカロリング王朝は、ドイツ人を含むカール大帝の遺産全体に対する権利を主張しており、度々、軍事紛争にも発展していた。

バイエルン公爵アルヌルフ

921年11月の初めに、ハインリッヒ1世と西フランク王シャルル3世はボンで会い、契約書に署名した。その中で、シャルルはドイツの領土に関する西フランク王国の相続権をすべて放棄した。これにより、ハインリッヒは帝国の西側の国境を次の250年間確保することができた。ハインリッヒ1世は、西フランク国王シャルル3世から合意を引き出すことに成功した、熟練した外交官だったようだ。これには、分断されていたフランスを統治する必要があったフランス側の事情もあった。

西フランク国王シャルル3世

フランスの年代記家たちは、シャルルの弱腰外交を決して許さず、シャルルの死後、数年たって後、彼に「Le Simple」(単純王)という不名誉なニックネームを与えている。晩年は、領邦諸侯に嫌われ、廃位され、ペロンヌ城に幽閉されて没した。死後は、サン=フルシー教会(Collégiale Saint-Fursy de Péronne)に埋葬されている。

シャルルはおそらく平和主義であり、現実主義の政治家だったのだろう。フランスの歴史家は、シャルルはボンで、ハインリッヒと酒を飲み交わしただけだったとさえ主張している。ハインリッヒのほうは、ボン条約で評判を大きく高めることに成功した。この後は、国内の敵も妥協せざるを得ない状況であった。数ヶ月前に王に公然と反旗を翻したバイエルン公爵アルヌルフでさえ、ハインリッヒへの抵抗をあきらめたのだった。

その後の15年間で、ハインリッヒ1世は封建時代初期のドイツ帝国である「Regnum Teutonicum」の礎石を築いた。 ハインリッヒは今日のブランデンブルク州の大部分を征服し、929年に現在のマイセンに城と町を築いた。933年3月、ハインリッヒは、リヤド・アン・デア・ウンシュトルト(Schlacht bei Riade)の村の近くで、西へと侵略を繰り返していたハンガリー人とも戦った。

ハンガリー人と戦うハインリッヒ1世

929年9月、 ドイツの諸侯は「クヴェトリンブルク家相続規則」に同意。 これまで、フランク王国では、複数の子がある場合は分割相続を原則としてきたが、ハインリヒはこれを単独相続にあらため、分割による王権の弱体化を防ぐこととした。これにより、当時17歳だったハインリッヒの息子オットーが後継者として承認されたのだった。 ハインリッヒは936年に亡くなり、息子のオットー1世は帝国の権力と地位を拡大し、後に初代神聖ローマ帝国皇帝となるのだった。

936年7月2日、ハインリヒは、狩りの最中に卒中で倒れ、メムレーベン(Memleben)の王宮で死去した。彼の妻マティルダは、彼の死後、ザクセン貴族の娘たちのために、クヴェードリンブルクに女子修道院を創設、初代院長となった。この修道院が、後に聖セルヴァティウス教会(Stiftskirche St. Servatius)となる。ハインリヒは、妻マティルダとともに、この教会の地下室に埋葬されている。

聖セルヴァティウス教会(Source:de.wiki.)

参考:

welt.de, “Ein schicksalhaftes Königstreffen in Bonn”, Jan von Flocken, 16.08.2007, https://www.welt.de/kultur/history/article1101973/Ein-schicksalhaftes-Koenigstreffen-in-Bonn.html

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