農民のために戦った騎士 | フロリアン・ガイエル

ヴュルツブルク

【ドイツの歴史】ドイツ農民戦争を戦ったガイエルの生涯

ヴュルツブルクから17キロ南に下ったところにギーベルシュタット(Giebelstadt)という村がある。16世紀、この村に農民のために戦った騎士がいた。名前をフロリアン・ガイエル(Florian Geyer)と言う。ガイエルは、フランケン地方の最も裕福な騎士であり、諸侯の軍事顧問を務めていた。しかし、社会意識に富んだガイエルは、1525年、自ら農民側に立って反乱軍として戦うのだった。ガイエルが率いた一団は、ドイツ語で「シュヴァルツァー・ハウフェン」(Schwarzer Haufen) 、英語でブラック・カンパニー、「黒い一団」という名前だ。この一団を率い、ガイエルは農民の権利のために戦い、自身の人生を貴族との戦いに捧げたのだった。

ガイエルの父、ディートリッヒ・ガイアース・フォン・ガイアースベルク(Dietrich Geyer von Geiersberg)は、1492年、ギーベルシュタット城(Burg Giebelstadt)で亡くなり、その直後に長男までもがこの世を去った。次男フロリアン・ガイエルは若くして豊かな資産を相続した。 1517年、ノイミュンスター修道院は、書面による証拠もないのに、ガイエルに対してほぼ350年前の金銭請求を請求。両者の間で紛争が発生した。ガイエルがこの法外な要求を拒否したとき、彼は理不尽にも破門されたのだった。その時以来、ガイエルは欲深いカトリック聖職者に対して深い敵意を抱いたという。

1519年、フロリアン・ガイエルは、領主である辺境伯カシミール・フォン・アンスバッハーバイロイト(Kasimir von Ansbach-Bayreuth)の要請により、伯の弟であり、ドイツ騎士団総長であったプロイセンのアルブレヒト公爵(Herzog Albrecht von Preußen)に仕えることとなった。ガイエルはドイツ人から東プロイセンを奪取しようとしていたポーランドの王に対し、野戦隊長として自らの軍隊を率いた。 1523年、ガイエルはカシミール辺境伯が、マルティン・ルターと話すためにヴィッテンベルクへ向かうときにも同行している。カシミール伯爵は、1515年に父親を強制的に連れ去り投獄した。彼は農民を容赦なく抑圧した残虐な封建領主だった。

1524年、ドイツ南部の農民を中心に不穏な雰囲気が広がり、1525年の春に事態は一気にエスカレートした。貧困だけが原因ではなかった。一説によると、当時、ドイツの農民が置かれていた環境は、今日語られているような過酷なものではなかったという。実際には農民の生活環境は地域によって大きく異なっていたようで、反体制勢力の背後にある重要な原動力は、むしろルターによる宗教改革であった。 農民側が要求していたのは、プロテスタント信仰の自由、そして自分たちの牧師を自分たち自身で決める権利であった。過激な説教者たちは、強制労働の廃止や金利の削減などを聖書の一説を巧みに用いて、暴力の行使を正当化したのだった。

農民たちは個別に活動する軍隊をひとつにまとめて、それを「Haufen」(一団)と呼んだのだった。しかし、結局のところ、農民たちはそれぞれが勝手に行動する、統制のとれていない烏合の衆だった。フロリアン・ガイエルは「オーデンヴァルトの一団」(Odenwälder Haufen)と呼ばれていた一団と連携をとり、戦いに備えて戦術的基礎を作り上げたのだった。ガイエルは自身の財産を使って、600人からなる核となる戦闘集団である「黒い一団」を結成した。ガイエルは新教の教えを道徳的根拠として用いて諸侯たちと戦い、その一方で、以前の主人であるカシミール・フォン・アンスバッハと交渉を行った。

当初、貴族と聖職者は突如襲い掛かってきた嵐のような攻撃に、動きが麻痺したようだった。農民たちの戦いは残忍以外の何物でもなかった。 1525年4月16日、農民の一団がヴァインスベルク城(Weinsberg)を征服した時などは、降伏したルートヴィヒ・フォン・ヘルフェンシュタイン伯爵(Ludwig von Helfenstein)に唾を吐きかけた。他に15人の騎士がこの「血のイースター」(Blutostern)でヘルフェンシュタインと運命を共にした。マルガレーテ伯爵夫人は服を脱がされ、堆肥を運ぶ台車にのせられてハイルブロン(Heilbronn)へと連行されたのだった。

ある年代記者は、6月2日のケーニヒスホーフェンの戦いの前夜について次のように報告している。農民たちは、敵の戦士は捕虜にせず、捕らえた場合は焼き殺すと誓っていた。僧侶や尼僧が殺害され、292にも及ぶ城と修道院が瓦礫と灰へ姿を変えた。

ガイエルは自身が率いる「黒い一団」と「タウバーハウフェン」は、共にヴュルツブルク市と対峙した。包囲は5月6日に開始され、間もなく「ヘレンハウフェン」(HelleHaufen)という一団が戦場に到着。その一団の指導者である騎士ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンが隊長に任命されたが、ヴュルツブルク市を征服することは遂に叶わなかった。少し後、不利な状況を察知したのか、ベルリヒンゲンは姿を消し、農民たちを置き去りにしたのだった。

その間、農民たちに対峙するシュヴァーベン連合の諸侯たちは軍隊を組織した。その指揮官で「バウアーンヨルク」(Bauernjörg)として知られるゲオルク・トゥルフゼス・フォン・ヴァルトブルク(Georg Truchseß von Waldburg)は必要な軍事力と経験を持っていた。「ヌラ・クルクス、ヌラ・コロナ」(Nulla crux, nulla corona / 十字架も王冠もなし)とみずからの剣に刻印したガイエルは、黒い旗の下で勇敢に戦った。規律のない農民たちがトゥルフゼスの軍隊から逃げるたびに、彼は農民を支え、踏ん張った。 「黒い一団の中には、ガイエルのためなら地獄の炎の中へでも飛び込むものばかりだった。」と、とある歴史書には記載がある。

インゴルシュタット近くで、オーデンヴェルダーハウフェンが壊滅させられた時、フロリアン・ガイエルの一団だけが脱出ルートを確保したのだった。砲兵が決定的な役割を果たしたのだった。農民は敵方から多くの大砲を奪い取っていたにもかかわらず、正確に使用する方法を知らなかった。大砲の発射には、高給取りの専門化を雇う必要があった。スルツドルフ近郊では、6月9日にトゥルフゼスの守備隊が素晴らしい働きをした。 ガイエルの周りの農民はほとんど抵抗を示さないまま逃亡を始めた。自らの軍隊が瓦解し、ガイエル自身もひとりで南へと向かうしかなかった。

1525年6月9日から10日の夜、フロリアン・ガイエルは、ウンターフランケンの村リンパー(Rimpar)で騎士ヴィルヘルム・フォン・グランバッハ(Wilhelm von Grumbach)の2人の兵士に強盗に遭い、刺されて息絶えた。「貧しき者は仲間、貴族と司祭は敵」をモットーにした男の人生はこうして終わったのだった。

ガイエルの弱者に味方する姿勢、農民開放のために捧げた自己犠牲の人生は、同じく農民戦争に参加しながらも途中で逃げ出した「鉄腕ゲッツ」ことゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンとはその評価は大きく異にしている。ガイエルの英雄的な活躍は、現在でもドイツ人の間で語り継がれているのだ。

ガイエルの生涯は、第一次世界大戦の後、ボーイスカウトやワンダーフォーゲルが行進する際の歌の歌詞となった。『Wir sind des Geyers schwarzer Haufen。(我らはガイエルの黒い一団)』というこの曲は、フロリアン・ガイエルと黒い一団、そしてオーデンヴァルト農民軍の行為を称賛した内容となっている。イギリスの宗教改革者ウィクリフの思想を広めようとした、聖職者ジョン・ポールの言葉で、後にワット=タイラーの乱の引き金ともなった「アダムが耕し、イヴが紡いだとき、誰が領主だったか?」という言葉も歌詞のなかに含まれている。この歌は、後にナチスやGDRなど、政治的闘争の歌としても使われたのだった。

参考:

welt.de, “Florian Geyer, der adlige Bauernführer”, Jan von Flocken, 23.10.2007, https://www.welt.de/kultur/history/article1291040/Florian-Geyer-der-adlige-Bauernfuehrer.html

mainpost.de, “Folge 85: Florian Geyers Kampf”, Wolfgang Jung, 31.07.2012, https://www.mainpost.de/aktiv-region/anschauen/111_dinge_in_mainfranken/folge-85-florian-geyers-kampf-art-6856017

コメント

タイトルとURLをコピーしました