ザクセン兄弟戦争 | 《ナウムブルクの和約》

ナウムブルク

【ドイツの戦争】ザクセン公国の分割とヴェッティン家の行方

ザクセン=アンハルト州にあるナウムブルクは、ザーレ河畔にある美しい町だ。この町で1500年以上前、ある和約が結ばれた。この風光明媚な町で結ばれた和平条約は《ナウムブルクの和約》と呼ばれる。この和約は、後に《ザクセン兄弟戦争》(Sächsischer Bruderkrieg)と呼ばれる、ヴィルヘルム3世勇敢公(Wilhelm III)と選帝侯フリードリヒ2世寛大公(Friedrich II.)の間のヴェッティン家の支配をめぐる軍事紛争を終わらせた。

紛争の引き金となったのは、1445年の《アルテンブルクの分割》(Altenburger Teilung)におけるヴィルヘルム3世の不満であった。ことの顛末はこうだ。父のフリードリッヒ1世が1428年に亡くなり、父の従弟のテューリンゲン方伯フリードリヒ4世も亡くなったことで、テューリンゲンはフリードリッヒ1世の2人の息子、フリードリッヒ2世とヴィルヘルム3世の兄弟が継承することとなった。1445年7月16日、兄弟間で《アルテンブルク領の分割》と呼ばれる領土分割条約が結ばれる。

1445年9月26日、フリードリヒ2世がライプツィヒのマイセン辺境伯ではなく領土の西部を選び、弟のヴィルヘルム3世は借金のあるテューリンゲン方伯領とフランケンの一部を与えられえたことで、ヴィルヘルム3世はこの分割を拒否した。《アルテンブルク領の分割》は、翌年の1446年4月1日に神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世にも承認されている。

しかし、納得のいかない弟のヴィルヘルム3世は、現状を打破する為、行動に移った。ヴィルヘルム3世は現実的であり、兄のフリードリッヒ2世の軍勢が自分よりも優れているのではないかと考えていた。フリードリヒ2世は弟と戦う前に、領地からの支援を必要とし、その為領邦議会を召集し、そこで新しい方伯として領地の所有を宣言した。これで彼は戦争の際に必要な支援を得た。こうして開かれた領邦議会はテューリンゲンの歴史の中で初の領邦議会であった。

1446年の初秋、フリードリヒ2世とヴィルヘルム3世の間で緊張が高まり、ついに戦争へと発展した。これが1446年から1451年まで続く《ザクセン兄弟戦争》である。両者の戦争では、テューリンゲンの大部分が破壊され、主にワイマール、ヴィーエ、メルゼブルク、ドルンブルク/ザールなどが荒廃した。両者とも頑固に自身の主張を捨てなかったが、戦争による損失は両陣営とも相当なものであり、互いの経済状況がとても戦闘の継続を許さなかった。

1451年1月27日、ナウムブルク(ザーレ)においてフリードリヒ2世とヴィルヘルム3世間で和平条約が調印され、これを《ナウムブルクの和平》と呼ぶ。こうして、ようやくテューリンゲンにも平和が回復された。そして1445年の領土分割についても確定された。そして、こうして幕を閉じたザクセン兄弟戦争であったが、この戦いを契機として、1455年7月に《アルテンブルク王子誘拐事件》が発生する。

ザクセン兄弟戦争でフリードリッヒ2世側で戦ったクンツ・フォン・カウフンゲンという騎士がフリードリッヒ2世に対して私闘を行うのである。この一件で、フリードリッヒ2世の跡継ぎである二人の息子はあわや命を落とす危険に晒されるのであった。

1464年に兄のフリードリヒ2世が亡くなり、1482年に弟のテューリンゲン方伯ヴィルヘルム3世が死去。ヴェッティン家の領土は、フリードリッヒ2世のふたりの息子、エルンストとアルブレヒトに引き継がれ、テューリンゲンの領土は再び統一されたかに見えた。しかし、ここでも領土の分割を巡って、兄弟の間で激しい論争が起こる。

テューリンゲン領の中でワイマールを有する領土は、テューリンゲンで最大の領土を誇るザクセン公国、コーブルク(Coburg)、プライセンラント(Pleißenland)を有していた。対するマイセンを有する領土は、マイセン辺境伯、オスターランド(Osterland)に加え、ヴァイセンゼー(Weißensee)、ランゲンザルツァ(Langensalza)、ザンガーハウゼン(Sangerhausen)、クヴェードリンブルク修道院があるテューリンゲン州北部の領土を有していた。

エルンストはマイセンを有する領土は、ワイマールを有する領土よりも価値があると見ていた。そこで、彼は、マイセン部分を所有することになった側は、もう一方のワイマール部分の所有者に、計10万ギルダーを4階に分けて支払うという提案を行っている。セーガン公国(Fürstentum Sagan)は引き続き、共同統治を行い、領土内の鉱山から上がる利益は、兄弟で平等に分割する旨が取り決められた。

そして、エルンストは選帝侯位を有するザクセン公国の領有権を主張した。選帝侯位はワイマール側に属するので、マイセン側の所有者はワイマール側に年間3,810ギルダーを支払う義務を負った。領土内の都市から入る「みかじめ料」なども、定期的に徴収したのち、兄弟で平等に分配することが決められた。また兄弟のうちどちらかが男系の子孫を残さずに他界した場合は、領土はもう一人の兄弟もしくはその遺児の所有となる旨が取り決められた。

1485年8月26日に結ばれたこの分割条約を《ライプツィヒの分割》(Leipziger Teilung)という。これ以降、ヴェッティン家はエルネスティン系とアルベルティン系に分かれ、16世紀に入っても両系統はますます互いに衝突することとなるのだ。

参考:

deutschland-im-mittelalter.de, “Sächsischer Bruderkrieg”, https://deutschland-im-mittelalter.de/Militaer/Kriege/Saechsischer-Bruderkrieg

geo.viaregia.org, “Der sächsische Bruderkrieg 1446 – 1451”, Dr. Hans-Joachim Kessler, https://geo.viaregia.org/testbed/pool/editmain/T1_399_Der.saechsische.Bruderkrieg.html

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