マグデブルクの結婚式

マグデブルグ

1631年5月20日にマクデブルクで起こったことは、三十年戦争と人類の歴史の中で最も暗い章の1つであると言われている。《マクデブルクの結婚式》として歴史に残るこの事件は、25,000人以上の命を奪ったと言われる。日本語では《マグデブルグの戦い》あるいは、《マグデブルグの惨劇》と呼ばれるこの虐殺事件は、カトリックである神聖ローマ帝国軍が、ルター派のハンザ同盟都市マクデブルクを包囲・攻撃し、戦闘終了後に市民を虐殺・略奪した事件をいう。

マクデブルクはすでに1524年に宗教改革を断行し、それ以来、カトリック側の帝国軍によって数回包囲されていた。しかし、市民は戦争を早く終えたいと願っていた。


プロテスタントであるスウェーデンのグスタフ2世アドルフがやってきた際、マクデブルクはスウェーデン人と同盟を結び、1630年の秋、ディートリッヒ・フォン・ファルケンベルク(Dietrich von Falkenberg)が指揮官に任命された。カトリック側のゴットフリート・ハインリッヒ・ツー・パッペンハイム(Gottfried Heinrich zu Pappenheim)率いる帝国兵士の最初の一団が11月末にすでにこの町に向かって移動していたため、ファルケンベルグは都市の防衛を準備し、必要不可欠であった新しい軍隊を採用・編成した。

ゴットフリート・ハインリッヒ・ツー・パッペンハイム

比較的静かな冬の後、直前にオーデル河畔のフランクフルト(Frankfurt an der Oder)で、スウェーデン軍から撤退したティリー将軍は、強力な部隊を率いてマグデブルクに接近し、町を完全に取り囲むことに成功した。すぐにマクデブルクの市民の間で、無用な流血を避けるために、包囲している敵に平和的に町を引き渡すべきであるという声が上がった。壁の中に、聖職者やスウェーデン人の強力な支持者がいたファルケンベリは、グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデンの援軍がすぐに到着すると演説を続けながら、降伏を激しく拒否したのだった。ファルケンベルクの演説は、敵の一部が町の城塞内に侵入した後でさえ、続けられたという。

金持ちの市民は、なんとか金で兵士を買って、彼らの保護の下で都市を去っていった。しかし、残された多くの市民にはそんなことはできなかった。カトリック側の兵士は、約束の報酬を得ていない傭兵が多数おり、一度暴走した兵士を止めることは司令官にも不可能であった。町は略奪され、何日にもわたって暴虐の限りが尽くされた。生き残った女性は兵士による強姦の犠牲者となった。至るところに火がつけられ、火災によって多くの人が命を失った。一説には、カトリック側に町をむざむざ手渡すよりはと、ファルケンベルクが自ら町に火を放ったとも言われる。

エドゥアルト・シュタインブリュック(Eduard Steinbrück)作《マグデブルグの略奪》(Die Plünderung Magdeburgs)

ティリーが停戦を命じたのは4日後のことだった。この時点で、25,000人の住民がすでに犠牲となっていた。大聖堂などに避難した数人の生存者も、少し遅れて住めなくなった町を去っていった。マクデブルクの人口は35,000人から、ヴェストファリア条約締結時にはわずか450人だったという。この陰惨な戦争のあとは、伝染病がこの町を襲い、町はさらに疲弊していく。この町の人口が、三十年戦争以前のレベルに回復するのは19世紀であり、まさに2世紀以上を要した。

ティリー将軍

マクデブルクにおける大殺戮の後、「町を全滅させる」という意味で「マグデブルク化する」(Magdeburgisieren)という新しいドイツ語の用法が普及したほどだった。6月24日、教皇ウルバヌス8世は、異端者の巣を破壊するよう応援の手紙を書いている。この耳をふさぎたくなるほどの残虐行為を訊くに及び、これまで冷ややかな目で状況を眺め、協力に消極的であった北ドイツのプロテスタント諸侯は、こぞってスウェーデン軍への協力を決めたという。

三十年戦争はさらにエスカレートし、残虐行為はその後何年にもわたって国を席巻し続けたのだった。プロテスタントのスウェーデン側による残虐行為も、マグデブルグを破壊したカトリック側の行為になんら劣っていることがなかったことは、戦争が激化する過程で明らかになっている。この虐殺に報復する形で、プロテスタント側もカトリックの人質を残虐な方法で殺戮することとなるのだった。暴力の連鎖はさらに続くこととなる。

マクデブルク自体は、その歴史の中でもう一度完全な絶滅に耐えることとなる。 1945年1月16日、連合国の爆撃機が街を攻撃し、20万人近くが家を失い、建物の60%以上が破壊された。戦後、再建が行われ、マクデブルクは現在の形を取り戻している。

三十年戦争中のこの悪夢のような大虐殺は、発生直後から《マグデブルグの結婚式》と呼ばれるようになった。花嫁はマグデブルグ市の紋章に表されている女性を意味している。新婦である神聖ローマ皇帝と、花嫁であるマグデブルク。その二人の「強制結婚」という何とも悪趣味な呼び名である。この時代の記述によると、この呼び名はティリーによる次の言葉に言い表されている:

マグデブルクの紋章

「そして飲み食いの時が来た/それは3日間にわたって続いた/そしてそれ故にマクデブルクの結婚式/ティリによってそう名付けられたように/それは祝われたのだった」

参考:

“Der Dreißigjährige Krieg: Magdeburger Hochzeit”, Christian Kolb, https://www.xn--dreissigjhriger-krieg-e2b.de/magdeburg.html

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