皇帝を絶望させた敗戦 | ヴァルスの戦い

オスナブリュック

「トイトブルクの戦い」もしくは、「トイトブルク森の戦い」ー世界史の授業では、こう習ったのではないだろうか?紀元9年、ローマ帝国が初代皇帝アウグストゥスだった時代、帝国は将軍ヴァルスに3軍団を指揮させ、ゲルマン人鎮圧に充てたが、 アルミニウスという首長に率いられたゲルマン部族連合軍に大敗北を期してしまう。そして、ローマ人によるゲルマニア進出は阻まれてしまった。

トイトブルクは、ドイツ北西部ノルトライン=ヴェストファーレン州にある町、オスナブリュックの南、パーダーボルンの北にある森の名前だ。これまで長らく、ここがゲルマン人とローマ人の主戦場であったと考えられていた。しかし、最近の発掘調査では、実際に戦闘のあった場所が、トイトブルクではなく、オスナブリュック市の北20キロほどのところにある小さな村、カルクリーゼ(Kalkriese)周辺で行われたことが分かっている。ローマの貨幣、武具、馬具や人骨が大量に発見されたことで、この辺り一帯が古戦場と認定されるに至った。この戦闘はカルクリーゼの戦いとは呼ばず、ローマ軍の敗将の名をとって、《ヴァルスの戦い》(Varusschlacht )と呼ばれている。

出土したローマ人の武具(筆者撮影)

1987年、イギリス人のアマチュア考古学者、トニー・クラン(Tony Clunn)が金属探知機と有名な古代史家テオドール・モムセン(Theodor Mommsen)の論文を基に、 ヴィーエン山地(Wiehengebirge) とグローセス・ムーア(Großes Moor)と呼ばれる湿原の近郊へ、ローマ時代の硬貨を探しに出発したとき、同業者は彼が狂っていると思ったという。というのも、地元の研究者も含め、関係者の多くが、ローマ総督ヴァルス率いる3軍団が壊滅させられた場所はトイトブルクの森であると長年確信していたからである。

しかし、予想に反してクランは大発見を行う。 古代史家モムセンがこれまでの発見に基づいてすでに予測していたとおり、カルクリーゼ山の近くで数十枚のローマ硬貨が発見された。 そして、硬貨の中には、紀元9世紀よりも前のものはなかった。

クランの発見は一大センセーションを巻き起こした。 彼の発見は、ヴァルスの戦いの場所を特定しようとする700にも上る学説を一掃し、オスナブリュックの北20kmにあるカリクリーゼでアルミニウスが勝利したことを他の研究者にも確信させたのだった。 それ以来も発掘は続けられ、毎年新しい発見がされている。後には、220枚の硬貨も発見されている。

カルクリーゼで発見された硬貨(筆者撮影)

ほぼ50年間、ローマ人はライン川の左岸地域を占領し、 右岸にはゲルマニア・マグナ (Germania magna)と呼ばれ、ローマ人が悪魔が住むと噂した原生林が広がっていた。ローマ人がハルターン・アン・デア・リッペ(Haltern an der Lippe)のような湿地帯に侵入したのは事実だが、実際にその場に足場を築くことはなかった。

現在のカルクリーゼ(筆者撮影)

西暦9年、3軍団を引き連れたローマ軍司令官ヴァルスは森の中を行進したが、 ケルスキ族の首長 アルミニウムに率いられたゲルマン人たちはローマ人への攻撃を開始した。アルミニウムはローマから戦争を学び、ローマ人の軍隊や戦術についてよく知っていた。激しい戦いが3日間続き、ゲルマン人は、ゲリラ戦術を駆使してローマの大軍を撃破したのだった。最高司令官ヴァルスは、敗戦の責任をとって自害した。

鉄製の重装甲装備で身を固めたローマ軍は、兵士たちが盾を掲げて、まるで要塞のように完全防備で立ち向かっていた。それに比べて、ゲルマン側は装備も整っていない農民であり、一部のエリートだけが剣を持ち、馬に乗っていた。他の大勢のゲルマン人は、攻撃と言っても木製の槍を投げるくらいであった。この圧倒的な兵力の差を、ゲルマン側はどのようにして克服したか?そのカギが、カルクリーゼという場所にある。

アルミニウスは、現在のカリクリーゼ近郊でローマ軍を攻撃することを決定した。ローマ軍がヴェーザー川からライン川へと行進した道は、この辺りで次第に狭くなっている。右側には湿原、左側にはヴィーエン山地。たとえローマ軍であっても整然と行進するのは不可能であった。

古代史研究家のヨハネス・ノルクス(Johannes Norkus)によると、ローマ軍は隊列を縦長に編成し、もっとも道幅の狭い箇所を通り抜けていた。この時の隊列の長さは、先頭から最後尾まで14キロにも及んだという。アルミニウスがこの縦長の隊列を襲ったとき、ローマ人の最大の強みである機動性は完全に失われていた。隊列の先頭が攻撃を受けたという知らせが、最後尾に伝わるまでに数時間を要した可能性もある。

ヨハネス・ノルクス の著作

さらに、この辺り一帯は湿地帯であり、ローマ軍は泥に足をとられ身動きできなかった。このローマ軍の行軍は秋に差し掛かった9月に行われたと言われている。リネン製の服装をしたゲルマン人は、湿地帯の柔らかな地面でも機敏に動きまわることができたが、鉄でできた完全設備のローマ兵は、最大30キロの装備を身に着けており、湿地帯では動くことができなかった。ゲルマン人の木製の槍の恰好の標的となったのだった。

2000年前に行われたこの戦いで、ローマ側は3軍団2万人以上の兵を失い、ローマ皇帝アウグストゥスはゲルマン人に対する敗北に深く傷つけれられた。これはローマにとって非常に高くついた敗戦だった。 しかし、ローマ人はゲルマン人から逃れる為に、取るものも取らずライン川の反対側に逃走したのではなく、撤退はむしろ段階的に行われたようだ。

ハルターンにあったローマ軍の野営地は、戦いの年に放棄されたのだが、ローマ人は慎重に撤退準備を進め、おそらくリッペ川への帰還を計画していた。 これは、近年この地で発見された、兵への支払いに充てられたとみられるローマのコインや宝物、3,000本の矢が入った箱などが納められた貯蔵庫の存在が示唆している。

カルクリーゼで現在も続く発掘作業(筆者撮影)

この敗戦の知らせを受けた皇帝アウグストゥスは、茫然自失となり、その後は数か月間髯も伸ばしたまま過ごし、時折「クウィンティリウス・ヴァルスよ、軍団兵を返せ!」と言ったと伝えられる。そしてこれが、ローマ帝国によるゲルマニア平定の最初の躓きとなった。

この歴史的敗北からわずか1年後、皇帝アウグストゥスはライン川方面の軍団を交代させ、部隊を増員した。以前は6つの軍団が国境を確保していたが、現在は8つの軍団がフィールドに配置されており、ローマ軍のほぼ3分の1がライン川の国境に集中していた。ローマはすぐに懲罰遠征を計画し、すぐにローマ軍をライン川右岸へと戻した。西暦13年と16年、ローマ軍の将軍ゲルマニクス(Germanicus)はゲルマン地域の一部を荒廃させ、虐殺は続いたのだった。

ローマの歴史家タキトゥスは、執拗に戦争を続けるローマ帝国の動機を明らかにしている。「この当時、ローマはゲルマン人に対してのみ戦争を継続しており、これは帝国版図の拡大や、経済的な利益よりも、 クィンクティリウス・ヴァルス のもとで失われたローマ軍の喪失に対して、恥を注ぐ為の行為だった。」

戦争は高くついたが、それに見合った軍事的成功は達成されなかった。ローマの元老院は、このまま戦争を続けても得られるものはないととっくに気づいていただろう。ローマ元老院とローマ皇帝は西暦17年に戦闘の停止を決定した。新皇帝ティベリウスはライン川とドナウ川を国境として受け入れたのだった。

戦費に使う財源の不足、外交上の失策、政治的策略の結果として、確かにヴァルスの敗北はローマ人にとって大打撃だったが、それも多くのうちの1つにすぎなかった。実際、ゲルマン人との戦いはヴァルスの戦いで終わったのではなく、その後8年間も続いたのだった。

ベルリンにある歴史博物館館長のハンス・オットーメイヤー(Hans Ottomeyer)は、特に19世紀以降、ヴァルスの戦いは、「ドイツ人にとってのトロイ」であり、北方へのローマ拡大の終焉であるとともに、抑圧されたゲルマン人の解放として見なされてきたという。

この見方は15世紀に始まった。 それ以前は、この戦いのことを知っているものは誰もいなかった。ゲルマン人は文字を使う文化が欠如してために歴史を記録していなかった。ローマ人が残した記述も中世初期に失われてしまっていたのだった。

ルネッサンスの時代、人々が古代ローマ文化を再発見したとき、多くの羊皮紙と古書が再び人々の目に触れることとなった。 それらの中には、アルミニウスを「ゲルマニアの解放者」と讃えたタキトゥスの歴史書もあり、ゲルマンの土地で起こった戦争についてタキトゥスが報告した内容は、ドイツ人の琴線に触れたのだった。

現在、カリクリーゼには、ヴァルスの戦いに関する博物館が建てられている。2009年には、ヴァルスの戦いの2000年を記念して、カルクリーゼの博物館の他に、デトモルトのリッピッシュ・ランデスミュージアム、ハルターン・アム・ゼーのLWLローマ博物館で展示会が開催された。

カルクリーゼの博物館(筆者撮影)

参考:

welt.de, “Wie die Deutschen die Varusschlacht zurechtbogen”, Dirk Husemann, 14.01.2009, https://www.welt.de/kultur/article3000360/Wie-die-Deutschen-die-Varusschlacht-zurechtbogen.html

welt.de, “Die Legionäre bezogen erst ein Lager, dann starben sie”, Berthold Seewald, 11.04.2017, https://www.welt.de/geschichte/article163535413/Die-Legionaere-bezogen-erst-ein-Lager-dann-starben-sie.html

「ドイツの歴史百話」、坂井榮八郎、刀水書房、2012年、P4-P7, “「トイトブルクの森の戦い」の戦場跡に立って”

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