【ドイツの伝説】ザクセン族の王ヴィトキントに挑むカールの伝説
オスナブリュック。この辺りには、ゲルマン民族の大移動ののち、ザクセン族が定住した。そしてこのザクセン族を平定するべく、遠征にやってきたのがカール大帝であった。772年から804年までのザクセン戦争と呼ばれる戦争で、カールはザクセン族のヴィトキントと相対する。
カールはハーゼ川を挟んで、ザクセン族の王ヴィトキントと対峙していた。カールの軍隊が、川を渡ることのできる場所を探していたところ、偶然にも牛が川を渡っている光景を目にした。そこに浅瀬があることに気づいたカールは、自軍を率いて一機に川を渡り、敵を急襲することに成功。みごとヴィトキントを打ち破ったのだった。その為、後にこの場所には《牛の橋》という意味で《オスナブリュック》と名付けられた。
もちろんこれは伝説だが、ハーゼ河畔の町オスナブリュックは、西暦780年、カール大帝によって建設された。その為、カール大帝にまつわる伝説・伝承が数多く残っている。オスナブリュック近郊のホーネ(Hone)にある、《Karlsteine: カールシュタイネ(カールの石)》と呼ばれる巨大な岩石についても、カールとヴィトキント王との対決に関連する伝説が伝わっている。
カールは宿敵であるザクセン王ヴィトキントと戦い、ザクセン軍の激しい抵抗にほぼ絶望していた。カールが戦いを諦めようとしたその時、自身の軍隊の中から7人の兄弟が進み出て、カールに今一度神のご加護を求めるように助言したのだった。カールは勇気を出して、カールシュタイネと呼ばれる、その巨大な岩盤を剣で打ち砕いたのだった。 「この岩盤を破壊するなど、一見不可能に思いえるが、それはヴィトキントの抵抗を打ち破ることとて同じだ!」とカールは言ったとされる。真っ二つに砕けた石板は、カールにとって戦闘を継続するための神聖なしるしとなり、事実、カールはヴィトキントを打ち破るのであった。
カールシュタイネはおよろ5000年前の集団墓地だったという。カールの伝説のほうは、わずか数世紀前に語られるようになったにすぎない。おそらく、人々は墓の巨大な石板が4つに壊れている理由を探しているうちに、この伝承が生み出されたのだろう。しかし、伝承が語り継がれているうちに、この石板が、カールの戦いとヴィトキントの敗北という歴史的事実を伝える「記念碑」のような役割を果たすようになったのだ。さらには、1856年から、カールシュタイネが位置するオスナブリュック・ピエスベルク(Osnabrücker Piesberg)が、鉄道網に接続されていたたことが挙げられる。この地方に労働者だけでなく、観光客も誘致する目的にこの伝説が一役買ったのではないかという、マーケティング的な側面も指摘されている。いずれにせよ、破壊された巨大な石板が、この土地に所縁の深いカール大帝に結びつけられたのは、自然な流れだったのだろう。
オスナブリュックの聖ペテロ大聖堂の前には、レーヴェン・プードル(ライオン・プードル)と呼ばれる石像がある。 大きな台座の上にプードルのように見えるライオンが座っている。この石像はオリジナルではなく、 1929年以来この場に設置されている彫刻家ルーカス・メンケン(Lukas Memken)によるレプリカだが、風雨にさらされてひどく損傷してしまった。このレプリカ以前に設置されていた石像は市の文化史博物館内に保存されているが、これもおそらくオリジナルではないと見られている。
この像は、ハインリッヒ獅子王によって市に与えられた。 レーヴェン・プードルはブラウンシュヴァイクの獅子像にも似ているが、二つの像を関係づける繋がりは確立されていないという。
なぜ、またはいつ頃、この石像にレーヴェン・プードルという名前が付けられたかは不明である。ドイツでのプードルの繁殖は19世紀に始まった為、この像は明らかにプードルを模したものではないことは確かだ。この石像については1331年に最初に言及が見られ、当時はストーンライオンまたはライオンのアーチと呼ばれていたようだ。 名前の由来が判明していないため、この石像を巡っては次のような伝説が語られるようになった。
伝説によると、カール大帝は、オスナブリュックを不在にしていたときに、町の人々がカールの敵であるウィトキントと異教徒のザクセン人との接触したことを知って、オスナブリュックの人々に腹を立てたのだった。カールは、オスナブリュックへと引き換えした時に、彼に最初に向かってきた生き物の頭を切り落として、町を懲らしめようと考えた。
カールがついにオスナブリュックへとやって来た時、カトリック教徒のザクセン人と結婚した彼の妹だけが市民への慈悲を求める意図で、敢えて大帝に立ち向かおうとした。すると突如、彼の妹のお気に入りのプードルが飛び上がって王の手を舐めたのだった。カールは自身が立てた誓い通り、そのプードルを殺し、その替わり他には誰も殺さなかった。感謝の気持ちを込めたオスナブリュックの市民は、石にプードルの形を刻み、大聖堂の中庭に設置したのだった。オスナブリュックの市民は、敬意を込めて、この像をレーヴェン・プードルと呼んだのだった。
参考:
galarie-schwarz-weiss.de, “Historische Informationen zu Osnabrück bis 1800”, http://www.galerie-schwarz-weiss.de/index.php?historische-informationen-bis-1800
“Die Karlsteine – ein sagenhaftes Grab”, Kora Blanken, 20.08.2015, https://www.ndr.de/geschichte/schauplaetze/Die-Karlsteine-ein-sagenhaftes-Grab,karlsteine120.html
「ドイツ歴史の旅」、坂井榮八郎、朝日選書、P189
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