デュッセルドルフの吸血鬼

デュッセルドルフ

デュッセルドルフ中央駅は1891年に建設されてから、2回の大きな改修工事を経て、現在の形に至っている。毎日25万人を超える乗降客が利用するデュッセルドルフの玄関口である。およそ90年前、この駅で起こった事件がきっかけで、ドイツ犯罪史上、稀にみる凶悪犯が逮捕されるに至ったのだった。

1930年5月のデュッセルドルフ中央駅。男は駅構内で、不良青年に絡まれていた少女に声をかけて助け出すと、一緒にお茶を飲まないかと少女を自宅へと誘った。しばらく歓談した後、宿泊先のホテルへ送る途中、デュッセルドルフの北東に位置するグラーフェンベルクの森へと少女を連れ出し、そこで強姦に及んでいる。犯行後、この男は「俺の家を覚えているか?」と問い、少女が覚えていないと返答したところ彼女を生かしたまま解放し立ち去った。故郷へ帰った少女は友人に一連の出来事を綴った手紙を送ったが、宛名が間違っていたため配達できず郵便局でしばらく留め置かれた。規定に基づき開封されたのはしばらく後になってからだった。郵便局からの通報を受けた警察は少女の居場所を突き止め、彼女の供述で犯人の自宅を突き止めたのだった。

これは、20世紀初頭、デュッセルドルフを恐怖に陥れた殺人鬼、ペーター・キュルテンの話だ。現在はケルンの行政区に含まれるミュールハイムに、1883年5月26日、13人兄弟の3人目として生まれている。家庭環境は極貧で児童虐待も日常的に行われていた。父親は大酒のみで妻に家庭内強姦を強いており、キュルテンが4歳の時には実の娘と近親姦を行ったとして1年3ヶ月の懲役刑を受けている。そのような荒れた環境の中キュルテンは軽犯罪者として成長して行き、しばしば家から逃げ出した。

キュルンテンが初めて殺人を犯したのは、9歳の時であったと言われる。川で二匹の子犬を殺したという。また、動物に対してはたびたびナイフで刺し殺したことがわかっている。1894年に家族と共にデュッセルドルフへと引っ越すと、窃盗や放火などで出入獄を繰り返した。青年期には彼を雇った野犬捕縛者から、犬に対して自慰をさせることや、犬に対する拷問を教わる。彼の暴力的な傾向は動物虐待から人に対する攻撃へと変移し増幅されていった。

1913年、30歳になった彼が窃盗のために侵入した商店で、就寝中だった14歳の少女を強姦後に絞殺。これが立証される最初の犯罪となった。この犯行時に、彼は自分のイニシャルの入ったハンカチを現場に残してしまったが、偶然そのイニシャルが被害者の父親と同じだったため、警察は父親を容疑者とみなして厳しく追及し、キュルテンは逮捕を免れている。犯行後ほどなく別件の窃盗容疑で逮捕され、8年間刑務所にいたことから、第一次世界大戦中は彼の犯罪は中断している。

1913年に殺害された9歳のクリスティン・クライン

1921年には刑務所を出所すると、テューリンゲン州アルテンブルクに移り住み、ある女性と知り合い、熱烈に恋した末に結婚へとこぎつける。1925年には再びデュッセルドルフに戻り、就職した地元の鋳型工場では、有能で勤勉実直な労働者、熱心な労働組合員として上司や同僚からの評価を固め、近隣でも礼儀正しい、物静かな紳士として振る舞っていた。

1929年2月8日、キュルテンは8歳の少女を強姦し殺害する。同年2月13日深夜、泥酔してキュルテンに絡んできた45歳の機械工を刺殺する。刺し傷は頭部を含め20箇所に及んだ。獣性を満たされたせいか、以後は誰も襲わなかったが、行きずりの女との荒々しいセックスに没頭していた。

やがてセックスでは満たされなくなり、半年後の8月に凶行を再開。8月21日には別々の場所で3人を刺し、23日には5歳と14歳の姉妹を殺害。翌24日にもある女性を襲撃し強姦した。気丈な彼女は「あんたと寝るぐらいなら死んだ方がマシよ!」と喰ってかかり、キュルテンは「じゃあ死ね」と数十回もナイフを振り下ろした。彼女は奇跡的に一命を取り留め、警察にキュルテンの人相を話しているが、不正確だったためか逮捕には至らなかった。同年9月には1件の強姦と殺人を、10月には2人の女性をハンマーで襲っている。

この時点でデュッセルドルフは完全なパニック状態と化していた。キュルテンは食堂で働く妻を毎晩のように迎えに行き、「僕が迎えに来るまではここにいなさい」と注意している。同年11月7日、5歳の少女を殺害。当時購読していたドイツ共産党の機関紙編集部に彼女を埋めた場所の地図を送りつけたりもしている。犠牲者と方法が様々あることから、警察は2人以上の犯人がいるのではないかと仮定した。また90万以上もの人々が捜査線上に浮上した。捜査が難航し、デュッセルドルフ警察が捜査協力を求めた有名なベルリンの犯罪学者エルンスト・ゲンナ(Ernst Gennat)は、クルテン事件で《シリアルキラー:連続殺人犯》という用語を始めて用いている。

1929年11月の殺人がキュルテンの最後のそれとなる。とは言うものの1930年2月から3月にかけても多くの人がハンマーで襲われている。そのことを知ったキュルテンは、妻に今まで行った犯罪を告白し今まで妻を欺いたことに対する償いとして、警察へ通報して自分に掛けられた高額の褒賞金を受け取り老後の蓄えにするように促す。そして3月24日、妻は夫とロフス教会(Rochuskirche)で会うことになっていると、警察に漏らし、キュルンテンは教会で逮捕されている。この時、隣人たちは、礼儀正しく、紳士的なキュルンテンの逮捕に驚いたという。

キュルンテンが逮捕された ロフス教会

逮捕されたキュルンテンは、取り調べて次のように供述したという。「あなた方はそれを殺人衝動と呼ぶのだろうが、実際、私はいつもそういう気分だった。犠牲者の血が流れ出る音を聞きたかった。手段さえあれば、私は大勢の人々を殺しただろう。妻が夜勤のときには、私は毎晩犠牲者を探して歩き回っていた。」

キュルンテンは8週間にわたり、精神病院で検査受け、検査報告は千ページにも及んだ。その結果、キュルンテンにはサディスティックな傾向が確認されるが、精神疾患の兆候はないと結論づけられた。キュルンテンは正気であり、自分自身の行動に責任能力があるとされたのだった。

「9人の殺害、32人の殺人未遂、3件の強盗、1件のレイプ未遂、27件の放火。」

これらの罪で起訴され、1931年4月から裁判が行われた。当初彼は無罪を主張したものの、数週間後答弁は変化を見せた。結果、死刑の判決を受け、1932年7月2日早朝ケルンのクリンゲルピュッツ(Klingelpütz)の刑務所にてギロチンによる死刑が執行された。死刑執行の直前、キュルンテンは精神科医であるフランツ・シオリ(Franz Sioli)にこう質問している。「死の瞬間、自分の血が急いでいるのを聞ける可能性はありますか?」

処刑が行われたクリンゲルピュッツにある記念碑(Source:wikipedia.de)

デュッセルドルフの吸血鬼というニックネームは当時のマスコミに付けられたもので、1929年12月にデュッセルドルフのホーフガルテンでクルテンが白鳥の頭を切り落とした事件、または彼が犠牲者の血の一部を飲んだか、もしくは飲もうとしたという事実に基づいているようだ。キュルンテンの死刑執行後、科学者は彼の脳を解剖し、調査を行ったが異常は見つからなかった。キュルンテンの犯罪動機は説明も理解もされず、今日までその全貌は解明されていない。

参考:

welt.de, „Er schnitt ihnen den Hals auf und trank gelegentlich sogar ihr Blut“, 02.07.2021, Florian Stark, https://www.welt.de/geschichte/article232242205/Serienmoerder-Peter-Kuerten-Er-trank-gelegentlich-sogar-ihr-Blut.html

stern.de, “Der “Vampir von Düsseldorf” – eine Begegnung mit dem Bösen”, 27.06.2021, Frank Christiansen, https://www.stern.de/panorama/stern-crime/serienmoerder-peter-kuerten–der–vampir-von-duesseldorf–30590868.html

deutschlandfunk.de, “Vor 90 Jahren Der Serienmörder Peter Kürten wird verhaftet”, Jürgen Bräunlein, 24.05.2020, https://www.deutschlandfunk.de/vor-90-jahren-der-serienmoerder-peter-kuerten-wird-verhaftet-100.html

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