プファルツ選帝侯博物館 ‐ ハイデルベルク

ハイデルベルク

Kurpfälzisches Museum (プファルツ美術館) は、パレ・モラス内にあるハイデルベルクにある美術と考古学の博物館である。芸術家シャルル ド グライムベルクの個人コレクションを、1870 年代後半にハイデルベルク市が購入したときに設立された。ハイデルベルクの歴史的な人物(フリードリヒ 5 世、エリザベス シャーロット、ペルケオ)の肖像画を含む 15 世紀から 20 世紀の作品や、 ロジャー・ファン・デル・ウェイデンとルーカス・クラナッハ(年長)による宗教作品が多数展示されている。 17世紀のオランダの静物画や18世紀のロココの絵など、見所が多い。また、彫刻作品としては、旧アウグスティヌス修道院の中世の墓石や、ハイデルベルク旧市街の家々にある初期バロック彫刻、アルトブリュッケにある彫像、選帝侯カール・テオドールなど、12世紀から20世紀の作品が展示されている。 最も重要な作品は、ドイツが誇る天才彫刻家、ティルマン リーメンシュナイダーによる【使徒の祭壇】 (1509 年)である。

プルァルツ選帝侯博物館の中央入り口(筆者撮影)

キャンバスに油彩。カール2世は、選帝侯カール・ルートヴィッヒと妻シャルロット・フォン・ヘッセン・カッセルの長男として生まれた。支配的な父親の陰に隠れており、学識はあったものの虚弱で、その治世は、1680年から1685年というわずか5年であった。その治世下では贅沢な支出が特徴的であったが、厳格なカルヴァン主義者であり、フランスからプファルツにやってきたユグノーの定住にも貢献した。この肖像画は、おそらくハイデルベルク城のプルァルツ家の絵画ギャラリーのために作成されたと思われる。

プファルツ選帝侯カール・ルートヴィッヒ(1617年~1680年)ヨハン・バプティスト・ド・リュエル1676年、キャンバスに油彩。バーデン・ヴュルテンベルク州科学芸術省からの貸与。フリードリッヒ5世の次男カール・ルートヴィッヒは、ウェストファリア条約により新たに創設された選帝侯の権利を得て、帝国から追放されていた父の後継者となった。カール・ルートヴィッヒは倹約的な宮廷運営、貿易促進、減税、リベラルな宗教政策を通して、戦争で交配したプルァルツを再建することに成功した。右手に誇らしげに掲げた帝国の王冠は、選帝侯の威厳を示しており、左手には儀式用の剣を持っている。

フランス王ルイ14世。作者不明、1700年頃の作。キャンバスに油彩。この肖像画は、画家イヤサント・リゴー(Hyacinhe Rigaud)の有名な絵画に基づいて描かれている。ルイ14世は70年以上に渡り、フランス王として、政治、社会、国家の中心であり、絶対王政の体現者であった。その治世は、ヴェルサイユ宮殿、爛熟した文化、そして積極的な対外戦争によって特徴づけられる。ヨーロッパにおけるフランスの優位性を強固にするため、プファルツ選帝侯カール2世の死後、ルイは弟のオルレアン公フィリップと結婚していた、カール2世の娘、エリザベート・シャルロットのプファルツ相続権を主張した。その後のプファルツ継承戦争により、プファルツ選帝侯領は壊滅状態となり、ハイデルベルクは徹底的に破壊された。

プファルツ公エリザベート・シャルロット(オルレアン公爵夫人)、1713年、キャンバスに油彩。イヤサント・リゴー(Hyacinhe Rigaud)作。エリザベート・シャルロット自身が大切にした老年の肖像画である。ブルボン百合の刺繍が施された青いコートを羽織り、オルレアン公爵夫人として母性的な威厳を漂わせている。若いころのエリザベートは、父であるプファルツ選帝侯によって、隣国フランスの脅威を懐柔するため、フランス王ルイ14世の弟であるオルレアン公フィリップと結婚させられた。その為にカトリックに改宗までしている。しかし、皮肉なことに、まさにこの結婚によって、プファルツはフランスとの戦争に巻き込まれ、1689年と1693年の2度、プファルツはフランスに占領されることになる。

プファルツ伯爵夫人ゾフイー、後のハノーファー選帝侯。ゲリット・ファン・ホンホルスト(Gerrit van Honthorst)1648年頃、パネルに油彩。オランダに亡命中のプファルツ夫妻の末娘、ゾフイーの半身像。オレンジを手に持ち、永遠の若さと美しさを表している。ゾフイーはハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト(Ernst August)と1658年に結婚し、夫は1692年に選帝侯に任命された。2人の結婚では娘と6人の息子が生まれ、そのうちゲオルク・ルートヴィッヒはエリザベス・ステュアートの孫として、1714年に英国王位に就任した。

選帝侯妃アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ。ヤン・フラン・ファン・ドゥ―ヴェン(Jan Frans van Douven)作。1695年頃の作。キャンバスに油彩。フィレンツェ王国最後の相続人であるアンナ・マリア・ルイーザは、1691年、デュッセルドルフの選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムの2番目の妃となった。夫と同様、アンナも音楽、芸術、狩猟に熱中し、子供はいなかったが、25年間夫と仲睦まじく暮らした。夫の死後、1717年、アンナはトスカーナに戻り、大公妃として1737年にメディチ家の全財産をフィレンツェとトスカーナ市に遺贈するという遺言書をしたためた。

プファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルム(Johann Wilhelm)。ヤン・フラン・ファン・ドゥ―ヴェン(Jan Frans van Douven)による1700年頃の作。キャンバスに油彩。ヨハン・ヴィルヘルムは、1685年以来、プファルツ=ノイブルクを統治してきた。ヨハン・ヴィルヘルムの治世中にハイデルベルクは破壊され、バロック様式で再建された。彼は芸術を愛し、この絵画ではかつら、豪華な甲冑、白貂の毛皮を身に着け、指揮官のポーズで描かれている。ヨハンは、自らが居住する宮殿に絵画コレクションを所有していた。

プファルツ伯爵夫人エリザベート。後にヘルフォルト(Herford)修道院長。ゲリット・ファン・ホンホルスト(Gerrit van Honthorst)による1637年の作。パネルに油彩。プファルツ伯フリードリッヒ5世とエリザベート・ステュアートの長女は、厳格なカルヴァン主義で教育を受け、学習熱心で、読書を好み、語学の才能もあったという。オランダに亡命してからは、学問の研究に専念している。エリザベートは、ルネ・デカルトの合理主義に傾倒し、デカルトは自著『哲学プリンキピア』を彼女に捧げている。エリザベートはその後、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツとも交流を持っている。1651年、エリザベートは弟のカール・ルートヴィッヒが獲得したハイデルベルクに戻っている。生涯未婚であったが、48歳の時にヘルフォルト修道院長に就いている。

ヴィルヘルミーネ・エルネスティーネ・フォン・デーネマルク(Wilhelmine Ernestine von Dänemark)。作者不明。1670年~1680年頃の作。キャンバスに油彩。デンマーク=ノルウェー王国の国王、フリードリッヒ3世の娘ヴィルヘルミーネ・エルネスティーネは、ゾフィー・フォン・ハノーファーの仲介により、1671年にプファルツ伯カールと結婚した。これは父カール・ルートヴィッヒの外交政策上の利益とも一致していた。しかし、夫婦は互いに嫌悪感を抱くようになり、結婚生活で子供が生まれることはなかった。その結果、プファルツ=ジンメル家の改革派はカールの死後に断絶し、プファルツ選帝侯領はデュッセルドルフのプファルツ=ノイブルクのカトリック陣営に移った。

選帝公妃エリザベス・スチュアート、ボヘミア王妃。ゲリット・ファン・ホンホルスト(Gerrot van Hornhorst)による1634年の作。レースで縁取られた黒いドレスには、真珠で装飾されている。この夫婦は13人の子供をもうけた。

フリードリッヒ5世の肖像画は、オコジョの裏地の付いた豪華なマントを羽織り、頭にはボヘミアのヴァーツラフ王冠を付けている。

イングランド王チャールズ1世。無名の画家による1637年頃の作品。キャンバスに油彩。チャールズは、スコットランド、イングランド、アイルランドの王ジェームズ1世とその妻、アン・オブ・デンマークの息子として1625年に王位を継承した。チャールズは、妹、エリザベス・ステュアートの支持者であった。この肖像画は、現在ドレスデンにあるアンソニー・ファン・ダイクによる1637年のモデルに遡る。チャールズ1世は、1632年にダイクを宮廷画家に任命している。

ライン川中流地域の画家による作品。ローゼンクランツターフェル。1486年頃の作品。もみの木にテンペラとオイル。グライムベルク(Graimberg)のコレクション。

シュヴァーベン地方もしくはライン中流地域の無名の作者による作品。1490年頃の作。木版に油彩。(中央の絵)マリアへの戴冠式が、使徒と聖人の間で執り行われている場面を描いた祭壇画。両翼には聖ウルスラと教会の教父であるグレゴールとヒエロニムス。

【十二使徒の祭壇】または【ヴィントシャイマー祭壇】(Windsheimer Altar)は、1509 年にティルマン リーメンシュナイダーによって作成された後期ゴシック様式の彫刻が施された祭壇である。 これはリーメンシュナイダーの最も重要な作品の 1 つであると言われている。祭壇には、12人の使徒に囲まれたキリストが描かれており、 中央部分にはキリストと 6 人の使徒があり、2 人の人物と 2 人のグループから構成されている。 両翼にはそれぞれ 3 人の使徒が浅浮き彫りで描かれており、 キリストの高さは104センチメートル、他の人物の高さは約90〜95センチメートルで表現されている。 祭壇のテーマは、キリストによる使徒の派遣です。 右翼のレリーフ中央の人物はおそらくリーメンシュナイダーの自画像を表していると思われる。この彫刻は細部まで表現されており、シナノキの独特の造形は、例えば顔、髪、手、ローブのひだや人物の豊かな表情に見られる。

シュヴァーベン地方、ウルムのミヒャエル・エルンハルト(Michael Erhard aus Ulm)の作か?リンゴをもち、王冠を冠ったマドンナ像。15世紀末の作。

無名のフランケン地方の画家の作。1518年の作。貧しい者を助けるマリアの祭壇画。

ペーター・ガルトナー(Peter Gartner)ツヴァイブリュッケン公、プルァルツ選帝侯ヴォルフガング。

ヨアキム・ギュンター(Joachim Günther)による1780年頃の作。バーデンヴュルテンベルク州の科学芸術省からの貸与。2人の司祭を描いているこの彫刻は、教区教会である聖マルティン教会の祭壇画の一部であった。ほぼモノクロで描かれたこの彫刻は、その衣服の細かな折り目が示すように、ロココから初期古典主義への変化を表している。

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