ヴェルサイユからの手紙 | リーゼロット・フォン・デア・ファルツ

ハイデルベルク

「太陽王」としられるフランスのルイ14世の義理の妹にあたる、リーゼロット・フォン・デア・ファルツ(Lieselotte von der Pfalz)は、ベルサイユ宮殿での宮廷生活に関する詳細な記録を3,000通もの手紙にしたためた女性として有名である。

リーゼロットと思われる肖像画 (Source:de.wikipedia.org)

ドイツで最も美しいルネッサンス様式の城の1つ、ハイデルベルクの城でエリザベート・シャーロット(Elisabeth Charlotte)は、1652年5月27日、プファルツ選帝侯、カール・ルートヴィヒ(Karl Ludwig)の娘として生まれた。彼女は正真正銘、「プファルツの子供」だった。率直で、ユーモラスで、嫌みな振る舞いは一切ない、落ち着いた少女だった。彼女は友達とハイデルベルクの町を歩き回っては、ブルーベリー摘みのコンテストに参加したり、父親が後援したマンハイム(Mannheim)とシュヴェツィンゲン(Schwetzingen)の職人を訪ねたりした。彼女は若い頃をハノーバーにいる叔母、ソフィー(Sophie von Hannover)のもとで過ごし、1663年にハイデルベルクに戻っている。

1670年頃のハイデルベルク、ヘリット・ベルクヘイデ(Gerrit Berckheyde)作(Source:de.wikipedia.org)

当時フランスでは、ルイ14世が国内の政治的反乱を鎮圧した後、近隣諸国に対する軍事侵攻を始めていた。カール・ルートヴィヒ選帝侯は結婚政策を通じてフランスと不戦協定を結ぶことを考えた。長い交渉の末、エリザベートとルイ14世の弟であるオルレアン公ルイ・フィリップとの結婚が決まる。この頃からエリザベート・シャーロットは現在一般的に知られているようにリーゼロット・フォン・デア・ファルツと名乗るようになる。この結婚は1671年の終わりに成立し、19歳のリーゼロットは涙をのんで故郷に別れを告げ、フランスへと旅立っていった。

パリでリーゼロットを待っていたのは不愉快極まりない生活だった。結婚生活は早々に破綻した。夫となったルイ・フィリップには同性愛の嗜好があり、リーゼロットとの夫婦生活には興味を示さなかった。夫婦は義務的に二人の子供をもうけはしたが、夫はパリにいる男友達に囲まれて怠惰な生活を送ることが多かった。結婚当初、ふたりは一緒にパレロワイヤル(Palais Royal)で暮らしていたが、5年後には別居を開始している。夫は兄であるルイ14世の前では恐れのあまり震えあがり、決して口答えすることがなかったという。

リーゼロットが結婚したルイ・フィリップ(Source:de.wikipedia.org))

夫との生活は冷え切っており、ヴェルサイユ宮殿にリーゼロットの居場所はなかった。こういった状況や自身の感情を彼女はドイツにいる親戚に手紙で報告した。手紙のなかで彼女はルイ14世の旺盛な食欲についても報告している。王は4種類の異なるスープを飲み、キジ、ヤマウズラの肉を食べたあと、大皿に盛られたサラダを食べ、その後、大きく切られた2枚のハム、にんにくの盛られた羊の肉を平らげ、続いて皿一杯のお菓子を食べた。最後に果物とゆで卵まで食した。

彼女はまたルイ14世の同名の息子についても、「常に享楽を求めており、常軌を逸している」と書いている。また、宮廷の婦人やルイからの扱いが侮辱に近いほど腹立たしいものであることも記載している。ルートヴィッヒの寵愛を受けていたマントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ(Madame de Maintenon)からも罵声が浴びせられたことを報告している。

マントノン侯爵夫人 (Source: de.wikipedia.org)

孤独なリーゼロットは故郷のプァルツに戻ることを切望していた。彼女はドイツ料理が恋しく、ザウワークラウトや牛肉と西洋わさびの料理をもう一度食べたくて仕方がなかった。パリに住んでいるプァルツ出身者はいつでも自由にリーゼロットの宮廷に出入りすることが許されていたが、彼らの中には母国語であるはずのドイツ語を軽蔑し、他人とドイツ語で会話をしたがらない者がおり、そういった輩には我慢ができないとリーゼロットは手紙のなかで愚痴をこぼしている。

1680年にリーゼロットの父親であるプファルツ選帝侯カール・ルートヴィヒが逝去する。プァルツの領土と選帝侯位はリーゼロットの兄であるカール2世に引き継がれた。しかし、わずか5年後の1685年、今度はそのカール2世もこの世を去ってしまう。嫡子はなかった。これにより、ヴィッテルスバッハ家プファルツ系のプファルツ=ジンメルン家の男子は断絶した。

ルイ14世はこの知らせに小躍りした。プァルツ侵略の機会を待っていたルイ14世は、プァルツ継承権を持っているのはリーゼロットであると主張。1688年、ルイ14世はプァルツに進軍を開始する。ここにルイ14世が仕掛けた4大侵略戦争のうちのひとつであるプァルツ継承戦争(大同盟戦争)が勃発する。この報に触れたリーゼロットは心臓が張り裂けそうであった。自分自身の存在がルイ14世を生まれ故郷のプァルツへ侵略させる口実となってしまったのだ!

リーゼロットは、義兄のルイ14世の軍隊が故郷プファルツを蹂躙する様を黙って見守るしかなかった。生まれ育ったハイデルベルク城も悪名高きメラック将軍(Mélac)に破壊され、最後には火をかけられた。フランス軍はドイツの歴史ある古都、シュパイヤー、ヴォルムス、マンハイム、オッペンハイムなどを次々と破壊した。ルイ14世は、リーゼロットがハイデルベルクやマンハイムの破壊を思いとどまるようお願いに来ることをわざわざ待ってから、全てを破壊させた。そしてリーゼロットが悲しい素振りを見せるとそれを咎めたのだった。

フランス軍に破壊されるハイデルベルク (Source:welt.de)

1697年、ルイ14世はフィリップ・ヴィルヘルムの息子ヨハン・ヴィルヘルムのプファルツ選帝侯位を承認し、リーゼロットのプァルツ継承権の主張を取り下げた。レイスウェイク条約が締結され、ここに約10年間続いたプァルツ継承戦争はようやく終結した。帰るべき故郷を失ったリーゼロットはますますフランス宮廷の異物のように感じていたが、1701年に夫が亡くなった後でさえフランスを離れることは許されなかった。ルイ14世の晩年には、ヴェルサイユの宮廷で神のような「太陽の王」に率直に意見を述べることができたのはリーゼロットだけであったと言われている。

晩年のリゼロット、
ハイデルベルク博物館蔵(筆者撮影)

1715年にはルイ14世が他界。1717年からはリーゼロット自身も様々な病気に悩まされたが、手紙は書き続けた。1722年12月3日、異母妹への手紙が最後となり、5日後の12月8日に70歳で亡くなっている。フィリップとの結婚の為にフランスに来た1671年から他界する1722年までの51年間に残した書簡は3,000通に及んだという。生前は、彼女がこよなく愛した故郷ハイデルベルクに戻ることは叶わなかったが、哲学者の道(Philosophenweg)に彼女の名前を冠した広場があり、大きな岩の上に碑文が刻まれている。

リーゼロットの碑文(筆者撮影)

参考:

welt.de, “Lieselotte von der Pfalz am Hof von Versaille”, Jan von Flocken, 11.08.2007, https://www.welt.de/kultur/history/article1096164/Lieselotte-von-der-Pfalz-am-Hof-von-Versaille.html

faz.net, “Die unentdeckte Europäerin”, Walter Schübler, 22.03.2021, https://www.faz.net/aktuell/feuilleton/buecher/themen/liselotte-von-der-pfalz-die-unentdeckte-europaeerin-17253260.html

“111 Geschichiten zur Geschichite”, Jan von Flocken, Kai Homilius Verlag, 2009, P180-P183

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