仕掛け時計が示す金印勅書

ニュルンベルク
フラウエン教会
ハウプトマルクト(中央広場)の東側に建つゴシック建築。写真:Wikipedia

フラウエン教会とは、ドイツ語で《聖母教会》という意味でドイツ各地に同名の教会が建てられてる。特にミュンヘンやドレスデン、ベルリンのフラウエン教会は有名だ。ニュルンベルクのフラウエン教会は、カール4世の《金印勅書》公布を記念して建設された。

この場所には、かつてユダヤ教のシナゴーグがあった。1348年からヨーロッパ全土において猛威を振るったペスト(黒死病)のせいで、ドイツ各地ではユダヤ人に対する迫害運動が起こったが、ニュルンベルクでも同様の運動が起こった。カール4世も民衆によるユダヤ人迫害を止めることはできず、ここニュルンベルクでもユダヤ人家屋やシナゴーグの撤去を黙認し、跡地へこの聖母教会建設の許可を与えている。建物の建設は1225年に始まり、1273年から75年までに完成した。

教会のファサードには、カール4世をモチーフにした仕掛け時計がある。この時計はなんと1509年に作られたもので、毎日1回だけ12時の鐘と共に仕掛け時計が動く。《メンラインラウフェン》(Maennleinlaufen)は、直訳すると《走る小人》という意味で、音楽隊とカール4世のまわりを7人の選帝侯が皇帝に挨拶をする仕組みになっている。下から見ているとわかりづらいが、人形は等身大で作られている。この仕掛け時計が再現しているものこそ《金印勅書》と呼ばれる文書の授与の場面なのである。

《金印勅書》(Goldne Bulle)とは、1356年1月10日にカール4世によってニュルンベルクの帝国議会で発布され、その後約400年にわたって神聖ローマ帝国の基本的な体制を規定した勅書のことである。これ以前、神聖ローマ皇帝位は、皇帝選挙で選ばれたハプスブルク家やルクセンブルク家など有力貴族の間を回っていた。選挙のたびに対立王が乱立し、混乱が生じていた。挙句の果てには、皇帝不在の大空位時代(1256年~1273年)をも生み出し、帝国の領邦は大いに乱れていたのだった。こういった状況を改善するため、カール4世が発布したのが、《金印勅書》である。羊皮紙文書に金印が押されていることから、このように呼ばれた。

金印勅書に用いられた金の印章

勅書は、全31章から成り、その中でも重要な項目として以下のことを規定していた。

  • 戴冠式はアーヘンで行う
  • 皇帝選出に関しては教皇の認可を必要としない
  • 七選帝侯(マインツ・トリーア・ケルンの各大司教、ライン宮中伯(プファルツ選帝侯)、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王の投票により、皇帝を選出する

この他にも、勅書は私闘(フェーデ)や諸侯間の同盟を禁止してたほか、選帝侯たちには貨幣鋳造権や関税徴収権を認めている。この勅書によって、選挙制度が確立され、帝国は安定期に入ったものの、領邦国家に様々な大権を認めたことで、のちに領邦国家の自立とその結果として帝国の分裂を促すこととなるのであった。

いずれにせよ、カール4世といえば《金印勅書》とすぐに連想されるように、帝国再建に向け、神聖ローマ皇帝としてのカールが行った内政改革のなかでも、特筆されるべき業績である。この勅書は、ナポレオン戦争による1806年の神聖ローマ帝国滅亡まで、450年もの長きにわたって法的効力を有したのであった。フラウエン教会の仕掛け時計は、まさにその勅書発布の歴史的一幕を表しているのである。

今日、仕掛け時計のおかげで大勢の観光客の目を引き付ける教会であるが、第二次世界大戦中に深刻な被害を受けた。奇跡的に戦火による破壊を免れたものとして、ファイト・シュトスの作品、ステンドグラスの窓などがある。中でも必見の作は、1440年頃に製作されたと言われる《トゥーハ―祭壇》と呼ばれる作品だ。

聖モニカと聖 オーガスティン・受胎告知とキリストの復活 ・ポールとアントニウス

《トゥーハ―》とは、ニュルンベルクの有力貴族の名前からとられており、当時トゥーハー家は、アウグスブルクのフッガー家やヴェルザー家と並んで最も裕福な商人の一族であったという。この後期ゴシックの作品は、作者不明であるものの、アルブレヒト・デューラー以前の時代の作品としてはニュルンベルクでもっとも重要な作品として考えられている。

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