売られたヘッセン兵

カッセル

カッセルのフリードリッヒ広場(Friedrichsplatz)には、ヘッセン=カッセル方伯フリードリッヒ2世の像がある。フリードリッヒ2世はオーストリア継承戦争でカール7世アルブレヒト(Karl VII. Albrecht)皇帝のためにヘッセン軍を率いて戦い、続く七年戦争ではプロイセン側について戦ったが、それ以外は特筆するべきところのない凡庸な領主であった。

フリードリッヒ2世像(Source:wikipedia.de)

しかし、1775年にアメリカ独立戦争が勃発するとフリードリヒ2世はイギリスとの取引において莫大な収益をあげ、財政難に陥っていたヘッセンを大きく立て直したのだった。通常であればその国家運営の手腕は賞賛されるべきものだが、その時イギリスとの取引の対象となったもののせいで、後世からも大きな批判を浴びることとなる。

ヘッセン=カッセル方伯フリードリッヒ2世は、アンシャンレジームのほかの支配者の多くと同じ問題を抱えていた。負担した費用よりも収入が下回ったのだ。そんな状況に陥っても、フランス国王のように称号や役職を売ることで国庫を潤すことができなかった。1月15日、フリードリッヒ2世は契約書に署名し、財政難への解決策を見つけた。一体何を売ろうとしたのか?1776年、彼は何千もの兵士をイギリスに売りとばした。イギリスは北アメリカの反抗的な植民地との戦いのために緊急に兵士の補給を必要としていた。

この特定の形態の人身売買は、フリードリッヒ2世を悪役へと変えた。 「ヘッセン」は、アメリカでの反乱軍の鎮圧のために、イギリス海軍により大西洋を横断したすべての傭兵部隊の総称となった。アメリカの反乱軍は、イギリス軍よりもヘッセン軍を恐れていた。なぜなら彼らは訓練されたプロの兵士であったからである。

1776年以降、イギリスはヘッセン=カッセル方伯フリードリッヒ2世(Friedrich II. von Hessen-Kassel)から数千人の兵士を雇い、アメリカ植民地での蜂起を鎮圧した。彼らは戦術を熟知しており、イギリス軍の中でもエリート集団であった。

すでにこの時代の人々でさえ、フリードリッヒのこの人身売買を厳しく批判したが、それが苦痛に満ちた経験に基づいているという事実を見落としている。三十年戦争では、カルヴァン派であったヘッセン=カッセルは、戦争当事者のおもちゃとなった。

少なくとも一定の抑止力を提供するため、方伯アマリーエリザベス(Amalie Elisabeth)と彼女の後継者は、ブランデンブルクープロイセンよりも人口比で大きな軍隊を編成した。 プロイセンでは民間人23人に対して兵士は1名であったが、ヘッセン=カッセルの場合は19名の兵士がいた。これは、経済的に脆弱な国家が、平時に14,000人もの軍隊を維持しなければならないことを意味した。

このシステムを実行するために、プロイセンと同様、ヘッセン=カッセルでも州制が導入された。十分な数の兵士が集まらなかった場合、別の地区がその穴埋めを提供しなければならなかった。兵士が離脱した場合、家族から交代が迫られ、それがさらに大衆を激怒させた。しかし、国の兵役は、振り返ってみると、決してそこまで顰蹙を買うような政策ではなかった。下層階級の多くのメンバーは社会の底辺での不安定な生活を送るよりも、軍隊で安定した給与を得る方を選んだ。傭兵の提供で知られるスイス連邦は良い例であった。

年間600,000ポンドで16,000人の訓練された兵士を提供したこの契約は、イングランドにとっても朗報であった。イギリス海軍が高度に訓練されていたのとは異なり、イギリス陸軍はせいぜい二流だったからだ。将校の地位は金で購入され、軍隊の評判は悪く、彼らの戦闘力はほとんど上がらなあった。イギリスが戦争に巻き込まれたとき、ハノーバー選帝侯が1714年以来同君連合であったイギリス帝国に、連隊全体を提供するのが通例となった。

ヘッセン=カッセルは15個連隊を擁し、イギリスの遠征軍のほぼ3分の1を提供し、その数は最大50,000人にも達した。他の部隊は、ヴァルデック=ピルモント(Waldeck-Pyrmont)、ヘッセン=ハーナウ(Hessen-Hanau)、アンハルト=ツェルブスト(Anhalt-Zerbst)、アンスバッハ=バイロイト(Ansbach-Bayreuth)から提供された。雇用者にとって契約は報われた。1866年にプロイセンが侵攻してくるまでの間、ヘッセン=カッセルの社会保障のシステムや文化産業は、傭兵売買によって手にした資金をフリードリヒが浪費せずに投資したことによって賄われていたという指摘もある。

雇われた兵士には自分たちの将校がいたのだが、指揮能力が大きく劣るイギリス人の将校によって率いられていた。野戦ではジョージ・ワシントンが率いる反乱軍は、「ヘッセン兵」に対抗することはほとんど不可能であった。しかし、森林、沼地、山々に囲まれた北アメリカの未開拓地域では、古典的な戦術はめったに機能しなかったが、ヘッセン軍は常にアメリカ兵に恐怖を与えた。

戦争が長引くほど、より多くの採用担当官があらゆる国から傭兵を雇うことに頼らざるを得なくなった。彼らもまた「ヘッセン人」と見なされ、アメリカ人女性への残虐行為、略奪、集団レイプに関する数多くの恐怖譚が次々に語られ、瞬く間に広まった。これらのレポートの多くは、ヘッセン兵が到着する前にすでにアメリカの新聞に掲載されていたものもあった。またイギリス人の司令官は雇われた兵士に略奪を許した。こういった雇われ兵の多くは厳格な軍隊の規律は持ち合わせていなかった。

兵士が脱走することはまれであったという。 というのも、「ヘッセ人」はどこに逃げるていいのかさえわからなかったのだ。彼らはアメリカだけでなく世界の地理についてなったく知識がなかったからだ。 1783年の終戦後、ヘッセン兵が本国に送還されたとき、数十名のアフリカ系アメリカ人たちも自発的に付き従ってドイツにやってきたという。人員の損失は​​合計で約7,700名に上った。 約5,000人の「ヘッセン兵」は自国に戻ることはせず、代わりにアメリカで新しい生活を始めたのだった。

参考:

welt.de, “Warum die „Hessen“ von den amerikanischen Rebellen so gefürchtet wurden”,  15.01.2022, Berthold Seewald, https://www.welt.de/geschichte/kopf-des-tages/article236253524/Verkaufte-Soldaten-Warum-die-Hessen-in-Amerika-so-gefuerchtet-wurden.html

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