【ドイツの伝承】バルドウィックの奇妙な挨拶 | シュヴェーリンとハインリッヒ獅子王

シュヴェーリン

ハインリッヒ獅子王がシュヴェーリンで受けた仕打ち

シュヴェリーンのマルクト広場には奇妙なモニュメントが建てられている。ひし形をした柱の上部には、うっすらにやけたような顔のライオンが左足を揚げ、今にも前に歩き出しそうな様子で佇んでいる。1995年、メックレンブルク創設1000年を祝すとともに、シュヴェーリン市の創設者である獅子公ことハインリヒ3世の死から800周年を記念して、コンスタンツの彫刻家のペーター・レンク(Peter Lenk)がシュヴェリーンのマーケット広場にこの記念碑を作成した。シュヴェーリンは1160年にハインリッヒ3世によって創設された。ハインリッヒ3世の時代、シュヴェーリンは食品や手工業品の取引を許された唯一の町であった。

マルクト広場のモニュメント(筆者撮影)

柱の側面には、ハインリヒ3世の生涯が4つに分けて描かれている。その中でも大きなインパクトをあたえているのが、馬上のハインリッヒを描いた作品だ。大きなしっぽを垂らした馬が後ろを向いており、その上でハインリッヒの後頭部を向けた姿で描かれている。公爵に対して住民たちは道端に跪いているが、どうも様子がおかしい。住民たちは公爵にお尻を向けるかたちで跪いており、彼らは一様にズボンを下ろして生身のお尻を見せているのだ。一番手前の女性もスカートを捲し上げ、しかめっ面をしながら公爵にお尻を突き出している。これは、《バルドウィックのお尻の敬意》(Bardowicker Gesäßhuldigung)として伝えられているある場面を刻んだものだ。設計の最初の段階ですでに住民の間で論争が起こっており、多くの人がこのデザインを猥褻と見なしていた。

《バルドウィックのお尻の敬意》(Source:wikipedia.de)

この場面の舞台となったのは、リューネブルクの北6キロのところに位置するバルドヴィック(Bardowick)という小さな町だ。この町の歴史は古く、カール大帝の時代に遡る。795年に初めて文章で言及されている。この年、カール大帝はバルドヴィックのすぐ近くに野営地を設立し、まだ自身に従おうとしないザクセン人との闘いの拠点とした。バルドヴィックは遠方へと続く主要街道と東へと向かう水路で行われる貿易を見張る取り締まり役として送られた王の使節が常駐する場所となった。805年の《ディーデンホーフェン教令》(Diedenhofener Kapitular)と呼ばれる教令では、フランク人の商人がエルベ川の北にあるスラブの領土へ行く際は、バルドヴィックを通過することが義務付けられていた。この頃、スラブ人地域への武器の輸出は禁止されていたが、バルドウィックにおいて荷物の検査が行われていた。スラブ人の領土との国境にあるバルドヴィックの経済的・地理的に重要な立地により、町は東西交易のハブとして機能するようになる。805年、カール大帝はバルドウィックをスラブ人との遠方貿易にとっての拠点と位置付けている。

バルドウィックの全盛期はビルング家による治世であったことは明らかだ。ビルング家は、ヘルマン・ビルングを始祖とするオットー朝時代の大貴族で、オットー大帝が帝国不在の折には、その代理人も務めたほどの人物だ。異民族と接するこの辺境の地の警備を任されていたことからも、武辺を誇る強者ぞろいの一族であった。そのヘルマン・ビルングとその後継者であるベンノ、ベルンハルト、オルトルフ、マグナスらが、東から来るスラブ人の攻撃に対して強力なダムとなり、帝国への異民族侵入を拒み続けたのだ。

12世紀、バルドヴィックはリューネブルクなどの主要な貿易都市と競合し、ドイツ北部で最大の都市の1つとなった。今日ではほぼバルドヴィック大聖堂があることでしか知られていないこの都市は、スラブ人との国境に位置する政治的、精神的な中心地として非常に重要となった。当時、バルドヴィックを流れるイルメナウ川は、バルドヴィックとエルベ川間のみ航行が可能であった。この水路はバルドウィックから外洋へとつながる重要な水路であった。そして、ノルマン人の海賊行為からも守られる最高の立地であった。リューネブルクから南のザルツシュタット(Salzstadt)間を流れる上流の水路の水位が上昇した後、それらの町で抽出された塩はまず最初にバルドヴィックへと運ばれていた。塩はバルドウィックの船頭たちによってイルメナウ川に停泊している船に移し替えられ、まずバルドウィックへ向かったのち、リューベックへと輸送されたのだった。

しかし、1142年にハインリヒ3世がザクセン公となったとき、この都市は支配的な地位を失い始めた。政治的な理由からハインリッヒはリューベックとシュヴェーリンの開発を推し進めた。リューベックはバルト海にアクセスでき、スラブ人との国境地帯でキリスト教の支配を強化するための基盤となったからだ。

このため、ハインリッヒは1134年以降リューベックの商人に特権を与えた。 1160年、ハインリッヒはスラブのアボドライト族(Abodriten)の集落を征服し、同じ場所に今日のシュヴェーリンを設立した。そして、すぐハインリッヒは今日のメクレンブルクにあたる地域全域でキリスト教を布教するために都市特権と市場特権を与えた。

イルメナウ川に水門が建設されたことで、シュヴェーリンからリューネブルクまでの航行が可能となり、リューネブルクの塩はバルドヴィックで積み替えられる必要がなくなった。バルドヴィックに定住していた商人の多くはリューベックへと移り住んで行き、バルドヴィックの住民にとっては大きな不満の種となった。

そんなハインリッヒ3世であったが、皇帝バルバロッサによるイタリア遠征を拒んだことで、皇帝の怒りを買い、帝国を追放処分とされてしまう。帝国の大物であるザクセンの獅子公でも帝国追放処分に遭ったことで、帝国内の貴族にも動揺が走ったが、ハインリッヒは皇帝の命令に従うよりほかになかった。帝国を追放された後、ハインリッヒは1182年からの3年間、イングランドにいる義兄のリチャード獅子心王のもとで亡命生活を送っている。このハインリッヒの亡命中でさえ、リューベックやシュヴェーリンの経済的成長は止まることがなかった。この2都市の急速な繁栄はバルドヴィックにとっては不利益となった。

バルドヴィック市民の目にはハインリッヒの政策は自分たちにとって不都合であると写っており、そのことでハインリヒ3世が亡命先へと向かう途中、公爵の政策に抗議して、ハインリッヒは町への入場を拒否され、町に滞在することも拒絶されている。公爵が町へとやってきたとき、市民は公爵に対して敬意を表するべく、礼儀正しく深いお辞儀をした。しかし、市民は公爵にお尻をめくり、そのむき出しのお尻を公爵に突き出した。市民がハインリッヒにこの「独自の奇妙な挨拶」で敬意を表したという文献は残っていない。しかし、いつの頃からか「城門は閉ざされ、ハインリヒ3世を城門の前で締め出しを食らった。バルドヴィックの市民は市壁の上に座り、むき出しのお尻をハインリヒ3世に向けて突き出した。」と伝わるようになった。

ハインリヒ3世は、亡命が終わった1189年10月26日からバルドヴィックの街を包囲し、3日後に大聖堂を除く町のほとんどを破壊し、町は炎に包まれたと記録されている。このハインリッヒによるバルドウィックへの攻撃については、ひとつの伝説が伝わっている。

ハインリッヒ3世はバルドウィックの激しい抵抗に遭い、町を攻めあぐねており、町の征服を半ばあきらめていた。ある日、ハインリッヒ3世の野営地に一匹の迷った牡牛が現れた。兵士はその牛を捕まえようと追いかけまわしたが、逃げ回る牛は大慌てで元来たバルドヴィックの厩舎へと戻っていった。途中、牡牛はイルメナウ川(Ilmenau)を渡ったのだが、牛の体の中ほどしか川に浸かっていないところをハインリッヒの兵士たちは目撃したのだ。こうしてハインリッヒ陣営は川の浅瀬を見つけることができた。こうしてハインリッヒの軍隊はイルメナウを通ってバルドヴィックの町の城壁の後ろへと簡単に到達することができ、町を容易に占領することができた。このエピソードから、現在でもバルドウィックの住民に「バルドウィックの牛は何をしたんだっけか?」と質問することがタブーとなっているそうだ。しかし、こんな質問に本気で怒る人がいるとは思えず、おそらく戯言の類だろう。非常に似た逸話がカール大帝にも残っている。

現実的には、この町を破壊することは政治的、経済的に見てもハインリッヒ3世にとって何のメリットもなかった。イングランドへの亡命前に市民から受けた仕打ちに対するハインリッヒの復讐とも考えられているが、実際は違った。ハインリッヒ3世が帝国追放になってから、バルバロッサはバルドヴィックをアスカ―ニエン家の高貴な貴族であるベルンハルト(Bernhard)に与えた。ベルンハルトは皇帝の信奉者であり、それがあって、ハインリッヒ3世はベルンハルト支配下のバルドウィックを破壊したと考えられる。バルドヴィックが破壊されてからはこの地方の力関係も大きく様変わりした。バルドヴィックは貿易拠点としての機能を完全に失い、リューネブルクが貿易の中心地としての役割を担うようになったのだ。

バルドヴィック大聖堂が破壊を免れたのは、神に捧げられた神聖な場所を破壊しようとする者がハインリッヒ側にもいなかったからだという。バルドヴィック大聖堂の南門には、獅子公による《Leonis Vestigium》(レオニス・ヴェスティギウム)という文字が書かれた金色のライオン像が埋め込まれており、この像は《獅子の足跡》(Spur des Löwen)と呼ばれている。ハインリッヒ獅子公はバルドウィック市民に警告する為に、自身がやって来た跡を残しておいたのだった。

獅子公のライオン(Source:wikipedia.de)

参考:

dewiki.de, “Bardowicker Gesäßhuldigung”, https://dewiki.de/Lexikon/Bardowicker_Ges%C3%A4%C3%9Fhuldigung

auf-nach-mv.de, “Löwendenkmal am Markt”, https://www.auf-nach-mv.de/reiseziele/a-loewendenkmal-am-markt-in-schwerin

landeszeitung.de, “Die Zerstörung Bardowicks”, 23.12.2019, Dennis Thomas, https://www.landeszeitung.de/lueneburg/25143-die-zerstoerung-bardowicks/

erwin-thomasius.eu, “Die Bardowicker Gesäßhuldigung”, http://erwin-thomasius.eu/schwerin/gesaesshuldigung.html

de.wikisource.org, “Des Löwen Spur”, https://de.wikisource.org/wiki/%E2%80%9EDes_L%C3%B6wen_Spur%E2%80%9C

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