北のノイシュバンシュタイン城

シュヴェーリン

シュヴェーリン城は、しばしば《北のノイシュバンシュタイン城》と呼ばれる。シュヴェーリンには12の湖と1つの池があり、都市部の約30パーセントは水で構成されている。シュヴェーリン城はドイツ最大のシュヴェリーン湖とブルク湖に囲まれた島にある。この城は何世紀にもわたってメクレンブルク公爵夫人と大公の住居であり、現在はメクレンブルク=フォアポンメルン州議会の議場となっている。シュヴェリーン城は、メクレンブルク=フォアポンメルン州の2,000を超える城と邸宅の中で最も有名かつ壮大であり、イギリスの航海士、ヘンリー・モンタギュー・ドーティ卿(Sir Henry Montague Doughty)は、1892年にシュヴェリーンを訪れた時、その美しさに熱狂して次のように語った。「つかの間の夢から浮かび上がったかのようなこの非現実的な城は、水に浮かんでいるように見えた」

965年にマクデブルクからウェリグラード城(メクレンブルク城)に旅行した、アラビア人のアンダルシア商人イブラーヒーム・イブンヤクブ(Ibrahim Ibn Jakub)は、その旅行記のなかで、淡水湖の近くにまだ建設中であったと思われる城について報告している。

1160年に、この砦はハインリヒ獅子公のリーダーシップのもと、東に向かって領土を拡大することを計画したキリスト教信者のゲルマン人貴族の標的になった。ゲルマン人が優勢であった事から、スラブ人のヴェンデ公ニクロト(Niklot)はオボトリート族を率いて砦を破壊した後、この地を去った。しかし、ゲルマン軍はこの場所の戦略的重要性に気づき、砦の再建築を開始。同時にシュヴェーリン市も設立している。そして市壁の中に司教座がおかれ、司教座都市となったことで町はその重要性を増した。(城の正面玄関に飾られている騎馬像のモデルがニクロトだ。)

1167年に、ハインリヒ獅子公は、ニクロトの息子プリビスラフ(Pribislaw)の家臣であるグンツェリン・フォン・ハーゲン(Gunzelin von Hagen)にシュヴェリーン郡を封土している。1358年、シュヴェリーン郡は、ニクロトの子孫であるアルブレヒト2世公爵(Albrecht II.)が購入し、その領土はメクレンブルク=シュヴェリーン公国となった。彼らはすぐに居城をヴィスマールからシュヴェリーンに移した。この頃は後期ゴシック建築が流行していた頃で、要塞住居の建築にも大きな変化をもたらした。この頃に建てられた司教邸宅(Bischofshaus)は、今も湖畔に残っている。

メクレンブルク公ヨハン・アルブレヒト1世(Herzog Johann Albrecht I.)の時代になると、要塞は防衛としての性格を失い、壮麗な宮殿は居住空間としての快適さが優先された。ドイツのルネサンス期には、ヴィスマールのフュルステンホーフ(Fürstenhof in Wismar)やガーデブッシュ城(Schloss Gadebusch)に代表されるように、北ドイツでは、建築にテラコッタと呼ばれる赤レンガを使用することが主流であり、シュヴェーリン城にもリューベックの工房からレンガが供給された。

本館修復が完了して数年後に、アルブレヒト公は宮殿礼拝堂の再建にも着手。マルティン・ルターが奉献したトルガウのハルテンフェルス城(Schloss Hartenfels)の礼拝堂をモデルとして建てられたこの教会は、この国初のプロテスタントの教会となった。礼拝堂の天井は、夜空をイメージした青で塗られ、表面に星があしらわれている。(星は、8,758個もある!)

16世紀半ば、島の立地条件にもかかわらず防衛施設が必要とされた為、イタリア人要塞建築家によって、北西、南西および南東に堡塁が建設された。これらの堡塁は数度の改修が行われ、現在も残っている。

1612年にメクレンブルクに雇われた建築家 ゲールト・エヴェルト・ピロート(Ghert Evert Piloot )が、オランダ風ルネッサンス様式で宮殿を再建する計画を立て、1617年に建設が開始されたが、三十年戦争の勃発により中断された。建設は、1635年から1643年の間に、わずかに建物正面部や厨房などが建てられた程度の限定的な物となった。公爵の住む宮殿は、フリードリヒ1世の治世下の1756年にルートヴィヒスルスト宮殿(Residenz Schloss Ludwigslust)へと移された。

1835年に住居がシュヴェリーンに戻されたとき、宮殿の建物は状態が悪化していた。さらに、異なる時代様式で建てられた建物は、公爵の構想にも合致していなかった。そのため、大公ポール・フリードリヒ1世(Großherzog Paul Friedrich I.)は、宮廷建築家ゲオルク・アドルフ・デムラー(Georg Adolf Demmler)の計画に従って建設を開始。しかし、大公の後継者フリードリヒ・フランツ2世が1842年に19歳の若さで突如亡くなったため、建設も数か月で中止されてしまった。

その後、再建が決まったが、大公は、ドレスデンの建築家ゴットフリート・ゼンパー、ベルリンの建築家フリードリヒ・オーギュスト・シュテューラーの計画でも満足しなかったため、デムラーはゼンパーの要素を自身の計画に組み込みながらも、フランスルネッサンスの城、特にシャンボール城(Schloss Chambord)からインスピレーションを受けたデザインを行った。

1913年12月、宮殿の約3分の1が火災で損傷したが、後に修復され、 城は博物館となった。1990年代後半から、州議会議事堂としても使われている。今日、シュヴェーリン城は11階建てで、630室もの客室がある。22メートルの高さにそびえ立っているため、建物法では建物は高層ビルと見なされている。

中世からの歴史をもつシュヴェーリン城であるが、宮殿内にはペーターメンヒェン(Petermännchen)という一緒の幽霊が現れると言われている。小人たちはわずかな身長で、17世紀頃の服を着ており、夜になると城の中を歩き回るといわれている。誰の目にも見えるわけではないが、城に住む気立てのよい守護霊と考えられているが、時にはいたずらもするようだ。

シュヴェーリン城はまだユネスコ世界遺産に登録はされていないが、2014年6月12日に登録申請が行われた。現在、シュヴェリーン城は、ユネスコの世界遺産リストに登録され、新たな候補となっている。

参考:

welt.de, “Das Schloss fasziniert viele mehr als Neuschwanstein”, 12.11.2020, Maike Grunwald, https://www.welt.de/reise/staedtereisen/article219473830/Schwerin-Das-Schloss-fasziniert-viele-mehr-als-Neuschwanstein.html

schweriner.de “DAS SCHWERINER SCHLOSS”, https://schweriner.de/tourismus-kunst-kultur/sehenswertes/das-schweriner-schloss

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