プロイセンの兵隊王 | フリードリッヒ・ヴィルヘルム1世

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1713年2月25日、まだ若くして王国の王位に就いたプロイセンの「兵隊王」こと、フリードリッヒ・ヴィルヘルム1世(Friedrich Wilhelm I.)ほど、毀誉褒貶の激しい人物はいない。フリードリッヒは自身を国の「会計士兼元帥」と見なしていた。彼の収める王国は、ライン川左岸のクレーフェから近隣のリトアニアの町メーメルまで1000㎞以上に及んでいた。他の国家に比べて、無機質で統一なく組み合わされたプロイセンの領地を有機的に機能させるには、領民を一丸とすることが必要であり、この点にあらゆる資源や努力を注力する必要があった。

フリードリッヒ・ヴィルヘルム 1世は、権力のためにあえて宮廷の華麗さを犠牲にした。フリードリッヒは明確にターゲットを絞った国家支援を通して、わずか数年の間に未開発の輸入国であったプロイセンを輸出国に変えた。これほど高い税金を課している国はなかった一方、国民にこれほど多くの資金と補助金が提供されている国もどこにもなかった。このことからフリードリヒ・ヴィルヘルム1世を初期の社会主義者と見なす歴史家さえいる。「王位に就いた革命家」とまで呼ばれたことがあった。

移民受け入れと富国強兵

プロイセンは教育を受けた人々を必要としており、1717年10月には国王が5歳から12歳までの義務教育の導入を宣言した。そしてこの新興国家は国力増強のため移民を必要としていた。 1732年、国王はザルツブルクから故郷を追われた25,000人のプロテスタントに、東プロイセンへの入国許可を与えた。ヴィルヘルムは移民たちにプロイセンまでの旅費まで支払い、家畜、種子、農耕の道具を与えた。山の多いオーストリアから来た移民たちは、森林と沼地からなるプロイセンの開拓に大きく貢献した。しかし、プロイセンの移民政策は、誰もが制限なしに国内への亡命を認められるような人道的な政策ではなかった。国家は人口の増大を必要としていたのではなく、労働者と生産者を必要としていた。その為、プロイセンでは、貧しい、乞食、放浪者、「その他の役立たずの使用人」を追放するための多くの条例があった。フリードリヒ・ヴィルヘルムは 1725 年に、国境で逮捕されたすべてのジプシーを「容赦なく絞首台で処罰する」よう命じている。

プロイセンの経済的奇跡には、1713 年以降の活発な建設活動が含まれていた。ベルリンに新たに建設されたフリードリヒシュタットのいくつかの貴族の宮殿を除けば、この国で建設されたのは市庁舎と学校、兵舎と要塞、病院と救貧院を除いて、ほとんどが民間の建築物であた。国家が建設した建物は、君主自身を反映させたかのように質素で経済的であった。

王室で提供する料理も驚くほどシンプルであった。ヴィルヘルムの妻ソフィー・ドロテアと宮廷の取り巻きたちを悩ませたのは、フリードリッヒ・ヴィルヘルムが質素な料理しか口にしないことだった。ベーコンを添えたエンドウ豆、目玉焼き、牛肉と臓物を添えた白菜など「農民」料理を好んで食した。
フリードリッヒのお気に入りは、「兵隊王」というニックネームが示すように、軍人たちであった。彼は同時代人の君主のなかでは、常に制服を身に着けた最初の人物であり、しばしば「軍隊がうまくいっているのを見るのは本当に喜びを感じる」と表現した。彼は軍隊を 40,000人から 81,000人に増強し、「軍国主義」は三十年戦争中も何年にもわたって維持された。プロイセンをあえて攻撃しようとする外国勢力が存在しなかったことは、フリードリッヒの政策の結果であっただろう。

フリードリヒ・ヴィルヘルムは、1715 年のシュトラールズント占領の際にも軍隊を派遣し、仮想敵国を恫喝するだけで事足りた。 「彼らが私をそっとしておけば、私はおそらくじっと座っているでだろうが、もし彼らが私に牙をむいたら、私もまた彼らに牙をむくだろう」と彼は言った。

兵士という職業は、どの国においても評判が悪く軽蔑されている職業であったが、プロイセンでは高く評価され、尊敬を受けていた。フリードリッヒは地元の貴族に士官としての訓練を与えることで、軍隊、君主、そして何よりも国家への忠誠心が育つよう、1717年に士官候補生学校を設立した。フリードリッヒは貴族の自由精神を、国家全体に向けられた奉仕と義務の精神に変えることに成功したのだった。

フリードリッヒの執務スタイル

若い頃すでに、フリードリッヒは、自分の健康も他人の健康も考慮しない厳格な執務スタイルを考案していた。彼の部下は全員、彼と一緒に終日行動することを期待された。 部下はしばしば彼を怒らせたが、性格の面では、フリードリッヒはブルジョア的であったとう。多忙なフリードリッヒは仕事の遅い役人たちをたびたび脅してでも仕事に集中させた。「諸君は私の笛に合わせて踊るのだ。さもなければ、悪魔が私を連れ去りに来る。私はツァーリのように吊るされ、焼かれ、反逆者のように扱われるだろう。」

フリードリッヒのこの苛烈ともいえる管理方法は確かに大きな効果を挙げた。プロイセンでは、秩序、組織力、時間厳守、徹底が最優先事項となった。フリードリッヒ自身が常にこれらの美徳を身をもって示したため、彼の一日の労働時間が10時間を下回ることはめったになかったという。

彼の結婚生活は、愛人と性的な放蕩が許容されていた時代には完璧であった。しかし、もしフリードリヒ・ヴィルヘルムが裏切りに気づいたり、それを疑おうものなら、悲惨な出来事が起こったに違いない。フリードリッヒは大臣であっても自身の子供であっても、鞭で打擲することをためらう男ではなかった。

彼は息子であり、後に「大王」と呼ばれることになる王位継承者、フリードリヒ2世に12 項目の政治的遺言を残した。その中で彼は、とりわけ、「自分自身が敬虔で純粋な生活を送り、国家と軍隊にとって模範となるように。」と言明している。そして遺言の中では、「兵隊王」フリードリヒらしい、特徴的なアドバイスが残っている。

「この世界で王として名誉ある統治を行おうとするものは、自分のことは全て自分で行うべきである。」

参考:

welt.de, “Der Soldatenkönig prügelte seine Beamten zur Arbeit”, 25.02.2013, Jan von Flocken, https://www.welt.de/geschichte/article113882412/Der-Soldatenkoenig-pruegelte-seine-Beamten-zur-Arbeit.html

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