エアフルトの北西35㎞にあるバート・ランゲンサルツァ(Bad Langensalza)は、
1099年7月15日、エルサレムは第1回十字軍により征服され、「聖地奪還」は達成された。 テューリンゲンのヘルマン・フォン・ザルツァ(Herrmann von Salza)はこの頃、まだ生まれていなかったが、 そのわずか100年後、聖地に設立されたドイツ騎士団の4代目総長となり、歴史に名を残すこととなった。 ヘルマンはイスラエルにあるアッコンを騎士団の拠点とし、強力な軍事力を盾に、後にプロイセンの支配者となった。
1179年、現在のバート・ランゲンサルツァに生まれたヘルマンの人生は、十字軍に大きな影響を受けた。 ヘルマンの先祖は大臣であり、テューリンゲン方伯に仕えた下級貴族であった。 ヘルマンの少年期と青年時代についてはほとんど知られていないが、ヘルマンも方伯の宮廷でキャリアを始めたと考えられている。
目次
ドイツ騎士団の総長兼外交官
ヘルマンは 1209年に初めて歴史に姿を現し、アッコンのドイツ騎士団の総長に選出された。この間、彼は功績を残し、不動の地位を確立した。 ヘルマン・フォン・ザルツァは、当初は慈善団体だった小規模な組織を強力な軍事組織へと発展させた。 教皇と皇帝を取り持つ優れた仲介者である一方、当時最高の外交官の 1 人へと成長した。 ヘルマン・フォン・ザルツァは、帝国、皇帝、騎士団にとって幸運をもたらしたのだった。

慈善団体から軍事組織へ
ドイツ騎士団は、1190年に第3回十字軍の最中に、北ドイツのハンザ都市の十字軍によって聖地に病院として設立された。 彼の仕事は、助けを求める人々と負傷した十字軍の世話をすることだった。8年後、この病院はテンプル騎士団をモデルとした騎士団に改組され、教皇によって承認された。 騎士団はまた地元司教の管轄から外され、教皇の直属に置かれた。この特別な地位は今日でも有効であり、騎士団の仕事において非常に重要であった。
軍事組織への転換後、騎士団は急速に拡大した。 パレスチナの本部に加え、イタリア、フランス、スペイン、ドイツ、ギリシャ、アルメニアに支部が設立された。 騎士団の管轄地域の存在は、お金、財産、大規模な不動産、教会、修道院、病院を寄付した十字軍に負うところが大きい。 諸侯、司教、教皇、そして皇帝も、すぐに騎士団の支持者となった。 1214年、フリードリヒ2世はアルテンブルクの病院と資産をドイツ騎士団に寄付した。 この時、フリードリッヒ2世はヘルマン・フォン・ザルツァとも知り合いになっている。 1216年以来、ヘルマンはフリードリヒの宮廷で教皇庁の特使を務めてた。 フリードリッヒ2世はグランド マスターの外交手腕を高く評価していた。 ヘルマンはすぐにフリードリッヒの腹心の一人となり、後に友人の一人となった。
1211年、ヘルマン・フォン・サルツァは現在のトランシルバニアであるブルツェンラント(Burzenland)に、騎士団がその所在地を得ることでハンガリー王アンドレアス2世と合意に達した。その見返りとして、ハンガリー王はヘルマンがクマン人にキリスト教を伝道し、植民地化する為の援助を行うことになっていた。 しかし、ハンガリー王が異教徒を改宗させる以上のことを望んでいることにヘルマンはすぐに気付いた。ハンガリー王は騎士団の領地における政治的自治を望んでいたが、これは王の権威を弱体化させる恐れがあった。 1225年、騎士たちはブルゼンランドから追放された。
フリードリッヒ2世が、皇帝への戴冠の代わりとして、教皇に約束した十字軍遠征を、ヘルマンは代わりに引き受けた。1187 年にハッティンで十字軍が壊滅的な敗北を喫して以来、エルサレムはイスラム教徒の手中に落ちていた。 ヘルマンは、エルサレム王国の継承者であるイザベラ・フォン・ブリエンヌ(Isabella von Brienne)と皇帝フリードリッヒ2世の結婚を巧みに手配した。
1225年にブリンディジで結婚式が行われ、フリードリッヒは2度目の結婚であり、この結婚によりエルサレム王という新しい称号を手にした。ヘルマンは、エルサレムが陥落したときに失われたドイツ騎士団の領土請求権を確保した。
プロイセンの祖先としてのヘルマン
ヘルマンとその騎士団は、しばらくハンガリー王国の警備を受け持っていたが、ハンガリー王アンドラーシュ2世(Andreas II.)の不興を買って同国を追放されていた。しかし、その後、騎士団は総長であるヘルマンの外交手腕のおかげで大成功を収める。
13世紀初頭、ポーランドのマゾヴィア公コンラート公(Konrad von Masowien)は、異教徒であるプルーセン人と戦っていた。プルーセン人とは、バルト海の南東岸に居住していた民族であり、977年には、ポーランドのボレスワフ1世がプラハのアーダルベルト司教(Adalbert von Prag)をキリスト教化の布教目的でプロイセンに送り込むが、プルーセン人によって殺害されていた。伝えられるところによると、アーダルベルト司教たちは、プルーセン人が崇拝していたオークの木を伐採したという。キリスト教化される前のザクセン人と同様に、「異教」の民族は、自然に宿る神々、特に木に宿る神を崇拝する場合が多かった。ザクセン人のキリスト教化の前例に倣い、アーダルベルト司教はプルーセン人の警告にも関わらず、彼らの神に対する冒涜行為を続け、そして殺害されたのだった。プルーセン人の抵抗は激しく、12世紀から続く遠征はことごとく失敗に終わっていた。そして1226年、コンラート公はヘルマンのドイツ騎士団に救援を要請するのである。これは1193年に教皇クレメンス3世の呼びかけにより始まった「北方十字軍」の一環である。コンラート公の要請を受けたヘルマンは「異教徒」と戦うかわりに、征服した土地をコンラート公と共同統治することを求めた。この戦いで勝利を収めたヘルマンは、このプルーセン人の土地(プロイセン)を支配することとなった。
ドイツ騎士団がこのプロイセンの地を支配するようになってからわずか数十年で、プロイセンは西側における最強国の1つへと発展し、500年後、この領土はホーエンツォレルン王国と名付けられた。 ヘルマン自身は他界した後であったが、ヘルマンをしてプロイセン王国の祖と見ることができる。 皮肉なことに、ヘルマンは常に聖地における騎士団王国を夢見ていたが、結局、この願いは叶うことはなかった。しかし、まさにそのエルサレムにおいてヘルマンは自身の最大の外交的成功を達成したのであった。
帝国権力とローマ教皇の絶え間ない争いの狭間で
1229年、フリードリヒ2世の十字軍に同行し、最終的に贖われたとき、テューリンゲンの宗教家はエジプトのスルタンとの交渉に尽力し、キリスト教徒へのエルサレム無血開城につながった。
1236年、教皇グレゴリウス9世はプロイセンの騎士道国家建設を認めた。 こうして、ヘルマンはザクセン州と同等の大きさの領土をもった、政治的に独立した国家元首となった。 ヘルマンが生きた時代の根本的な対立、つまり帝国権力と教皇の間の絶え間ない争いを巧みに利用することによって、自身の目的を達成した。 熾烈な権力争いを行う両派閥の仲介者として巧みに振舞い、自身の騎士団の存在を最大限に活用した。
イタリアでの永眠
ヘルマン・フォン・ザルツァは、ドイツ騎士団のグランドマスターを務めた時代にテューリンゲンを訪れたのはたった4回だけだった。ヘルマンが選んだ永眠の地はイタリアだった。 栄光に満ちたキャリアを築いた後、この地でヘルマンは、1239年3月20日にこの世を去った。
ヘルマンの末裔は帝国諸侯の地位に就き、片頭の勅鷲を紋章に使用する権利さえ得た。西側世界の社会階層では、ヘルマン・フォン・ザルツァは皇帝と法王のすぐ下に位置する。
教皇グレゴリウスによるフリードリヒ2世の破門により、ヘルマンが死んだ年、ヘルマンが外交官として築き上げてきた関係は崩壊するが、ヘルマンは後世に強力な騎士団を残し、プロイセンの地に強力な国家を遺したのだった。
ヘルマンの死からわずか50年後の1291年、十字軍の最後の砦であったアッコンはイスラム教徒の手に落ち、200年にも及ぶ十字軍はキリスト教徒の敗北によって幕を閉じた。
参考:
mdr.de, “Hermann von Salza: Ordensritter zwischen Papst und Kaiser”, https://www.mdr.de/geschichte/weitere-epochen/mittelalter/hermann-von-salza-israel-hochmeister-deutscher-orden-100.html
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