ヴィッテルスバッハ家の皇帝 ルートヴィッヒ4世

ミュンヘン

ミュンヘン中央駅を南に1㎞ほど下ると、カイザー・ルートヴィッヒ・プラッツ(Kaiser-Ludwig-Platz)という広場にでる。この広場に立つ銅像のモデルとなっているのが、ヴィッテルスバッハ家から神聖ローマ皇帝に上り詰めたバイエルン公、ルートヴィッヒ4世(Ludwig IV. der Bayer)である。

バルバロッサ皇帝は、対立したハインリッヒ獅子公を帝国追放に処し、没収したバイエルンを没収。1180年、フリードリヒ1世バルバロッサ皇帝は、オットー・フォン・ヴィッテルスバッハ伯爵(Otto von Wittelsbach)にバイエルン公国を封土し、王朝の主導的地位を確立した。 これ以降、ヴィッテルスバッハ家によるバイエルンの支配は、1918年まで続くのである。

1214年にラインラントープファルツが追加されたとき、バイエルンは領土の支配権を得たが、一族間の紛争によって弱体化するのだった。最初の領土分割は1255年に行われた。ルートヴィヒ2世公爵(Herzog Ludwig II.)は、オーバーバイエルン(上バイエルン)とプファルツ選帝侯位を受け取り、弟のハインリッヒ8世(Heinrich VIII.)がニーダーバイエルン(下バイエルン)を支配することとなった。皇帝ルドルフ・フォン・ハプスブルク(Rudolf von Habsburg)の親しい同盟者であったルートヴィヒは、自身の土地を息子のルドルフ(Rudolf)とルートヴィヒ(Ludwig)に遺贈した。(皇帝ルドルフの娘マチルデは、ルートヴィッヒ4世に嫁いでいる。)しかしその為、2人の兄弟の間の生涯にわたる対立が生まれたのだった。

次男であるルートヴィヒは、1282年にミュンヘンのレジデンツで生まれた。彼は当初、1294年に父親が亡くなった後、母親と一緒にオーバーバイエルンの遺産を管理する兄ルドルフの陰に隠れていた。しかし、ルートヴィヒが元服を迎えたあたりから、兄弟は激しく敵対するようになる。 1301年以来、共同摂政となったルートヴィヒは、1308年にハインリヒ3世・フォン・グロガウ公爵(Heinrich III von Glogau)の娘であるベアトリクス(Beatrix)と結婚した。彼女が1322年に亡くなると、彼はマルガレーテ・フォン・ホランド(Margarethe von Holland)とケルンで再婚する。

ニーダーバイエルン公爵、シュテファン1世(Stephan I)とオットー3世(Otto III)の死後、息子の保護をめぐる論争があり、ルートヴィヒ・フォン・オーバーバイエルン(Ludwig von Oberbayern)とハプスブルク家のフリードリヒ美王(Friedrich der Schöne)の両方がその保護権を主張した。

ニーダーバイエルンでの影響力をめぐる紛争は、1313年11月にモースブルク(Moosburg)近郊のガンメルスドルフの戦い(Schlacht von Gammelsdorf)で激化し、ルートヴィヒの勝利で終わった。


1313年8月、皇帝ハインリヒ7世(Heinrich VII.)は軍事行動中にマラリアで死亡した。ルクセンブルク家のハインリッヒ(Heinrich)は、1308年に選帝侯によって王に選出されたのだった。 1312年、ハインリッヒはローマのラテラン(Lateran)で皇帝に戴冠した。彼の死後、ハプスブルク家、ルクセンブルク家、ヴィッテルスバッハ家の3つの強力な王朝が、新しい皇帝選挙を争っていた。 1314年、選帝侯の過半数がルクセンブルグ家のルートヴィヒに投票。プファルツ選帝侯である兄のルドルフは、ルートヴィヒに反対票を投じた。ルドルフは、激しく争っていた弟憎しの感情から、あろうことか、自家のヴィッテルスバッハ家の宿敵、ハプスブルク家のフリードリッヒ美王に自分の一票を投じだのであった。

ハプスブルク家はまた、皇帝選挙の際にフリードリヒ3世美王の支持に必要な票数を集めた。双方のライバル陣営が候補者を主張したため、対立王朝は避けられなかった。法的で平和的な手段では合意に達しなかったため、論争は戦争に至った。(皇帝選挙が多数決で決定するという規定は、後のカール4世が発布する金印勅書からである。従って、この頃はまだ対立王が擁立されていた。)対立は8年間続き、最終的に1322年に、ミュールドルフ(Mühldorf am Inn)近郊で中世最後の大規模な戦闘の1つが勃発し、ルートヴィヒが勝利した。フリードリヒ美王は捕虜となった。フリードリヒの兄弟レオポルドは戦闘を継続し、フランスと教皇に接触したとき、ルートヴィヒは以前のライバルであるフリードリヒ美王を共同摂政として任命した。


この時代、戦争の結果は神の裁きと見なされたため、戦争に勝利したルートヴィヒの帝国支配は確立されたかに見えた。ルートヴィッヒは、皇帝選挙の際に、敵方に投票した兄のルドルフも追放し、足元も固めた。しかし3年後、彼は教皇ヨハネス22世(Johannes XXII)という、はるかに危険な敵が登場するのだった。アヴィニョンに住み、フランス王の保護下にいるヨハネス22世は、教皇によって認められた者のみが皇帝に就くことを望んでいた。彼は自身が仲裁人となることを主張し、教皇が皇帝を決定することを望んだ。ルートヴィヒは皇帝位を放棄するという教皇の要求に従わず、イタリアに赴き、皇帝位を宣言したので、ヨハネス22世はドイツ王を破門したのだった。

しかし、教皇の懲罰的行動の効果は消え去った。諸侯と諸都市はルートヴィヒ支持を表明し、バイエルンの聖職者たちも王に忠誠を誓った。さらに、教皇の影響力のある教会論者は、マルシリウス・フォン・パドゥア(Marsilius von Padua)や哲学者ウィリアム・フォン・オッカム(William von Ockham)を含む、教皇に敵対する思想家たちは、ルートヴィヒを支持した。ルートヴィヒはヨハネス22世に迫害されたフランシスコ会を自身の傘下に置き、ミュンヘンに集まった学者を反教皇キャンペーンに利用したのだった。同時に、エタール修道院などの設立で、自身の敬虔さを証明しようとした。

権力を確保する過程で、ルートヴィッヒはユダヤ人の保護を拡大し、貿易を促進し、都市に特権を与えて、支持を拡大していった。

ヨハネス22世はルートヴィヒがイタリアに来ることを防ごうとあらゆる手を尽くしたが、ルートヴィッヒは1327年にアルプスへ向けて出発。翌年、ルートヴィッヒはローマで戴冠した。帝冠の儀式はローマ教皇ではなく、ローマ市民の代表者によって行われた。教皇はルートヴィッヒを皇帝と呼びたくなかったので、彼を軽蔑的に「バヴァルス(Bavarus)」、つまり「野蛮人」んだ。教皇はルートヴィッヒを田舎者扱いしたのだった。今日でもバイエルンのことを英語で「ババリア」と呼びが、かつての蔑称的な呼称が、その元来の意味を失い、バイエルンを指す一般的な用語に変容していったのだ。

皇帝の戴冠式は、敵対する教皇とフランスの敵意にさらに火を濯ぐ結果となった。 1338年4月、ルートヴィヒはついに教皇ヨハネス22世を廃位し、ニコラウス5世(Nikolaus V)を対立教皇として立てることを宣言した。(しかし、ルートヴィヒ4世がローマを離れるとニコラウス5世はすぐに廃位されている。)

1338年、選帝侯たちは皇帝選挙に対する教皇の介入を断固として拒否した。そして、バイエルンのルートヴィッヒが、フランクフルトにおける帝国議会で、皇帝の尊厳と権力は神からのみもたらされたと宣言したとき、皇帝権力はその頂点にあった。

1324年にアスカーニエン家(die Askanier)のブランデンブルク辺境領が消滅したとき、皇帝は長男ルートヴィヒ5世(Ludwig V.)に、ベルリン市と貿易の中心地であるケルン(Cölln)を有するブランデンブルク辺境領を与えた。 これにより、ヴィッテルスバッハ家はブランデンブルクの選帝侯票も手中に収めたことになる。ルートヴィヒはバイエルンでもじっとしていなかった。 ヴィッテルスバッハ家のニーダーバイエルン系が1340年に断絶した後、ルートヴィッヒはこの地域を接収した。

1342年には、その領地がさらに増える。 皇帝は息子のルートヴィヒとチロルの相続人であるマルガレーテ(Margarete “Maultasch”)「マウルタッシュ」との結婚を決定した。(マウルタッシュとは、マルガレーテに付けられたニックネームで、「大口」や「はっきりと物を言う人」という意味だが、なぜ彼女がこう呼ばれるようになったかについては諸説ある。) マーガレットはルクセンブルク家と結婚していたが、離婚は皇帝権力主導で行われた。これも結婚に対する教会の見方とは相反する行動を皇帝が取ったとみることができる。 こうして、ルートヴィヒが王位を得たボヘミア・ルクセンブルグ家は、この結果に憤慨した。そして、1346年に二番目の妻が亡くなった後、ルートヴィヒ皇帝は、経済的に重要なホラント(Holland)、ゼーランド(Seeland)、フリースラント(Friesland)、エノー(Hennegau)の伯爵領を手に入れた。

しかし、この強引なチロルの接収で、ルートヴィヒはどうやら超えてはいけない一線を越えてしまったようだ。帝国諸侯のほとんどが、ルートヴィッヒの領土拡大政策とヴィッテルスバッハ家の権力の増強に危機感を抱いたのだった。 1346年、選帝侯の一部が、ルートヴィヒの皇帝退位を要求し、教皇クレメンス6世と協力して、ルクセンブルグ家のカール(後の皇帝カール4世)を対立皇帝として擁立した。この対立による戦闘が開始される前に、1347年10月11日、皇帝ルートヴィヒはクマ狩りで亡くなり、65年の生涯に幕を閉じている。ルートヴィッヒは死ぬまでカトリック教会による破門から解放されなかったが、ミュンヘンのフラウエン教会で安息の場所を見つけている。

残念ながら、ルートヴィッヒの息子たちは、父親の政治的スキルを欠いており、ライバルであったルクセンブルク家の戴冠に異を唱えることはできなかった。ルートヴィッヒの死後、子供たちに遺領が分配されたため、バイエルン領は分裂し、チロルもハプスブルク家に奪取される。1375年には、ブランデンブルク辺境伯領もカール4世に買収され(ルートヴィッヒ4世の6男、オットー5世が戦費捻出のため売却)、ヴィッテルスバッハ家は弱体化の道を辿るのだった。

参考:

br.de, “Ein Wittelsbacher auf dem Kaiserthron”, Volker Eklkofer, Simon Demmelhuber, 08.07.2019, https://www.br.de/radio/bayern2/sendungen/radiowissen/geschichte/ludwig-der-bayer-kaiser-wittelsbach-100.html

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