町を救った大酒飲みの市長

ローテンブルク

毎年5月の末頃、ドイツではプィングステン(Pfingsten)という精霊降誕祭が祝われるのだが、この季節になるとローテンブルクでは町を上げて大人気の歴史劇が上演される。それが「 マイスタートルンク 」と呼ばれる祝祭劇だ。

ローテンブルクに伝わるマイスタートルンクの伝説は次のような話だ。1631年、帝国軍司令官ティリー将軍は2日間、60,000人の兵士をもってローテンブルクを取り囲んでいた。ローテンブルクは帝国都市であったがプロテスタント側であり、ヨハン・ツェルクレス・フォン・ティリー将軍(Johann T’Serclaes von Tilly)はカトリック連合軍として戦っていた。10月28日、ティリーは市の降伏を要求したが、ローテンブルクは同じくプロテスタントのスウェーデンが占領しているヴュルツブルクから援軍を送ってくれるだろうと考え、ティリー将軍率いるカトリック軍の軍門に降ることを拒否していた。

10月30日、城壁の塔の1つにある小麦粉の小屋がカトリック軍に爆発されたことで町の城壁の一部は崩壊したのだった。そして、ローテンブルクに押し寄せてきた軍隊が味方のスウェーデン軍のものではなくて敵方の援軍であることがわかった時、ローテンブルク市民は大きく落胆し、評議会はカトリック側への降伏を決意したのだった。ティリーはローテンブルクを襲撃し、全議員と市長に死刑を宣告した。怒り高ぶるティリーにローテンブルク市民は、歓迎の証として、地元のワインがなみなみと注がれたグラスを手渡したのだった。歓迎の祝杯に気をよくしたティリーは立ち止まると、ある余興を思いついた。ローテンブルク市民に自分たちの人生を賭けたゲームをさせようと考えたのだった。住民の命を救うため、ローテンブルク側の代表者が大量のフランケンワインを一気に飲み干すという賭けを提案したのだ。

ここで、大酒飲みで知られる元市長のゲオルク・ヌッシュが立候補する。彼は、ワインがなみなみと注がれた3.5リットルのジョッキを手にすると、ゴクゴクと一気に飲み干したのだった。これには、余興を提案したティリー将軍も驚き、結果、全市議会議員は住むことを許可され、市は破壊されることを免れたのだ。これが「マイスタートルンク」と呼ばれる伝説だ。

この話、ティリー将軍が町を救う条件として、とても実現されそうもない要求を行い、大方の予想に反して、その挑戦を市長が見事にやってのけたように聞こえるが、実はそうではない。ヌッシュ元市長は市参議協会で毎日のようにワインをたらふく飲んでいた。市参議の会議などはお酒を飲むことが半ば仕事のようなもので、毎日大酒を飲む練習をしていたようなものだった。実際、ヌッシュは3.5リットルの大ジョッキを愛用し、実際に何度もこのジョッキに並々と注がれたワインを軽々と飲み干していいたのだ。たださすがのヌッシュもこの量のワインを一気飲みしたことはなかった為、ティリー将軍の前でジョッキのワインを飲みほした後には、その場にバタンと倒れ、3,4日間起き上がってくることはなかった。つまり、ティリーはこの町の市参議の酒量を見誤ったという話だ。

もちろん、このような出来事が実際に起こったかという証明はない。物語を想起させるような出来事はあった可能性があるが、お話の大半は後世の創作であるとされている。1771年頃、ゲオルク・ハインリッヒ・シャッフェルト(GeorgHeinrich Schaffert)によって書かれた年代記はこの伝説の原型と言われている。それは、ローテンブルク市の1人が毒の入ったワインを大ジョッキで飲むのなら、ティリーは町の破壊を思いとどまるというものだった。

いずれにせよ、この事件は、1846年に出版されたゲオルク・ショイルリン(Georg Scheurlin)による「死刑執行人とその息子、またはローテンブルクのティリー」(Der Scharfrichter und sein Sohn oder Tilly in Rothenburg)という物語を通じてドイツ全土に広まった。ローテンブルクのマスター製本職人で詩人のレオンハルト・ヴォルフ(Leonhard Wolff)は、1842年に同じモチーフで「Der Meistertrunk」という詩を書いたのだが、1864年まで出版しなかった。続けて、彼はマスタートルンクについての演劇も作成したが、成功はしなかったようだ。

三十年戦争が終わった後、帝国都市ローテンブルクの重要性は低下し続けたのだった。にもかかわらず、農業生産と輸出によって、一部の支配階級は高い生活水準を享受し、人口の大多数は生計を立てられない状況が続いていた。 19世紀へと差し掛かった頃、ローテンブルクは典型的な「ドイツの中世の縮図」であるという評判を得ることになった。結果として、この町は観光が盛んになり、1873年に鉄道が通ってからは、その流れも加速したのだった。観光業を促進するため、 1879年11月、市民は歴史をモチーフとしたイベントを行うことにした。シナリオを書いたのは、アダム・ヘルバー(Adam Hörber)だった。なぜヘルバーがローテンブルクの街並みが表している中世ではなくて、17世紀に起こった三十年戦争をテーマにしたのかはわかっていない。

実際、中世のローテンブルクには、歴史イベントの主役としてはぴったりな、ハインリッヒ・トプラー(Heinrich Toppler)という有名な市長がいた。彼は、帝国の土地を広げるとともに、自身の土地の拡張にも成功し、ローテンブルクで最も裕福な人物だった。トプラーはルプレヒト王とニュルンベルク城伯との確執の板挟みに合い、追放されたヴェンツェル王に接近した。 ルプレヒト王 は、ヴェンツェル からローテンブルク市への手紙を入手した後、トプラーに対して反逆罪を言い渡したのだった。1408年、トプラーはに市庁舎の地下牢に閉じ込められ、数か月後に謎の死を遂げたとされる。トプラー市長は、ローテンブルクの有名人であり、歴史イベントの出し物としては面白い題材だが、 歴史イベントのテーマに採用されることはなかった。*このトプラー市長が中世後期に建てた「トップラー・シュレースヒェン(Topplerschlösschen)」(トプラーの小さな城)と呼ばれる建物が、今もローテンブルク近郊のタウバータール(Taubertal)に現存している。

トップラーの小城(筆者撮影)

三十年戦争を題材にとった演劇に、ヘルバーはあえて素人の市民を参加させたのだった。この素人劇は瞬く間にドイツ中の話題となり、1881年の初めには、歴史イベントのある期間中、ローテンブルクの宿泊施設はすべて予約で埋まったという。ローテンブルク市外からの関心が非常に高かったため、地元の人々にチケットは販売されず、初演後にさらに市民向けに公演を継続することが決定されたのだった。この歴史イベントを継続的に行うため、1881年2月14日、歴史祭協会が設立された。

また1884年には、劇作家として有名なルートヴィッヒ・シュタルク(Ludwig Stark)が、この「 マイスタートルンク 」の演出を近代化し、大成功を収めている。 シュタルク は、1885年から1904年まで演劇祭の監督も務めた後、ディンケルスビュールに招かれ、この町で、同じく三十年戦争を題材にした「キンダーツェッヘ」という歴史劇を完成させている。そしてこの 「キンダーツェッヘ」 も大成功し、 ディンケルスビュール に毎年多くの観光客をもたらしている。

ローテンブルクで毎年行われるフェスティバル『デア・マイスタートルンク(Der Meistertrunk)』はこのように始まり、発展を遂げてきたのだった。プィングステンの祝日には、最大25,000人がローテンブルクにやって来て、野外で行われる「マイスタートルンク」の演劇パフォーマンスを見るという。演劇のパフォーマンスに加えて、三十年戦争についての歴史的パレードなども行われる。このイベントは、2016 年からユネスコの無形文化遺産の一部となっている。

参考:

sueddeutsche.de, “Wie eine Trinkwette Rothenburg ob der Tauber gerettet haben soll”, Vinzent-Vitus Leitgeb、02.12.2017, https://www.sueddeutsche.de/bayern/brauchtum-und-geschichte-wie-eine-trinkwette-rothenburg-ob-der-tauber-gerettet-haben-soll-1.3772477

neues-deutschland.de, “Der Meistertrunk rettete einst die Stadt”, Jochen Fischer, 30.08.2003, https://www.neues-deutschland.de/artikel/40639.der-meistertrunk-rettete-einst-die-stadt.html

historisches-lexikon-bayerns.de, “Rothenburger Meistertrunk”, Florian Huggenberger, https://www.historisches-lexikon-bayerns.de/Lexikon/Rothenburger_Meistertrunk

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