ローテンブルク博物館

ローテンブルク

現在のローテンブルク博物館は、2019年まで帝国都市博物館(Reichsstadtmuseum)と呼ばれていた。以前はドミニコ会修道院であった場所に建てられた博物館には、絵画、彫刻、武具など3万点にも及ぶ展示品が納められている。北イタリアや南ドイツで制作された16世紀の見事な鎧や武具の数々も見ものだが、特に見るべきは、かつての修道院教会内に飾られていた、キリストの受難劇を描いた「ローテンブルクの受難劇」とよばれる12連作の絵画だ。そしてもう一つは、発見された遺構を元に再現された修道院の台所である。この台所の遺構からは、当時の修道女たちの生活を見て取ることができる。

ザウフエーダー(Saufeder)というイノシシ狩猟用の槍。18世紀、バーデン大公の武器庫から。左から3番目は、南ドイツもしくは北イタリアのもので、15世紀後半のものとみられる。左から4番目の槍は、さらに年代が遡り、11世紀か12世紀のドイツで使用されたもの。左から6番目は、ハルバード(Hellebarde)と呼ばれる警護用の槍だが、狩猟用としても用いられた。1600年頃のもの。特に興味深いのは、中央(左から9番目)の槍だ。これは鯨科の一角の感覚器から出来た槍である。中世では、これは幻の一角獣の角のような印象を与えた。象牙よりも固いという。ドイツもしくはオーストリアの17世紀の作品。

鎖帷子の付いた鎧は、1560年のウィーンの作。左手のハルバードは、南ドイツもしくはオーストリアのもので、16世紀末の作。ダサック(Dusack)はサーベルタイプの片刃の剣であり、16世紀末のオーストリア、シュタイアーマルクのもの。壁にかかったボーガンは、1640年頃のドイツのもので、矢は16世紀のものとされる。

このタイプの鎧は、神聖ローマ皇帝マキシミリアン1世の命により開発されたことから、マキシミリアン式甲冑(Maximilianischer Riefelharnisch)や、フリューテッドアーマーと呼ばれる。1520年頃の南ドイツの作品。左上の壁にかかってあるこん棒は、メイスという殴打用の武具であり、16世紀前半の北イタリアもしくは南ドイツの作品。右上の壁にかかってある武具は、馬の頭に取り付けるマキシミリアン式バルディングという器具である。南ドイツの16世紀の作品であり、バイエルン州の町、パッペンハイム(Pappenheim)の紋章が付いている。

白黒の歩兵用鎧。1580年頃のニュルンベルクの作。左手の壁に掲げられている短剣は、ソードブレーカーと呼ばれる武器。敵の剣を峰の間に挟み、折ったことからこの名前が付けられた。ドイツ語ではリンクハント・ドルヒ(Linkhand-Dolch)という。その隣の細見の剣は、ラピア―(Rapier)という刺突用の剣であり、決闘などでも用いられた。ソードブレーカーもラピア―も、ともにドイツの1620年頃の作。右手の壁にかかっている二つの小瓶は、ともに火薬を容れる為のビンである。1600年頃の作。壁にかかった銃は、1580年から1600年頃にニュルンベルクで作られたもの。

この鎧は先ほどのものと酷似している。白黒の歩兵用鎧。1580年頃のニュルンベルクの作。ソードブレーカーとラピア―はともに17世紀の作。ハルバードは16世紀前半の南ドイツの作。

このタイプの鎧は、半装甲(ドイツ語:Halbharnisch)といい、16世紀に歩兵将校が徒歩または馬に乗って着用した鎧の一種。特に乗馬用として使用されたものは、キュリス(Küriss)とも呼ばれる。1570年、北イタリアの作。この隣に展示されている小さな鎧は、少年兵用であり、その後ろに架けられたヘルバードも同じく少年用に小ぶりなつくりとなっている。ともに1600年頃、南ドイツの作品。手前の絵が施された盾は鉄製である。16世紀中ごろ、北イタリアの作。

16世紀、17世紀に南ドイツで使用された貞操帯。一説には、中世のヨーロッパにおいて従軍する兵士が、妻や恋人の貞操を守るために装着させたと言われる。また身持ちの悪い妻の管理目的としての使用、女性自身が暴漢に対する護身用として着用したなどの説がある。拷問や刑罰として使用された事例もある。

この博物館の最も重要な展示品の1つは、マルティヌス・シュヴァルツ(Martinus Schwarz)作の「ローテンブルクの受難(Rothenburg Passion)」だ。 マルティヌス・シュヴァルツはフランシスコ修道会の修道会長であると同時に画家でもあった。時代的には、ティルマン・リーメンシュナイダーと同時代人である。

1494年頃の作で、12枚のほぼ正方形の板絵で構成されている。 この作品はローテンブルクのフランシスコ教会の「内陣仕切り」に取り付けられてあったと考えられる。 「内陣仕切り」というのは、ドクサーレ(Doxale)とも呼ばれ、大聖堂や修道院によくみられる装置だ。石または木で出来た、高さが人の身長ほどある壁は、司祭や僧侶のスペースを教会の他の部分と分離する為の役割を果たしていた。内陣仕切りの前には十字架の祭壇が立っていた為、内陣仕切りの壁には、キリストの受難劇を描いた人物像が多く配置されることが多かった。この「ローテンブルクの受難」もそういった役割で取り付けられていたと思われる。19世紀の初めに教会が塩屋に改築されたときに取り外され、まわりまわって博物館に来て取り付けられた。

この修道院の台所は、1258年に修道院が設立される前から存在した農家の基礎壁の上にあった。保存された修道院の台所としては、おそらくドイツで最古のものだと考えられている。ここでどういった料理が作られていたのかは興味深いが、今となっては推測するしかない。いずれにしても、当時はパンがもっとも重要な食事であったと考えられる。豆や野菜、ハーブ、果物なども食卓に並んでいた。4つ足の動物を食することはまだ禁止されていたが、11世紀や12世紀になっても、こういった肉は病気を癒す際に食されるだけであった。13世紀に入って、肉食に関する規則が緩和され、このローテンブルクの修道院でも鳥類は時折食卓に並んだと考えられる。魚は特別な機会だけで調理されたが、卵やミルク、チーズは食された。塩は必需品であったが、とても高価であった。飲み物としては、水や薄めたワインが提供されていた。

建物内に残る木製の階段は1791年に作られたものだが、この階段を使って、食事は上層階へと運ばれた。かまどの上にある煙突を通って、熱気は3階まで運ばれ、2階にあった修道女の食堂もこれによって暖められた。東側の壁には、回転式の引き出しがあり、これは巡礼者や物乞いに食べ物を提供するときに使われた。その左側にあるシンクは、食器を洗うために使用され、北側の壁からは、ごみが掘りに捨てられるようになっていた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました