【ドイツの歴史】伯爵夫人と足の不自由な男 | ブレーメンの伝説

ブレーメン

ブレーメンのローランド像に隠された秘密

ブレーメン市庁舎と共に世界遺産にも登録されているブレーメンのローランド像。この像の足元には、跪いている男の像がある。観光客の多くはこの男の存在に気づかないが、この像に関する伝説を知っている人は地元の人でもあまり多くはないという。

ローランド像 (Source:bremen.de)
ローランド像の足の間で跪く男(Source: welterbetour.de)

エマ・フォン・レスム伯爵夫人

エマ・フォン・レスム(Emma von Leßum)伯爵夫人は人並外れて敬虔な人物として有名であった。夫リュドガー(Lüdger)の死後、夫人は引きこもって静かな生活を送るようになり、慈善を行うことに唯一の喜びを見出していた。聖職者には特に豪華な贈り物をし、リベンティウス大司教(Erzbischof Libentius)の説教を聞いたときには、ブレーメンの教会に 金と宝石で装飾された2 つの十字架、祭壇の台と聖杯を贈っている。しかし、彼女の寛大さは聖職者に対する贈り物だけにとどまらなかった。

ザクセン公爵ベンノ(Benno von Sachsen)は、亡き弟リュドガーの未亡人を訪ねるためにレスムを訪れたことがある。早朝、公爵は風格のある側近に囲まれてブレーメンの街を通り過ぎ、とりわけ現在の市域の大部分を占める伯爵夫人の邸宅を調べた。

その時、市民の代表者が何名かが伯爵夫人に近づき、彼女の寛大さを信頼して、牛のための牧草地が不足していると窮状を訴えた。伯爵夫人は同情して彼らの訴えに耳を傾け、改善を約束した。伯爵夫人は、男性が 1 時間で歩ける限りの牧草地を与えよう、と言った。

それを見てベンノ公爵は、伯爵夫人がその良心と気前の良さで、彼女の死後、自分に相続される遺産が減ってしまわないか大いに心配になり、彼女が財産を譲渡しないか不安に駆られた。「伯爵夫人、1時間の期限と言わず、丸一日としてはいかがでしょうか?」と嘲る気持ちで言い放った。

しかし、伯爵夫人はベンノ公爵の言葉に含まれた悪意にまるで気づかなかったように、穏やかに答えた。

「主はわたくしに地上の恵を与え、祝福をお与えになりました。あならのその素晴らしい提案のとおりにいたしましょう。」

まさかこのようなバカげた提案を承諾するとは考えていなかったベンノ公爵は、伯爵夫人のこの言葉に驚き、焦った。そんな広大な土地を勝手に市民に与えられてはかなわない。ベンノは頭を悩ませた。そして突然狡猾な考えが彼に浮かび、彼は怒りを滑らかな顔の下に隠し、義理の妹に近づき、こう呟いた。

「あなたはこの難問に対して素晴らしい提案をなさったのですから、問題の解決はこの私にお任せください。」

エマは無邪気にベンノの要求に同意したのだが、ここで公爵はその狡猾さを発揮した。彼は通りを横切り、道に横たわる物乞いに駆け寄ったのだ。ベンノ公爵は先ほど馬で通り過ぎたとき、その物乞いが貧弱で足が不自由なことに気が付いていたのだ。

ベンノ公爵は意地悪な笑みを浮かべ、伯爵夫人の方を向いて言った。「この哀れな男こそ、あなたの寛大な施しを受けるのに値しましょう。この男に町を歩かせることにいたしましょう。」

それから市民は、伯爵夫人の寛大さが公爵の狡猾さによって卑劣にも挫折したことを大声で嘆いた。しかし、エマは馬から降り、足の不自由な男の頭に、まるで祝福のようにそっと手を置き、祈りを捧げた。市民は絶望して立ち尽くしていた。彼らはその男を知っており、他人の助けがなければその場所から動けないことを良く知っていたのだ。朝、思いやりのある人々が彼を通りに連れて行き、夕方には彼を家に連れ戻さなければならなかった。

伯爵夫人が物乞いに前へ進むようにと促したときには、物乞い自身でさえ、彼女の理不尽ともとれる大きすぎる期待に驚き、疑わし気に彼女のほうを見上げるだけだった。「やってみて」と伯爵夫人が言うと、足の不自由な男はゆっくりと動き始めたのだった。最初、彼は自分自身でも足が全く動かないことが分かっていたので、歩く勇気を持つことができなかった。そこで彼は自分の手を使って這い出したのだ。伯爵夫人の召使いが彼の後を追い、彼が這った道に沿って百歩ごとに、地面に白い杭を打ちつけた。男が這いまわる様を見ていた市民は悲しみ、ほとんどが絶望して家へと帰っていった。この哀れな男に、我々は何を期待できるというのか・・・しかし、男は休むこともなく懸命に這い回った。

そして市民が正午に再び外に出たとき、彼らは信じられない光景を目にした。見渡す限り、明るくきらめく白い杭が建てられており、それはずーっと後ろのほうまで巨大な弧を描いているのが見えたからだった。足の不自由な物乞いが這いまわりながらどんどん町へと近づいている様が、夕方の光に照らされて町からもはっきりと見ることができた。

太陽が沈むと、彼は町へと到着し、その後ろには牧草地が白杭で囲まれていた。これは、市民が当初望んでいたよりもはるかに大きく、必要な大きさを優に超えていた。この出来事は1032年のことだという。

その後のブレーメン

ブレーメン市民は今でもわずかな登録料を払って、これらの牧草地、今日のビュルガーヴァイデ(Bürgerweide)に牛を連れて行くことができる。ブレーメンの人々はこの物乞いの努力に感謝し、後世の人々もこの男に敬意を払った。彼の肖像は、ローランド像の足の間の石に刻まれており、今日も見ることができる。

エマは夫の死後 40 年間、貧しい人々や困っている人々を支えつづけ、その生涯と閉じた。 彼女の死後、彼女は大聖堂の四角い青い石の下に埋葬された。

皇帝暗殺未遂

貪欲な公爵とその家族は、エマの死後、すべての財産を相続するという期待が挫かれ、ひどく失望した。エマは生前、銀、金、宝石の宝物を慈善団体に遺贈していたのだ。伯爵領は皇帝コンラートのものとなり、皇帝は妻のギゼラを伴って遺品を確認するためにブレーメンへとやってきた。そして、数年後、公爵の息子であるデスマーが伯爵に封じられはしたが、彼も遺品の恩恵にあずかることはなかった。皇帝ハインリヒがアダルベルト大司教を伴ってレスムへとやってきたとき、皇帝は突如、殺人集団に襲われた。皇帝はケガを負ったが、大司教とお付きの人々による懸命な努力のおかげで一命は取り留めた。後日、この事件に関する調査が進められ、デスマーの使用人であったアレンドという男は、待ち伏せを仕掛けたのは彼の主人であったと打ち明けた。伯爵は決闘によって彼の無実を証明しようとしたが、命を落としたのだと・・・

実在したエマ・フォン・レスム

エマ・フォン・レスムというのは実在した人物だ。エマ・フォン・レスム(Emma von Lesum)または エマ・フォン・シュティーぺル(Emma von Stiepel)と呼ばれた女性は 980 年頃から 1038 年まで生存していた。彼女の家系についてはわかっていないが、夫のルイジャーとの結婚式 は1001年に行われたことがわかっている。この時、彼らはシュティーペル (現在はボーフムの一部) に王室の邸宅を与えられた。結婚からちょうど 10 年後に夫が亡くなり、エマは親戚がいるレスムへと引っ越した。

伝説にあるブレーメンの土地は、ビュルガーヴァイデとビュルガーパークよりも広い 450 ヘクタールもあるエリアであった。ビュルガーヴァイデは、ブレーメン中央駅から旧市街に行くのとは反対の方向に進むとすぐに見える広場で この場所では移動遊園地が来たり、野外フェスティバルを開催する場所として利用されている。ビュルガーパークは、ビュルガーヴァイデの隣に位置するホーラー湖(Hollersee)を湛えた美しい公園で、ブレーメン市民の憩いの場所になっている。しかし、実際にエマがこの広大な土地を市民に与えたかどうかは検証できていない。

エマは非常に寛大な女性であった為、その死後、聖人として崇拝されることとなった。聖ヨハン イム シュノール教会の窓にあるステンドグラスには彼女の肖像画が飾られている。列聖の理由は明確には証明されていないが、彼女は財産の大部分を教会、特にブレーメン大聖堂に残したと言われている。彼女は貧しい人々への慈善活動も行っていた。言い伝えによると、17 世紀に彼女の遺体が発掘されたとき、贈り物を配るためにいつも使っていた彼女の右手は無傷のままであったという。

ブレーメンにあるさまざまな通りに彼女の名前が付けられている。たとえば、シュヴァッハハウゼン(Schwachhausen)には、エマ通り(Emmastraße)とエマ広場(Emmaplatz)があり、彼女を記念して彫像が置かれている。ブルクレスム(Burglesum )地区のマーケット広場にも別の彫像が立っている。「伯爵夫人」というこの貴族の称号もはっきりとは確認できていない。彼女が生前に伯爵夫人として扱われていた可能性はあるが、彼女について書かれた伝記はその事実について触れてはいない。

参考:

welterbetour.de, “Bremer Roland – Freiheitsstatue des Mittelalters”, https://www.welterbetour.de/bremer-roland

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