ブレーメン大聖堂博物館

ブレーメン

ブレーメンの聖ピエトリ大聖堂にある大聖堂博物館は、1987年、中世の司教の墓から出土したものを収蔵するために設立された。1973 年から 1976 年にかけて大聖堂が修復されていた時に、発掘調査が同時に行われた。 3 年間にわたる発掘調査で、ロマネスク以前の建物の歴史について発見が行われ、司教の墓を復元に成功したのだった。

キリストと天使、洗礼者ヨハネの壁画(筆者撮影)

1400年頃の壁画。大聖堂博物館建設の作業中に、地下室の漆喰の下から中世の壁画が発見された。記録によると、この部屋は聖母マリア礼拝堂であった。左には天衣を手にした天使、中央にはヨルダン川に立つキリスト、右には洗礼者ヨハネが描かれている。背景には樹木や川などが描かれている。人物の頭上にはためくバナーには、洗礼者ヨハネの言葉が書かれている。

《最後の晩餐》15世紀初頭の作品(筆者撮影)

この砂岩でできた板は、おそらく聖体安置塔を飾っていたと考えられる。キリストと弟子による《最後の晩餐》のシーンを表している。作者は不明だが、ゴシック様式の弦の表面を、人物の描写に巧みに利用している。キリストは中央に位置し、弟子たちはテーブルの周りに座っている。向かってキリストの右に座っているのがヨハネ。左に座っているのがペトロである。他の弟子についてはアトリビュートがなく、誰が誰なのは判明できないが、手前に座る弟子のうち、頭を上にあげ、両手を合わせて祈っている姿勢をしているのがユダである。ユダは腰のところに、キリストを裏切ったことで得た褒美が入った袋をぶら下げている。

聖コスマスと聖ダミアンを描いた二重レリーフ。アダルダグ大司教は、965年にオットー1世とローマから帰国した際に、聖コスマスと聖ダミアンの遺物をブレーメン大聖堂にもたらした。このレリーフは、二人の聖人が医療行為を行っている場面を示している。左の意匠はラクダを治療している場面であり、右は病人に新しい足を授けている場面である。14世紀に疫病が蔓延した時には、この聖人は特に崇拝された。15世紀初頭、ブレーメンの銀細工師はこの二人の聖人の遺物を納める為の聖遺物容器を作成した。これは現在ミュンヘンのミヒャエル教会に収められている。

聖マルティンの像 (筆者撮影)

1500年頃の作。聖マルティン。聖マルティン(サン・マルタン)はフランスの守護聖人だ。マルティンは316年にパンノイア(現在のハンガリー)で生まれ、15歳でガリア(フランス)のローマ軍に加わっている。18歳で軍を除隊し、洗礼を受けた。マルティンは何年もの間、ジェノバ近くの地中海の島で隠遁生活を送っていた。371年、マルティンはトゥールズ司教に奉献され、ガリアで最初の修道院を設立している。マルティンは397年に亡くなっており、亡くなった11月11日は「聖マルティンの日」となっている。伝説によると、マルティンがまだローマ騎兵だった頃、アミアンの門で物乞いに出会った。マルティンは自身が羽織っていたマントを剣で切り裂くと、マントの半分を物乞いに与えた。次の夜、マルティンのマントを纏ったキリストが彼の前に姿を現した。このエピソードは中世の芸術作品によく描かれるモチーフである。この彫刻ではマルティンは司教の姿で描かれており、よく見ると足元に物乞いが跪いているのが見て取れる。

聖アンナ像(筆者撮影)

1500年頃の作品。聖アンナは聖母マリアの母親である。聖家族が描かれる際には、聖アンナは座った姿で描かれることが多い。14世紀に描かれる意匠には、若いマリアと赤ん坊のキリストと共に、聖アンナは成熟した女性として描かれることが多い。この彫刻でもアンナは年配の女性として描かれている一方で、マリアはほどいた髪型をした若々しい姿で描かれている。マリアが被っている王冠は、彼女が天界の女王であることを示している。

聖ヒエロニムス(筆者撮影)

聖ヒエロニムスは教会の4人のラテン教父のひとりである。340年から420年までの80年に渡る生涯で、彼の仕事はヘブライ語とギリシャ語の原語聖書からラテン語への翻訳であった。伝説によると、ヒエロニムスはライオンの足に刺さった棘を抜き、それ以来ライオンは感謝の気持ちを込めて、ヒエロニムスに付き従った。この意匠は中世に繰り返し使用された。ヒエロニムスは常に枢機卿の服と帽子を着用した姿で描かれ、アトリビュートであるライオンと共に描かれることが多い。

アダルベルト大司教の像(筆者撮影)
アルバート・リザウス・ハーデンベルグ(筆者撮影)

アルバート・リザウス・ハーデンベルグ(Albert Rizäus Hardenberg)は大聖堂で最初のプロテスタントの説教者であった。1547年、大聖堂が大聖堂支部の長老によって長期間閉鎖され、長年にわたる神学上の議論が行われた後、ハーデンベルグの見解はルターが唱えた教義と異なっていたために、1561年にブレーメンから追放された。ハーデンベルグは後にエムデンで働いている。ハーデンベルグが解任された後、聖ペテロ大聖堂は、1638年まで閉鎖されたままだった。

13世紀のミトラ(筆者撮影)

13世紀に作成されたミトラ。シルクと金属糸を使用。左右には聖人の刺繍が一体ずつ施されている。このミトラは一度破損したが、後に現在の姿に修復されている。

17世紀の教会の鍵(筆者撮影)

鉄製の教会の鍵。1556年(おそらく製造年)と1638年の年代が見て取れる。1638年に、77年間閉ざされたままであったルター派の教会、聖ペトリ大聖堂がこの鍵でもって開かれた。鍵には聖ペトリの頭文字、「SP」の文字も刻まれている。ブレーメン地方博物館からの貸与品。

聖ペテロと聖ヤコブ(筆者撮影)

ブレーメン、1420/1440年頃の作。これは《オリーブ山の一団》(Ölberggruppe)のシーンであり、《ゲツセマネの祈り》や《オリーブ山の祈り》とも呼ばれる。このシーンはキリストが磔刑の前夜、最後の晩餐の後にゲッセマネ(Gethsemane)の園で弟子たちと祈る聖書の場面を描いたシーンである。オリーブ山のシーンは通常、イエスの姿と眠っている弟子のペテロ、ヨハネ、ヤコブの姿、そしてイエスの不安を和らげる天使で構成されているが、この作品はこのシーンの一部であるとみられる。跪いているのは聖ペテロである。

《聖セバスチャンの犠牲》(筆者撮影)

ハンス・ホルバイン年長の工房もしくはそのグループ作。1500年頃の作。パネルの右側に描かれている聖セバスティアヌスは、キリスト教徒であることをディオクレティアヌス帝に咎められ、大量の弓矢を射られて処刑された。矢で射られた跡が黒死病(腺ペスト)の黒い斑点に似ているということで、セバスティアヌスは黒死病の守護聖人となった。黒死病が流行した中世(1347年~1353年頃)に人気を集め、後期ゴシック様式とルネサンスの画家たちに好んで描かれた。美術作品では半裸の姿で柱に縛り付けられ、矢で体を貫かれた姿で描かれることが多い。

《キリストの鞭打ち》(筆者撮影)

17世紀の作者不明の作。ヘンドリック・ゴルツィウス(Hendrick Goltzius)の銅板に基づく。この絵は、1848年に初めて大聖堂の在庫目録に現れている。19世紀の大聖堂の大聖堂建築監督であるエバーハルト・デリウス(Everhard Delius)により寄贈された。ヘンドリック・ゴルツィウスは、オランダに生まれたマニエリスムの彫刻家・画家であった。イタリアとドイツを数年間旅行して学び、エングレイビングという優れた銅版画の技術で名を馳せた。

《むち打ちと磔刑》(筆者撮影)

ミヒャエル・ヴォルゲムート(Michael Wolgemut)の工房もしくはそのグループによる作品。1500年頃の作。ミヒャエル・ヴォルゲムートは15世紀にニュルンベルクで生まれた画家であり、木版画の名手で、アルブレヒト・デューラーの師匠であった。アルブレヒト デューラーは1486年末に見習いとしてヴォルゲムートの工房に加わっている。 ヴォルゲムートは、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢者に代わってヴィッテンベルクの宮殿の設計にも取り組んだが、その後の戦争により、ヴィッテンベルクにおける彼の作品は失われてしまった。

《キリストの磔刑と降架》(筆者撮影)

作者不明。テンペラ技法。1582年の作。1848年に初めて大聖堂の在庫目録に現れている。19世紀の大聖堂の大聖堂建築監督であるエバーハルト・デリウス(Everhard Delius)により寄贈された。

《貢ぎ金》(Zinsgroschen)(筆者撮影)

キャンバスに油彩。作者不明。17世紀の作。ピーテル・パウル・ルーベンス(P.P.Rubens)作品の模写であると思われる。この作品も1848年に初めて大聖堂の在庫目録に現れている。19世紀の大聖堂の大聖堂建築監督であるエバーハルト・デリウス(Everhard Delius)により寄贈された。ルーベンスが1612年頃に描いたオリジナルの作品はサンフランシスコ美術館に展示されているが、キリストは右側に立っている。この絵画のコピーは複数存在し、いくつかはこの絵と同様に左右が反転している。パリサイ人から「皇帝に税金を納めることは、律法にかなっているか?」と質問されたイエスは、硬貨に描かれた皇帝の肖像を指さし、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返せ(英:Render unto Caesar)」と言ったとされる(新約聖書、マタイによる福音書)。神への服従と国家に対する義務とは異なるものであり、両立させることに矛盾はないとした考え。この画では、イエスは左手で硬貨を示し、右手で天を指し示している。この逸話は絵画のモチーフにされることが多く、ルーベンスの他にティチアーノの作品も有名である。

ホタテ貝の印を身に着けた巡礼者の像。大聖堂の発掘作業の際に出土した。

《使徒の彫刻》(筆者撮影)

使徒パウロ、トーマス、ペテロ、ヨハネス、マテウスの5人の木像は、樫の木で作成されており、かつてはブレーメン大聖堂の主祭壇を飾っていた。1839年に、ヴェンツェルによって作成されたこの彫刻は、1840年に奉献されている。一番左がパウロで、アトリビュートである剣を持っている。トーマスは本と槍を持っている(槍は紛失)。中央がペテロで、本と鍵を持っている。ヨハネスは聖杯を手にしている。マテウスは左手に斧をもっている。ブレーメンの彫刻家ハインリヒ・フレーゼが、ヴェンツェルと共にこの彫像を作成したとき、念頭において手本としたのが、ニュルンベルクの聖ゼバルドゥス教会に収められた聖ゼバルドゥスの墓にあった使徒の像であったという。聖ゼバルドゥス教会の使徒の像は、ペーター・フィッシャーによって制作されている(以下の写真参照)。

聖ゼバルドゥス教会にある5人の使徒の像

寄付を募った教会の募金箱。1730年頃の作。

11世紀から15世紀のものと思われる複数の司教の墓は、1973年から76年にかけて行われた考古学調査の際に発見された。研究の結果、この写真の墓はベゼリン大司教(在位:1035ー1043)のものであることがわかっている。ベゼリン大司教は、1041年に発生した大火の後、新しい大聖堂の建設を始めた人物として知られている。

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