孤独な王妃と野心家の医師

ツェレ

ツェレ(Celle)はハノーファーの北東45キロにある人口わずか7万人の小さな町だ。985年の文書に初めて《ケル》(Kellu)として言及されており、11世紀にはすでに貨幣鋳造権を持っていた。そして14世紀、アルブレヒト公爵のもとでこの町はザクセン=ヴィッテンベルク公国の拠点となり、この時に城壁を備えた都市要塞が建設されたと言われる。

この町にある聖マリエン教会は、名前のとおり聖母マリアに捧げられた教会だ。ツェレは宗教改革において、ヴィッテンベルクに次いで改革を導入した町であり、それ以降、マリエン教会はルター派の教会となっている。教会の歴史は古く、1308年にヒルデスハイム司教によって奉献された。700年以上の歴史を誇るこの教会の塔は74.5メートルの高さがあり、現在でも当番が毎日この塔に登っては笛を吹きならし、市民に一日の始まりと終わりを告げている。教会の内部も見どころが多い。教会の聖歌隊席の近くには、ツェレ公爵のルネッサンス様式の墓石があり、地下室には1576年に建てられたブラウンシュヴァイク公爵家の棺がある。そしてここに安置されている棺のなかには、数奇な運命に弄ばれ、悲しい最後を遂げたデンマーク女王、キャロライン・マティルデ(Caroline Mathilde)も眠っているのである。

聖マリエン教会(筆者撮影)

ハノーバーのキャロライン・マティルデは、亡くなったイギリス王子の娘であり、1766年から1772年までデンマークとノルウェーの女王であった。キャロライン・マティルデは、ハノーバーのフリードリッヒ・ルートヴィヒ(Friedrich Ludwig)とザクセン・ゴータ家のオーガスタ(Augusta von Sachsen-Gotha)の末娘として生まれた。彼女の兄、ゲオルクは1760年にハノーバーの選挙人になり、後にイギリス王ジョージ3世(Königs Georg III)となって、同君連合としてイングランドを統治した。

イギリス王ジョージ3世(筆者撮影)

彼女の父親は、彼女が生まれる3か月前に突然亡くなり、彼の称号は彼女の兄へと受け継がれた。

13歳のとき、彼女自身には知らされることなく、いとこであり、デンマーク兼、ノルウェー王であるクリスチャン7世(Christian VII)と結婚させられた。彼女の兄弟であるジョージ3世は、クリスチャン7世の狂気に気づいていなかったが、結婚に反対した。それにもかかわらず、1766年10月1日、ロンドンで結婚が取り決められた。結婚式は1766年11月8日にクリスチャンスボー城(Christiansborg)で行われ、花嫁のキャロライン・マティルデは15歳、花婿のクリスチャン7世は17歳であった。

クリスチャン7世-ツェレ城のレジデンス博物館蔵(筆者撮影)
キャロライン・マティルデーツェレ城のレジデンス博物館蔵(筆者撮影)

キャロライン・マティルデは結婚の為、家族と別れ、故郷を離れなければならなかったが、夫は家族の代わりにはならなかった。新婚当初から、夫はキャロラインにほとんど注意を払わず、夫は、サドマゾ趣味の相手で、愛人であったアンナ・カトリーネ・ベンターゲン(Anna Cathrine Benthagen)と多くの時間を過ごすようになった。

1768年1月28日、結婚から14か月後、キャロライン・マティルデは、後にデンマーク兼ノルウェー王フリードリッヒ6世(Friedrich VI.)となる最初の子供を出産した。この年の5月、クリスチャン7世はヨーロッパを旅し、アルトナ(Altona)、パリ、ロンドンに滞在し、キャロライン・マティルデは夏をクリスチャンスボー城で生まれたばかりの子供と過ごした。この間、彼女は宮廷生活に溶け込み始めた。

王は1769年1月12日にコペンハーゲンに戻り、ヨハン・フリードリッヒ・ストゥルエンゼー(Johann Friedrich Struensee)を主治医として宮廷に連れて行き、後に大臣に任命した。彼はアルトナでの旅の初めにストゥルエンゼーと出会っている。ストゥルエンゼーは王の不安定な精神状態に対処することができたようで、二人は特別な信頼を築いていたのだった。

ストゥルエンゼー‐ツェレ城のレジデンス博物館蔵(筆者撮影)

キャロライン・マティルデはクリスチャン7世との結婚に不満を持っていた。クリスチャンは彼女にほとんど注意を払わず、その精神病はますます明らかになりつつあった。彼女はストゥルエンゼーと恋に落ち、1770年の春に彼と恋愛関係を開始している。王は妻の浮気に無関心であったばかりか、歓迎さえしていた様子であった。

女王とストゥルエンゼーとの関係については宮廷内でも噂が高まり、夫婦が結婚できるように、王とその継母を追い出そうとしているという疑いさえも浮上した。さらに、ストゥルエンゼーは啓蒙主義の精神で大臣として働き、貴族の権力を抑制することに成功した。

利害関係のある貴族たちは、王を退位させる計画を練り、その報告書を王の継母であるブラウンシュヴァイク-ウォルフェンビュッテル家のユリアーネ・マリー(Juliane Marie von Braunschweig-Wolfenbüttel)に送付したのだった。

ストゥルエンゼーはクーデターを綿密に準備し、クリスチャン7世は1月28日に逮捕され、退位を余儀なくされた。宮廷記者であるピーター・スーム(Peter Suhm)は、ユリアーネに、ストゥルエンゼーの金庫に保管されていたと思われる秘密の紙の写しを手渡した。

この疑いで、1772年1月17日午前4時にコペンハーゲン城(Kopenhagener Schloss)で行われていた仮面舞踏会の後、ストゥルエンゼーは逮捕され、女王は保護拘留されてクロンボー城(Schloss Kronborg)へと保護された。1772年3月8日、まだ21歳にも満たない、キャロライン・マティルデはストゥルエンゼーの自白を提示され、彼女がストゥルエンゼーの命を救うことができるかもしれないという希望を与えられた為、すでに準備されていた自白状に署名したのだった。

クリスチャン7世とキャロライン・マティルデの離婚手続きは3月14日に開始されたが、キャロライン・マティルデは証言することを許可されておらず、開始前に評決は決定していたのだった。ストゥルエンゼーの裁判は1772年4月21日に始まった。キャロライン・マティルデとの関係に加えて、彼は反逆罪、越権行為、そして横領で告発された。彼は4月15日(裁判開始の6日前)に有罪判決を受け、死刑は1週間後の1772年4月28日に執行された。

王との結婚が解消された後、イギリス国王でハノーバー朝の選帝侯である兄のジョージ3世の介入により、彼女は1772年にツェレへと追放されたのだった。キャロライン・マティルデは子供たちから引き離され、ツェレで失意の日々を送った。彼女はツェレ城で宮廷を開き、毎日、唯一の侍従であるルイーズ・フォン・プレセン(Louise von Plessen)を伴って街を訪れ、さまざまな人々との接触を求めた。様々な階級とつながりをもとうとした彼女の宮廷では、ブルジョア階級の興味深い人たちによって大いに活気づけられたのだった。

ツェレ城(筆者撮影)

以前は彼女の美しさで知られていたキャロライン・マティルデは、食べ物に身を寄せ、体重が増えた。 彼女は、元夫の精神病が証明され、彼女もデンマークに戻ることを許されることを生きがいとしていたが、この希望は実現しなかった。彼女は散歩を好んだが、なかでもフランス庭園を散歩することを愛したという。

キャロライン・マティルデが愛したツェレのフランス庭園(筆者撮影)

ちょうど3年後の1775年5月10日、まだ24歳にも満たないキャロライン・マティルデは猩紅熱で突然亡くなった。 感染の危険性があるため、マチルデの遺体は同じ日に、ツェレの聖マリエン教会の曽祖母のソフィア・ドロテアの墓の隣に埋葬されたのだった。死後、彼女が愛したフランス庭園内には、悲劇のデンマーク女王を偲んで、記念碑が建てられた。

フランス庭園にあるキャロライン・マティルデ像(筆者撮影)

参考:

lueneburger-heide.de, “Königin Caroline Mathildes Geliebter: Verhaftung nach dem Maskenball”, https://www.lueneburger-heide.de/stadt/artikel/9664/caroline-mathilde-celle.html

burgdame.de, “TRAGISCHE LIEBE UND TÖDLICHE VERSCHWÖRUNGEN – DAS SCHLOSS CELLE”, 17.01.2017, Eva Adamek, https://www.burgdame.de/2017/01/schloss-celle-mit-tragischen-liebesgeschichten.html

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