焼け落ちたデュッセルドルフ城

デュッセルドルフ

ライン川沿いに広がるデュッセルドルフ旧市街。ライン川沿いには多数のレストランが立ち並び、天気のいい日にはプロミナードで多くの人が散歩を楽しんでいる。この辺りにかつてはデュッセルドルフにも城が聳えていた。城はベルク伯爵の平城として1260年に建てられ1872年まで存在していた。城はヴィルヘルム5世、ヤン・ヴェレム、カール・テオドールの下で、選帝侯の居城として拡張された。

現在残っている城の一部(筆者撮影)

城は1709年から1712年にかけて城の南側に建てられ、その内部には1805年までルネッサンス期とバロック期の世界的に有名な絵画のコレクションを誇っていた。この独立した絵画ギャラリーによって城は国際的な注目を集めていた。 また、1817年から1848年まで宮殿の一部にはプロイセン王国の造幣局が存在していた。1845年からデュッセルドルフ美術アカデミーを数十年にわたって収容していた宮殿はフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の下で拡張され、州議会場としても使用された。

そんな城に不幸が訪れたのは19世紀末のことだ。1872年3月20日の夜、炎がデュッセルドルフ城から発生し、デュッセルドルフ旧市街のランドマークである装飾的なファサードを巻き込み、辺りを昼間のように照らしていた。世界的に有名な美術アカデミーを収容していたライン河畔の城が赤々と燃えていたのだった。消防団の必死の消火活動も虚しく、何世紀もの間町のシンボルであった城は全焼した。この時の様子を画家アウグスト・フォン・ヴィレ(August von Wille)は自身の作品に残し、この瞬間を永遠のものとした。火災の原因は不明のままであった。そして城は二度と再建されることはなかった。

デュッセルドルフに城が建てられることになったのは14世紀のことだ。1288年、ライン川とデュッセル川畔にあるこの小さな漁村が町の地位を与えられてから約100年後、城の建設工事が始まっている。城はライン川のすぐそばに建てられ、ラインを通行する船の通行料の徴収を行っていた。 1492年と1510年の2回の火災により当初の城の計画は破棄され、旧市街の城にはデュッセルドルフ城の塔だけが残っていた。
1521年、デュッセルドルフは統一公国の首都となり、その君主にふさわしい住居が必要となった。ヴィルヘルム5世はルネッサンスの建築監督であるアレッサンドロ・パスクアーニ(Alessandro Pasqualini)を採用した。この名匠の手により記念碑的な3階建ての建築が完成された。1584年6月、それは将来のユリッヒ・クレーフェ・ベルク家(Jülich-Kleve-Berg)公爵ヨハン・ヴィルヘルム(Johann Wilhelm)とバーデン辺境伯(Markgräfin von Baden)夫人ヤコベ・フォン・バーデン(Jakobe von Baden)の結婚のために壮大な環境は整ったのだった。(注:《ヤン・ヴェレン》の愛称で知られる18世紀の選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムとは異なる。)

ヨハン・ヴィルヘルム(Source:de.wikipedia.org)
ヤコベ・フォン・バーデン (Source:de.wikipedia.org)

当時はまだケルン戦争(Truchsessischer Krieg)というケルン司教領とバイエルンとの戦争が激化していたが、市民はひと時の間戦争を忘れ、お祭り騒ぎに興じた。

当時からすでに花火は存在していたが、お祝いのためにライン川にはたくさんの花火が打ち上げられた。この頃、疫病がデュッセルドルフからほど近いノイス(Neus)でも猛威を振るっており、その為コブレンツから来た結婚式の行列は迂回しなければならなかった。花嫁は整えられた金髪の三つ編みに、銀の錦織のローブ、金のブライダルドレス姿であったという。

もちろん結婚は政略結婚であった。カトリックとして育てられた王女は精神的に不安定な選帝侯を公国の王位へと近づけるはずであった。しかし、ことはそうは運ばなかった。この頃すでにヨハン・ヴィルヘルムの妄想は驚くべきレベルに発展していた。彼は夜な夜な鎧を着てはデュッセルドルフ城を駆けまわり、火をつけると脅していたようだ。

その後、幽閉されたヨハン・ヴィルヘルムの代わりにヤコベが自ら権力を握ろうとしたが試みは失敗に終わった。宮廷では彼女は自分の居場所を完全に失っていた。バーデンバーデンの公爵妃はラインラントで隠遁生活を送る気はなかったので自身の恋人をデュッセルドルフに連れてきている。いずれにせよ、公爵妃の敵対者はこのうわさをまわりに広めた。そして公爵妃が皆が切望していた跡取りを妊娠しなかったので、この結婚に関する黒いうわさが交わされることとなった。

1595年ヨハン・ヴィルヘルムの妹の周囲にいた王妃の敵対者たちは彼女を逮捕・起訴し、現在も存在する城の塔に投獄。警備員が1時間ごとに居場所を確認するほど厳重な監視体制を敷いた。 しかし、監禁から2年が経った1597年9月2日の夜、まだ39歳であった公爵夫人は監禁されていた部屋で死んでいるのを発見された。様々な陰謀論が語られたが彼女の死は今日まで謎のままである。その後、城の塔には頭のない女性の霊が出没するという伝説が生まれた。デュッセルドルフ生まれの作家ハインリヒ・ハイネは自身の著作《ル・グラン》(Le Grand)に「古くて荒廃した城があり、夜には黒い絹を身に着けた頭のない女性が歩き回っている…」と書いている。公爵夫人は近くのクロイツヘレン教会(Kreuzherrenkirche)に埋葬されたが、1820年に城に隣接していたランベルトゥス教会(St. Lambertus)へと運ばれそこに埋葬され直している。この時、遺族がヤコベの髪の毛を切り取っており、その髪の毛は彼女の肖像画と共にデュッセルドルフ市に寄贈されていた。肖像画の方は消失してしまったが、髪の毛の方はベルガーアレー2番(Berger Allee 2)にあるデュッセルドルフ市立博物館(Stadtmuseum)に現在でも保管・展示されている。

ヤコベ・フォン・バーデンの頭髪、デュッセルドルフ市立博物館蔵(筆者撮影)

デュッセルドルフではこの不気味な伝説と組み合わせて、毎年《ゾンビウォーク》なるイベントを開催しており、毎年9月の初めに仮装した市民がブルクプラッツと城の塔のあたりを練り歩く。

《ゾンビウォーク》のイベント(Source:commons.wikimedia.org)

デュッセルドルフでヤン・ヴェレムの愛称で知られるヨハン・ヴィルヘルム(1658-1716)はバロック様式で宮殿を拡張した。しかし、彼の後継者たちは暫定的に作業を継続しただけで複合施設は徐々に荒廃していった。

防御面においてもライン川のすぐそばにある城の立地は致命的であった。ライン川の右岸にあるデュッセルドルフはあらゆる種類の防御要塞を備えた城壁をもっていたが、対岸のオーバーカッセルを十分に強化することはできなかった。その為、フランス革命軍がライン川を挟んで城から数百メートルの距離まで接近するのは容易なことであった。 1795年、フランス革命軍がデュッセルドルフ城を攻撃したときには城はなすすべもなく焼け落ち、瞬く間に崩れ落ちた。

それからまた50年の歳月が流れた。19世紀に入ると、古城や城の廃墟が新ロマン主義の要素をふんだんに盛り込んで復元される一大ブームが起こったのだ。プロイセンのヴィルヘルム4世も1845年にデュッセルドルフ城再建の礎石を置いた。城はルネッサンス様式で再建され、火災が発生した1872年の3月まで工事は続いていた。現在は海運博物館となっている城の塔を除いてすべての部分が消失した。現在、残った広場は皮肉なことに《ブルクプラッツ》(城広場)と名付けられている。その後数十年に渡って城の復興についても地元政治家の間で議論が戦わされた。

現在、かつての城の隣に建っていたランベルトゥス教会の辺りは地下トンネルが掘られ、車の通行を制限できるようになったライン川沿いの道は遊歩道となっている。地下トンネルが通った今となっては地盤がデュッセルドルフ城を支えることができなくなってしまい、かつてのデュッセルドルフ城を再建するという夢は永遠に失われてしまった。

現在、唯一残っている城の塔は最上階が見晴らしの良いカフェになっており、下の階は海運博物館に改装され、ライン川における船舶の航行の歴史を物語っている。

海運博物館の展示ー1(筆者撮影)
海運博物館の展示ー2(筆者撮影)
海運博物館の展示ー3(筆者撮影)
荷物の積み下ろしに使われたクレーンの模型(筆者撮影)

参考:

burgerbe.de, “EINSTIGES DÜSSELDORFER SCHLOSS: WO DIE KOPFLOSE MARKGRÄFIN SPUKT”, 25, September 2008, https://www.burgerbe.de/2008/09/25/warum-dusseldorf-kein-schloss-mehr-hat-aber-eine-sage-um-eine-kopflose-markgrafin/

zeitspurensuche.de, “Herzogtum Berg: Johann Wilhelm I. und Jacobe von Baden, die Weiße Frau von Düsseldorf”, http://www.zeitspurensuche.de/02/jacobe1.htm

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