帝国を動かした修道女

クヴェトリンブルク


初代神聖ローマ皇帝オットー1世とその二人目の妻、ブルゴーニュのアデルハイトの娘として生まれたマチルデは、ハルツ山地の北端にある町、クヴェトリンブルクで人生のほとんどを過ごしている。わずか 11歳のとき、彼女は祖母に取って代わり、クヴェトリンブルク女性修道院の院長職を引き継いでいる。

修道院は、若い未婚の女性か、未亡人として修道院に引退した貴族の女性たちの生活の場であった。マチルデは、幼い頃から、修道院で生活するあらゆる年齢の女性に責任があった。後に甥のオットー3世が帝国を統治して以降は、皇帝がイタリアにいる間、マチルデがドイツの支配を任されることとなり、クヴェトリンブルクから帝国さえも統治したのだった。

968年、今日のノルトライン=ヴェストファーレン州、ヘクスター(Höxter)近くのベネディクト会修道院で、修道士ヴィトキント・フォン・コルヴァイ(Widukind von Corvey)は、自身の記念碑的な作品《ザクセンの歴史(Die Sachsengeschichte)》を完成させた。その著書の中で、 ヴィトキントは、ザクセン族、ハインリッヒ1世の歴史や、オットー大王の業績について書き記している。

ヘクスターにあるコルヴァイ城

ヴィトキント は3巻のそれぞれに、マチルデ・フォン・クヴェトリンブルクに捧げた序文を書いている。彼はマチルデの賢明さを賞賛し、全ヨーロッパから愛された人物だと述べている。マチルデは13歳の時に、この《ザクセンの歴史》を贈られている。これは帝国の統治方法に関する一種のハンドブックとして書かれており、政治に関する知識や知恵が数多く記載されていた。統治者が欺瞞と謀反に直面した時にどのように対処すべきかについての助言なども含まれていた。

この地域の多くの場所の1つとして、プファルツ・ヴァルハウゼン(Pfalz Wallhausen)はクヴェトリンブルクの女性修道院に従属しており、985年からは女子修道院長のマチルデの所有となっている。修道院は、ディットフルト(Ditfurt)、ドゥーダーシュタット(Duderstadt)、ニーンブルク・アン・デア・ザーレ(Nienburg an der Saale)など、ハルツ山地の前地に多くの土地を所有していた。これらの土地は、この地方特有の非常に肥沃な黒土をもっており、1年に2度の収穫が可能であった。その為、この地域は帝国の穀倉地帯の1つであった。

クヴェトリンブルク城と修道院教会


994年、マチルデは、甥のオットー3世からクヴェトリンブルクの市場開催権、貨幣鋳造権、関税特権を得ている。これはマチルデの収入を増やしただけでなく、修道院管理下のマーケットを他の町の人々にとって魅力的なものへと変貌させた。ヘンリー1世の墓を訪問する途中の巡礼者は、市内に立ち寄ることとなり、クヴェトリンブルクの経済成長に貢献することとなった。この頃、城壁や要塞が建設されており、ますます多くの職人がこの地に定住するようになっている。市場開催権はこの基礎だ。わずかな小屋しかなかったクヴェトリンブルクが、マチルデのイニシアチブによって、繁栄した都市へと発展を遂げたのだった。


皇帝オットー3世は支配の焦点をますますイタリアへと移した。彼の叔母マチルデ・フォン・クヴェトリンブルクは、オットー3世の最初の旅行に同行している。 997年にイタリアで再び政治的困難があったときは、オットー3世はマチルデを帯同せずにアルプスを越えてローマへ赴いているのだが、この時、オットー3世はドイツの支配権を大司教や公爵ではなく、マチルデに委ねたのだった。マチルデは子供の頃、7年間に渡ってザクセン王室の唯一の代表者だった。マチルデは自身の両親、そして同い年の兄がイタリアに滞在している間、クヴェトリンブルクに一人で残り、摂政へと成長したのだった。


998年、ハルツの宮廷のあるデーレンブルク(Derenburg)において、 マチルデ・フォン・クヴェトリンブルク は、国内で最も権力のある有力諸侯を招集した。オットー朝の王の代理として、マチルデは有力なザクセン諸侯の集会を開き、彼らの要求に耳を傾け、新しい役人を任命し、法を定めたのだった。


マチルデのバランスのとれた政治感覚と統治者としての能力が発揮された次のようなエピソードが残っている。ノルトマルクでは、ヴェルナー・フォン・ヴァルベック(Werner von Walbeck)という人物が、この辺境伯領を統治していた。彼は有力貴族の娘、リウトガルト・フォン・マイセン(Liudgard von Meißen)と結婚することになっており、両家の家族が婚約を既に公表していた。しかし、結婚式の直前になって、リウガルトの父親は何らかの理由で結婚式への同意を撤回し、娘をクヴェトリンブルク女性修道院へと送ったのだった。ヴェルナーはこの屈辱に甘んじることができず、数名の騎士を伴い、クヴェトリンブルク修道院を襲撃し、リウトガルドを誘拐した。


マチルデは何ヶ月もの間、当事者間を仲介した。ヴェルナーが花嫁と一緒にマグデブルグの宮廷裁判に姿を見せ、有罪を認めるか、あるいは国外追放となるか、マチルデはヴェルナーに最後通告を行った。統治者として領土に正義と平和を維持するため、王の力を民衆に示し、自らの権利を執行したのであった。そしてマチルデは成功した。ヴェルナー・フォン・ヴァルベックは誘拐した花嫁を伴って宮廷に現れ、彼女を家族のもとへと返している。悔い改めたヴェルナーに対しても、マチルデは慈悲を示したのであった。

メルゼブルクの死亡記録の中には、オットー朝の死者の書がある。カレンダーのように、オットー一族や親族の死亡日が、この文書に記載されている。マチルデ・フォン・クヴェトリンブルクの生涯がどれほど丁寧に書き留められているかは驚嘆に値する。つまり、この死者の書は、マチルデの信仰だけでなく、彼女の誠実さや自己規律の証左でもある。


クヴェトリンブルクの中世の女性修道院の教科書は、ハレの地域図書館に保管されている。これらは主に宗教的な、ラテン語で書かれたキリスト教作品である。女子修道院長マチルデの下で、若い修道女たちは祈りと詩篇を通して教会の言語を学ばなければならなかった。その後、より進んだ学生は福音を学んだのだった。

999年2月、マチルデはその権力の絶頂期に、クヴェトリンブルクでその44年の生涯に幕を閉じている。今日、我々は街中でマチルデの足跡を見つけることができる。

参考:

mdr.de, “Der Weg vom Mädchen zur Machtfrau: Mathilde von Quedlinburg: Daten, Orte und Ereignisse”, 15. September 2015, https://www.mdr.de/geschichte/weitere-epochen/mittelalter/mathilde-von-quedlinburg-karte102.html

quedlinburg.de, “Mathilde von Quedlinburg – Vom Mädchen zur Machtfrau”, 18.08.2013, http://www.quedlinburg.de/de/unsere_stadt/mathilde-von-quedlinburg-vom-maedchen-zur-machtfrau-20003987.html

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