大国スウェーデンを破った《偉大なる選帝侯》

ベルリン

ベルリンのシャルロッテンブルク(Schloss Charlottenburg)の中庭に立つ騎馬像は、17世紀のブランデンブルク選帝侯、フリードリヒ・ヴィルヘルム(Friedrich Wilhelm) のものだ。彼は、当時ヨーロッパにおける大国スウェーデンを相手に戦い、劇的な勝利をおさめ、《大選帝侯》と呼ばれるに至った人物である。

フリードリヒ・ヴィルヘルム 像(Source:wikipedia.de)

1640年、ホーエンツォレルン家のフリードリヒ・ヴィルヘルムがブランデンブルクの辺境伯になり、神聖ローマ帝国の選帝侯になったとき、彼の国は廃墟となった。

その時代の人々にとって、略奪軍によって広まった恐怖は、1640年にブランデンブルクとクレーフェの大部分を占領して略奪したスウェーデン軍によるものだった。 1648年に三十年戦争の殺害を終結させたヴェストファーレン条約は、スウェーデンの列強としての地位を確立し、メクレンブルクとポンメルンの大部分がその領土に加わった。1675年6月28日にフリードリヒ・ヴィルヘルムがフェールベリン(Fehrbellin)近郊のスウェーデン軍を打ち負かしたという事実は、多くの人々によって歴史的なターニングポイントとして考えられていた。ヨーロッパ列強の軍事闘争において、ブランデンブルクは初めて独立した勢力として登場し、当時、最も恐れられていた軍事大国に対して自らの力を示したのだった。

荒廃した国の行方は、この若き統治者の運命と熱意にかかっていた。1657年、皇帝フェルディナント3世が逝去し、ウィーンの宮廷が、後継者の投票フリードリッヒ・ウィルヘルムの選挙人票を求めたのは偶然の一致であった。ポーランドがプロイセン公国に対する封建的主権を放棄し、ホーエンツォレル家が最東端の国で主権を獲得したのは、最終的にはワルシャワにおけるオーストリアの影響力によるところであった。

選帝侯の業績は少なくともこのことと同じくらい重要であった。他の大半の選帝侯とは対照的に、フリードリッヒ・ウィルヘルムは継続的かつ集中的に国政に専念しただけでなく、新しい統治の概念を進めるべきだという信条に従っていた。それを念頭に置いて、彼は荒廃した国土の再建に着手した。「私は、自分自身の為ではなく、領民の為であることを念頭に置き、領主としての責任を全うするつもりだ。」このことを念頭に置いて、選帝侯は荒廃した国の再建に着手した。

一つは、ブランデンブルクが二度と大国の権力闘争の犠牲とならないよう、常備軍を設立することだった。効率的な行政と積極的な経済政策は、このための有効な手段となるはずであると、選帝侯は確信していた。そして何よりも、選帝侯は、貴族に農奴制に立脚した領主としての地位と特権を認めつつ、貴族と土地の結びつきを破壊したのだった。

1641年には、国が保持していた兵士は3,000人程度であったが、1660年には25,000人の兵士を保持しており、1670年代の終わりには、38,000人の常備兵を備えていた。これは、三十年戦争の時のような傭兵部隊ではなく、フリードリヒ・ヴィルヘルムが若い頃に数年間暮らしたオラニエ公の軍隊改革を手本としたような、訓練された軍隊だった。歩兵は近代的なフリントロック式ライフルを持ち、砲兵は標準的ライフルを持っていた。士官候補生は士官学校で専門的な訓練を受け、それが下位階級の士気を一掃高めた。

しかし、巨大な政治闘争のなかで目立った役割を果たすにはそれだけでは十分ではなかった。選帝侯は同盟相手としては注目を集めたものの、自身が主役となる活躍ではなかった。1674年、皇帝レオポルト1世がオーバーハイン(Oberrhein)近郊で、フランスのルイ14世に対して行った軍事作戦では、ブランデンブルク軍による別働部隊の活動は陽動部隊としての参加に限られていた。

その後、選帝侯は、スウェーデンが同盟国であるフランスを支援するためにブランデンブルクに軍隊を進軍させたという知らせを受ける。まるでかつてのトラウマが戻ってきたようであった。軍隊が越冬の為の陣地で滞在を余儀なくされたとき、フリードリッヒ・ヴィルヘルムは兵士にこう呼びかけた。「貴族であろうとなかろうと、スウェーデン軍を打倒し、やつらの首をへし折れ!」1675年、天候が回復するとすぐに、ヴィルヘルムは軍を率いて北へと急いだ。 6月22日、ヴィルヘルムはマクデブルク近郊に到着したが、まだハーフェルベルク(Havelberg)、ラーテノウ(Rathenow)、ブランデンブルクに留まっていたスウェーデン軍はそのことにまったく気づいていなかった。

ブランデンブルク軍の歩兵の進軍はまだ遅れており、7,000名程度の騎馬兵では、14,000人のスウェーデン軍に対して数では劣っていたが、ブランデンブルク選帝侯はラーテノウの敵の陣地に対して攻撃を開始した。奇襲作戦は成功した。スウェーデン軍は虐殺され、残りは捕虜となったが、ブランデンブルク側の損失はほとんど出なかった。この後すぐに、スウェーデン軍の元帥ウォルマー・ランゲル(Wolmar Wrangel)は撤退を決定した。

フリードリヒ・ウィルヘルムは撤退するスウェーデン軍を追い、ナウエン(Nauen)でランゲルの軍を破った。 6月28日の朝、両軍はフェールベリンでの戦闘を再開。ブランデンブルク歩兵はまだ到着しておらず、6,000名の騎馬兵を指揮する選帝侯は、数の上では11,000人のランゲルのスウェーデン軍より明らかに劣っていた。

《 フェールベリンの戦い》フェルディナント・ケラー(Ferdinand Keller)作

しかし、フリードリッヒ・ヴィルヘルムは運を味方につけていた。朝靄の中、敵は右側に広がる砂丘を見落としていたのだった。フリードリッヒ・ヴィルヘルムは銃で武装した数名の兵士をすぐに配備し、スウェーデン軍の戦線に向けて攻撃をしかけた。この劣勢を跳ね返すため、ランゲルは騎兵隊を送ったが、ヘッセンーホンブルク家のフリードリヒ2世率いるブランデンブルク軍によって前進を止められた。フリードリヒ・ヴィルヘルム自身も狭い戦場で起こった戦闘に巻き込まれ、極めて危険な状況に陥っていた。結局、スウェーデンの騎兵はブランデンブルクの猛烈な攻撃に屈し、戦線を離脱して逃亡を開始した。

選帝侯はすぐにその背後に控えていたダルウィック(Dalwigk)連隊への攻撃を命じた。 1200名のスウェーデン軍は幸運に恵まれず、わずか数十人が脱出に成功したのみで、70名ほどは捕らえられ、残りはその場で虐殺された。翌日、フェールベリンが陥落した後、ランゲルは撤退を命じたが、撤退はすぐに無秩序な逃亡へと変わった。取り残されたスウェーデン軍は、三十年戦争のスウェーデン軍による虐殺を忘れていない住民にその恨みを晴らされたのだった。 「自身の命と引き換えに、相当な金額の身代金の支払いを申し入れた諸侯でさえ、怒った農民たちによって処刑されたのだった。」年代記はそう伝えている。

スウェーデンの観点からは、この戦いは不運な撤退を余儀なくされた戦いに過ぎなかったが、ブランデンブルクと神聖ローマ帝国における反響はすさまじいものだった。選帝侯は、三十年戦争における勝利によって、当時最も恐れられていた軍事力を誇るスウェーデンに対して、自ら率いる軍隊によって勝利を収めたのだ。1679年のサンジェルマン条約で、列強は、フリードリッヒ・ウィルヘルムが、メクレンブルクとポンメルンの占領地のほとんどを手ばなすよう仕向けた。しかし、一時は完全に破壊されたブランデンブルクがわずか数十年のあいだに独立した勢力となり、その同盟国となることは大国にとっても有意義であることは証明された。


フリードリヒ・ヴィルヘルムはこの戦いの勝利を、「偉大なる選帝侯」としての自己表現のために利用した。フリードリヒ・ヴィルヘルムは48年間の治世の間に、ブランデンブルク=プロイセン公国の基礎を築いた。後世の人々も、フェールベリンの戦いを歴史的なターニングポイントとして捉えた。ハインリヒ・フォン・クライスト(Heinrich von Kleist)は、自身の作品「ホンブルクのフリードリッヒ王子(Prinz Friedrich von Homburg)」の中で、この戦いの様子を想像力豊かに描写し、このプロイセンの歴史的勝利を時代を超えた記念碑とし残した。

参考:

welt.de, “Mit dieser Schlacht wurde Brandenburg eine Macht”, 29.06.2017, Berthold Seewald, https://www.welt.de/geschichte/article166053937/Mit-dieser-Schlacht-wurde-Brandenburg-eine-Macht.html

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