エッセン大聖堂 宝物庫

エッセン
エッセン宝物庫(筆者撮影)

大聖堂の宝庫は、9世紀に設立され、1803年に世俗化されるまで存在していたエッセンの元女性修道院の宝庫に由来する。その後、教会の宝庫は、修道院に属していた聖ヨハンバプテストの教区教会の所有物となっている。第二次世界大戦中、大聖堂の宝庫は最初にヴァールシュタイン(Warstein)に運ばれ、次にマイセンのアルブレヒト城に運ばれ、そこからジーゲンへと運ばれた。アーヘンやトリーア大聖堂の宝庫と同様、空襲から保護するためハイナートンネル(Hainer Stollen)に保管された。終戦後、エッセンへと返還された。

立脚付きボックス。ラインラント。12世紀。杉の木。真鍮メッキ。

このような箱は、聖遺物を納める容器として使用され、中世初期以来、その使用は広範に広がった。ジグザグ模様でかたどられた板は、動物の骨から出来ている。箱の脇に取り付けられた輪っかは、この箱が以前は祭壇に掛けられていた可能性を示唆している。

アルトフリード・シュライン(Altfrid-Schrein)。ケヴェラ―(Kevelaer)。ヤコブ・ホルトマン(Jakob Holtmann)作。1892年。オーク材。

中世に作られた小箱の代わりとして、ミュンスター教区のふたりのメンバーが、1892年に、このゴシック様式のレプリカの小箱を寄付した。この箱は、1974年まで参事会教会の創設者である聖アルトフリードの聖遺物容器として使用された。蓋の上では、アルトフリード司教は、聖母マリアにエッセンの参事会教会を渡している様子が描かれている。その横には、教会の守護聖人であるコスマスとダミアンが立っている。聖遺物容器の裏側には、アルトフリードが死亡した日である874年8月15日の日付が見える。

アルトフリード・シュライン。デュースブルク。クラウス・ポール(Claus Pohl)作。1974年。アッシュウッド製。宝石、金・銀のメッキ、ブロンズを使用。

アルトフリードの聖遺物は、現在、大聖堂の東のクリプタにある石棺に収められている。毎年8月15日には、二日だけ聖遺物はこのシュラインの中に収められ、大聖堂での崇拝のために、聖歌台室に設置される。このシュラインは、1100年に作成された。

14/15世紀の作。銀メッキと刻印。律修司祭が毎日のメッセや祝日の儀式に用いる杯が、宝物庫にはたくさん収められている。

後光の聖母(Maria im Strahlenkranz)。マースランド(Maasland)もしくはルール地方、1500年頃作。オーク材。

聖コスマスと聖ダミアンに並んで、聖母マリアはエッセンの女子修道院の守護聖人であった。この像は、大聖堂の主祭壇に捧げられた。マリアは、左手に「新しいイブ」として、なしをもっており、子供のイエスは整体のシンボルとしてブドウを持っている。

コスマスとダミアン。1715年、そして1780年頃。エッセン。カスパー・コルテ(Casper Korte)作。ベルンハルディーネ・フォン・ヘッセン=ラインフェルス(Bernhardine von Hessen-Rheinfels)からの贈与。銀と金のメッキ。

参事教会の設立者であるアルトフリード司教は、845年頃、ローマへの旅で、聖コスマスと聖ダミアンの遺骨を持ち帰った。彼はこの遺骨をエッセンの参事会教会に寄贈した。その時から、この二人の聖人は女子修道院の守護聖人となった。今日までこのふたりはエッセン市の守護聖人である。この双子の聖人は、伝説によると、キリキアでキリスト教徒が迫害されていた3世紀に実在した。医者として不治の病をいやし、盲目の人々、麻痺に苦しむ人々を治療した。隣人愛でもって、彼らは多くの人をキリスト教に改宗させた。しかしその行為によって処刑された後、ふたりは殉教者そして聖人となった。

司教の指輪。ケルン。ヒルデガルト・ドミツラフ(Hildegard Domizlaff)作。1953年。銀メッキ。ローマの金貨(5世紀)。エッセン教区博物館(Diözesanmuseum)。

王や諸侯は、自身の貨幣を鋳造することができたが、修道院の女性たちにも貨幣の鋳造が許されていた。この硬貨はすべて女子修道院のものである。800年前に、王によりこの権利が与えられたという。

エンゲルバルト司教(Engelbert)とヨハネス・フォン・ネポムク(Johannes von Nepomuk)。

この像は約300年前に作られた。エンゲルベルト司教は、800年以上前に修道院の女性を援助した。ヨハネス・フォン・ネポムクは、700年ほど前、司祭であった。ネポムクは王女から告白を聞いたのだが、夫である王はその内容を知りたがり、ネポムクに問いただした。しかし、ネポムクは答えず、王に殺害された。400年後、人々はネポムクの墓を掘り返したが、彼の舌は生前の時と変わらなかった。その為、ネポムク像は舌を出した姿で描かれている。

東方三博士の礼拝。ケルン。1510/1520年の作。オーク材。

ケルンの彫刻家が、大聖堂の通路側に大きな《キリストの哀悼》を作っている。後期ゴシックでよくみられるように、東方からの三博士は、様々な年齢で表されており、同時に中世に知られていた大陸、ヨーロッパ、アジア、アフリカを表している。

《マリアの教え》(Unterweisung von Maria)

ここでは聖母マリアが少女として描かれている。隣にいるのは、マリアの母、聖アンナである。アンナはマリアに読みを教えており、そのため、このモチーフは《マリアの教え》と呼ばれる。この時代、多くの像は木製であったが、この像は粘土を焼いて作られている。

典礼用の櫛(いち部分)。ニーダーザクセン、9/10世紀。象牙。

象牙の彫刻の上部には、秘密の符号が見て取れる。表の面には、最後の晩餐の場面が描かれている。裏面には翼をもったドラゴンが描かれている。両面とも色が付けられていた。13世紀まで、司祭は典礼用のローブを着た後、このような櫛で髪を整えていた。

オットー・マチルデ十字架(Otto-Mathildenkreuz)トリアー(?)、983年。

修道院長マチルデは、この十字架を兄弟の思い出として寄贈したと考えられる。兄弟とは、982年にオットー2世の跡継ぎとして亡くなったオットー・フォン・シュヴァーベン(Otto von Schwaben)である。兄弟たちの名前は十字架の下部に刻まれている。この時代の金細工の最高傑作。

ゼンクシュメルツェンクロイツ(Senkschmelzenkreuz)。エッセン、1000年頃の作。1020年に加工。木製、金、エナメル、真珠。

この十字架の寄贈者は、修道院長のマチルデであったと思われる。中央には、十字架に架けられたイエスとマリア、ヨハネが見える。上下左右の端には、4人の福音書記者が見える。エナメルはおそらく1000年頃にエッセンの工房の作だと思われる。

テオファヌの十字架(Theophanukreuz)。エッセン。1040/45年頃。

損壊した碑文によると、寄贈者は修道院長のテオファヌであった。彼女は、キリストの十字架の釘が入った聖遺物容器と、黄金の本カバーと共にこの作品を寄贈した。この三つの作品は、復活祭の行事に用いられた。中央の水晶の中には、キリストの十字架の聖遺物が納められている。

マチルダクロイツ(Mathildenkreuz)。エッセン、1051/54年。

修道院長テオファヌは、この作品を前任者であるマチルデへの記念として造られたことが、十字架下部に書かれてある。テオファヌは、マチルデが開始した参事会教会の建築を完成させている。テオファヌは、1051年にクリプタが完成した時か、1054年に聖歌台が完成した時に、この作品を寄贈したと考えられる。この十字架は、オットー・マチルデクロイツと体を成すものとして作られたと思われる。

十字架の釘を容れた聖遺物容れ。エッセン。1040/45年頃。木製。金と銀のメッキ。

この容器入れの今日の外見は、14世紀に作り替えられた。大きな水晶が保存している鉄のかけらは、聖なる十字架の釘だと言われ、崇拝の対象となった。水晶で囲まれた壮麗なフレームは、すでに修道院長テオファヌの時代に存在していた。

これは本のカバーであった。このカバーの中心には象牙でできたプレートが取り付けられている。修道院長のテオファヌは、このカバーを贈り物として受け取った。象牙のプレートには、下にイエスの誕生、その上に十字架にかけられたイエスの死、そして上にはイエスの復活が描かれている。黄金の枠は、テオファヌが作らせた。この部分には多くの聖人が描かれている。

(左) 聖クィンティヌス(Quintinus)の遺骨の入った聖遺物容器。エッセン(?)1491年以降の作品。銀による部分的メッキ。エッセンの参事会教会の責任者であったマルガレーテ・フォン・カステル(Margarete von Castell)が自身の遺書の中で、この銀の腕を完成させるように書いていた。このことは、作品下の縁に解読しにくい文字で書かれている。聖クィンティヌスは、3世紀の殉教者であり、11世紀以降、この参事会教会の共同保護者として崇拝された。

(右) ベアトリクス・フォン・ホルテ(Beatrix von Holte)の腕の形の聖遺物容器。ラインラント、1300年頃の作。木製。銀による部分的なメッキ。修道院長であったベアトリクス・フォン・ホルテが修道院の守護聖人である聖コスマスの遺品を入れる容器として、この銀の腕を寄贈した。ベアトリクスは、1275年に参事会教会が火事になった後、ゴシック様式で教会を建て直しており、この作品の手に握られた教会は、建設主そして修道院長としての自身の存在を見る人に想起させるデザインとなっている。

聖マルサス(Marsus)の聖遺物を入れる胸像。ケルン。1470/80年。

この胸像は、ローマの殉教者マルサスであり、カズラ(司祭が着用する祭服)を身に着けている司祭として表されている。ローマの司教聖人の聖遺物は、1000年頃、エッセンの女子修道院にやってきた。修道院長マチルダ2世(Mathilde II)は、聖遺物の容器として高価なシュラインを作らせ、大聖堂の高祭壇に置かれた。シュラインは18世紀に失われている。

サンゴで出来た遺骨入れ。800年前、サンゴは非常に高価であったことから、この容器には特に大きなサンゴがあしらわれている。

エッセンの王冠。ドイツ西部。11世紀後半。金、宝石、真珠、真鍮による強化。

現存する最も古い《ユリの王冠》(Lilienkrone)である。《ユリの王冠》は、額に直立している冠の突起が、紋章のユリをモデルにしている。王冠の外側は、宝石、真珠、絡み合った金のワイヤーで飾られている。宝石は、もともとは規則的な色のスキームに従って並べられていた。前方左の、ローマ時代からの削られたアルマンディン石には、祈りを捧げる男が見て取れる。

聖コスマスと聖ダミアンの聖遺物。ケルン。1643年。

この聖遺物容れは、聖コスマスと聖ダミアンの遺骨を保存している。右のガラス容器には、中世初期にエッセンにおける大きな崇拝の対象となった聖マルサスの遺骨が入っている。

女子修道院では、修道女は読み書きとラテン語を習ったが、当時読み書きができる人は圧倒的に少数であった。修道院の女性は、聖書や重要な文献を書き写したのだった。書物は文字だけでなく、美しい絵も添えられた。この時代、まだ紙はなく、羊皮紙が用いられた。

この鎖が付けられた本には、修道院の女性が、家や畑や森など、自身の所有物を記載した。またこの本には、農民がいくらの税を支払わなければいけないのかが記載されていた。本は盗難にあわないよう鎖が付けられた。

さて、以上がこの宝物庫の主な展示品である。

重要な点は、この展示物はほぼ全てがこの女子修道院の所有であった点である。ここの女性は、共同生活を行い、結婚も許されていた。そして、しばしば裕福であった。彼女たちは、ここで神に祈りをささげた。ここの展示物の古いものは、この修道院の女性が作らせたものである。そして、豪華な宝物は、神事で実際に使用された。

アルトフリードという司教が1200年前にこの女性修道院を設立した。死後、アルトフリードはこの修道院に埋葬された。その後、修道院は火災に会い、アルトフリードの墓も焼失した。わずかな遺骨だけが残ったのだった。この骨を、修道女たちは大切に聖遺物箱に保存した。

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