エッセン ルール美術館 特別展《ライン・ルール地方の貴族》

エッセン

この特別展では、中世初期から現在までのライン川とルール地方の貴族の歴史全体の概要を初めて紹介している。ユネスコ世界遺産に登録された高さ12メートルの壕の中で、約160の美術館から借りたアーカイブ、図書館、個人コレクションなど、800以上のオブジェクトが展示されている。これらの展示品には、合計3000万ユーロの保険価値があるという。貴族の子孫が、これまで展示されたことのない個人所有の品を提供している。祖先の肖像画やその他の絵画、貴重な銀や磁器の食器、ガラスのゴブレットなど。メインルームでは、中世初期から現在に至るまでの一千年の貴族の歴史を紹介している。

展示品のなかでも特には、ウィーンのクンシストリッシェス美術館のユーリッヒ=クレーフェ=ベルク公爵ウィルヘルム5世の壮麗な鎧、エッセン大聖堂の宝物庫にある文化的宝物、エッセン修道院長フランツィスカ・クリスティンの肖像画、貴重なタペストリーなどである。

中央にあるエスカレーターを登って博物館入口へ。(筆者撮影)
全長58mのエスカレータを下から見上げたところ(筆者撮影)

ドイツ王マキシミリアン1世によるヴィルヘルム4世へのユーリッヒ=クレーフェとラーベンスベルク(Ravensberg)の封土に関する書状。帝国諸侯への封土ー領主は、たびたび王か皇帝から封土を受ける必要があった。

クレーフェ・マルク伯アドルフの公爵への昇格。コンスタンツ公会議の年代記者ウルリッヒ・リーヒェンタール(Ulrich Richental)による1465年の作品、いわゆる《リーヒェンタール年代記》(Richental Chronik)のレプリカ作品。1417年、クレーフェのアドルフ2世は、コンスタンツ公会議にて他の領主と共に、皇帝ジギスムントから公爵への昇格を受けている。

フリードリヒ・バルバロッサの胸像。ラインーマース地域、1156/71年。セルムのカペンベルク(Cappenberg)城の聖ヨハネス福音協会蔵。中世に作られた最も重要な胸像のひとつ。この胸像は、フリードリヒ・バルバロッサが、カペンベルク伯オットーに贈った。バルバロッサは、1122年のオットーの洗礼式に立ち会った代父母であった為と思われる。

ケルン大司教ディートリッヒ2世によるヴェスツ・レックリングスハウゼン(Vests Recklinghausen)の譲渡状。ディートリッヒ2世は、ゾーストでの私闘により、1446年、ヴェスツ・レックリングスハウゼンの質権を長期間に渡り譲渡する必要があった。領土がケルン大司教の所有に戻ってきたのは、1576年になってからだった。

エッセンの修道院長ベアトリクス・フォン・ホルテ(Beatrix von Holte)の手を模った聖遺物容器。ラインラント(ケルンと思われる)1300年頃の作。エッセンの宝物庫像。ベアトリクスはヴェストファーレン地方の影響力のある一族に生まれ、1292年から1327年まで、修道院長と務めた。1275年、彼女は焼失した参事会教会を再建している。聖遺物容器は、収められた絵によって彼女が建築主であったことを示している。

アルンスベルク(Arnsberg)のハインリッヒ2世とその妻、アルンスベルクのヴェディングハウゼン修道院(Kloster Wedinghausen)のエルメンガルディス(Ermengardis)の墓標。1330年頃の作。アルンスベルクの聖ローレンティウス(St.Laurentius)教会蔵。ハインリッヒ2世伯爵は、しばらく父親であるハインリッヒ1世の共同統治者であった。彼は13世紀初頭に死亡。彼は生前、自身と妻のために、ヴェディングハウゼンのプレモントレ修道会(Premonstratensians)の律修司祭教会(Chorherrschaft)に記念碑を建設していた。

アドルフ1世が、クレーフェ=マルク領の不分割と男系への相続を認めたハム(Hamm)、ウナ(Unna)、イゼルローン(Iserlohn)、カーメン(Kamen)、シュヴェルテ(Schwerte)、リューネン(Lünen)の伯爵領の宣誓書。1417年9月29日。デュースブルクの公文書館蔵。この書状は、領土に関する法律の主要な変更を含んでいる。長男への遺産相続である長子相続を導入を意味し、この取り決めは承認され、封印される必要があった。

アルンスベルク(Arnsberg)伯爵領のケルン大司教への売買に関する証明書。アルンスベルク伯爵ゴットフリート4世(Gottfried IV.)。1368年8月25日。ミュンスターの公文書館蔵。

アルンスベルクは常にケルン大司教と辺境伯の小競り合いによって脅かされており、1366年に焼き払われた。この売買により、アルンスベルクはヴェストファーレンのケルン地方の公爵領となった。

ホルスト(Horst)のルネサンスの城からの二重の彫像を模った柱。カルカール(Kalkar)のハインリッヒ・フェルヌッケン(Heinrich Vernukken)とヴィルヘルム・フェルヌッケン(Wilhelm Vernukken)。1560年/70年。ゲルゼンキルヘン(Gelsenkirchen)蔵。このルネサンスの暖炉とドアのわき柱は非常に高い品質を保っている。ファサードの装飾は、豪華な城の調度品の印象を与えている。

アンナ・フォン・デア・ホルスト(Anna von der Horst)作者不明。ケルン?。1560年以降の作品。

ゲルゼンキルヘンのホルスト城参事組合蔵。

夫フォン・ヴィルヒ(Von Wylich)と死別したアンナは、1548年頃にルトガー・フォン・デア・ホルスト(Rutger von der Horst)と結婚。コストのかかる城の建設プロジェクトの費用の一部は、アンナの母方の遺産から捻出されている。アンナと夫の肖像画は、二人が同じランクとして描かれている印象を与える。

ルトガー・フォン・デア・ホルスト(Rutger von der Horst)作者不明。ケルン?1560年以降の作品。ゲルゼンキルヘンのホルスト城参事組合蔵。

ホルスト城の建設主は、エメリッヒの参事会学校で教育を受け、ケルン大司教の大臣を務める貴族であった。彼は当初ケルンの将校であり、1576年からはヴェスツ・レックリングハウゼン(Vests Rechlinghausen)の知事であった。

ユーリッヒ=クレーフェ=ベルク公爵ヴィルヘルム5世の鎧。北部イタリア、1555年頃の作。ウィーン美術史美術館蔵。

この豪華な騎士の鎧は、ヴィルヘルム5世のものだ。鉄は防錆加工が施され、一段盛り上がったふちの部分には金があしらわれている。1600年頃、ヴィルヘルム5世の義兄弟であるフェルディナント・フォン・チロル(Ferdinand von Tirol)大公の有名な《英雄の防具博物館》に展示されることとなった。

1585年のユーリッヒ=クレーフェ=ベルク伯ヨハン・ヴィルヘルムとヤコベ・フォン・バーデンの結婚式の様子。(文章)ディートリッヒ・グラミナエウス(Dietrich Graminaeus)と(銅版画)フランツ・ホーゲンベルク(Franz Hogenberg)作。ケルン、1587年の作。エッセン、ホーゲンポエト城(Schloss Hogenpoet)蔵。

絵が添えられた説明文では、結婚式のハイライトが描写されている。欧州のハイランクの貴族や土着の貴族が参加した。夕方には、ライン川で神話をモチーフにした花火が上げられた。

聖パトロクルス(St.Patroklus)、ゾーストの守護聖人。ゾースト、1449年。ゾースト市美術館。

パトロクルスは、強力なハンザ都市であるゾーストに、武装した戦士として、剣を掲げた姿で描かれている。この像は、北ドイツにみられるローランド像のように、町の貴族の誇りをもたらしている。

フレーンデンベルク(Fröndenberg)の参事会教会の聖マウリティウス(St.Mauritius)。ヴェストファーレン、1430年頃の作。フレーンベルクとバウゼンハーゲン(Bausenhagen)の福音協会蔵。

ローマの殉教者マウリティウスは、400年頃から聖人として奉られている。彼の名前から、しばしば黒人(ムーア人)として描かれる。マルク伯の埋葬地があったフレーンデンベルクのシトー会修道院に捧げられた。

ボーデルシュヴィン城(Bodelschwingh)の基礎柱。ボーデンフント、1300年頃。ドルトムントのツー・クニプハウゼン(Zu Knyphausen)一族所蔵。

沼地の為、エムシャー(Emscher)地域の城には、オーク材の柱が使用された。この基礎柱は、1300年頃に建てられたボーデルシュヴィン城の前身のために用いられた。地下室の低層で発見された。

クレーフェの町を背景にしたクレーフェ=マルク家の6人の公爵。1650年頃の作。ハム(Hamm)のグスタフ・リュプケ(Gustav Lübcke)博物館蔵。

おそらく、クレーフェ=マルクの領主が、様々な市庁舎の壁に飾られていたこの絵の発注者であったと考えられる。彼らは、この絵で公爵たちの良い関係を見せつけ、新しい領主との区別を付けようとしていると考えられる。背景に描かれているのはクレーフェ城。

左から、アドルフ4世、ヨハン1世、ヨハン2世、ヨハン3世、ヴィルヘルム富裕公、ヨハン・ヴィルヘルム。

クレーフェ伯オットー(Otto von Kleve)とマルクのアデルハイド(Adelheid von der Mark)。15世紀中頃。アルテナ城博物館蔵(Museen Burg Altena)。

オットー・フォン・クレーフェとアデルハイド・フォン・デア・マルクは、跪き、剣と聖書を持った姿で、紋章とともに描かれている。この結婚は、両者がこの地方に影響力のある一族を結んだという点で、政治的にも重要であった。

ユーリッヒ=クレーフェ=ベルク伯(ゲルデルン公国)公ヴィルヘルム5世。ハインリッヒ・アルデグレーヴァー(Heinrich Aldegrever)作。(詩)エオバヌス・ヘスス(Eobanus Hessus)。1540年、ゾースト市。アルバイツグルッペ博物館(Arbeitsgruppe Museen)

1539年、ヴィルヘルム5世は、人文主義者たちからその統治能力の欠如に対する準備をされていた。フランス王の姪であるジャン・ダルベルト(Jeanne d’Albert)とのお見合いの為に描かれたこの絵では、ヴィルヘルムはゲルデルン公として描かれている。

1543年の《フェンロ―の敗北》(Der Kniefall von Venlo)。ディルク・フォルケルツ(Dirk Volkertsz)作。(銅版画)コルンヘルト(Coornhert)作。1556年作。クレーフェ・クアハウス博物館(Kurhaus Kleve)蔵。

1538年、ゲルデルン領主ヴィルヘルム5世は、その公爵に選ばれた。しかし、それにより皇帝カール5世との戦争に至り、ヴィルヘルム5世は敗北。ゲルデルン公国を諦めるとともに、カトリック信仰を強制させられた。

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