プロイセンの兵隊王 | フリードリッヒ・ヴィルヘルム1世

ポツダム

冬の冷たい光が差し込むベルリンの街角を歩くと、石畳の広場には整然と並ぶ兵舎や学校、質素な宮殿の列が続き、遠くには要塞や市庁舎の威厳ある姿が見える。空気には鉄と石の匂いが混ざり、城門の向こうには、忙しく行き交う役人や兵士たちの足音が響く。通りを進むごとに、秩序と規律が息づく都市の脈動を肌で感じることができる——ここは、若き王フリードリッヒ・ヴィルヘルム1世(Friedrich Wilhelm I.)の意志と手腕が形を成した都市なのだ。

移民受け入れと富国強兵

ベルリンの冬の空は灰色に覆われ、街の屋根に差し込む光もどこか冷たく、石造りの宮殿の窓からは、整然と並ぶ兵舎や学校、要塞の列が遠くまで続いている。1713年2月25日、この国の王位にまだ若くして就いたフリードリッヒ・ヴィルヘルム1世(Friedrich Wilhelm I.)は、そんな都市の景色を背に、自らの国家を「会計士兼元帥」として支配する日々を始めた。無機質に散在するプロイセンの領地を、ライン川左岸のクレーフェからリトアニアのメーメルまで、まるで一つの有機体のように統べるためには、王自身の規律と情熱が欠かせなかった。

フリードリッヒは権力のために宮廷の華やかさをあえて捨て、国家の隅々に至るまで実務的な管理を徹底した。わずか数年の間に、未開発の輸入国であったプロイセンは輸出国へと姿を変えた。税率は高く、厳格な規制も多かったが、その代わり、王国は国民に補助金や教育の機会を惜しみなく与えた。1717年には5歳から12歳までの義務教育を宣言し、1732年には故郷を追われたザルツブルクの25,000人のプロテスタント移民を東プロイセンに迎え入れ、旅費や農具、種子までも支給した。国家が求めたのは人口そのものではなく、労働者と生産者、国家に奉仕する者たちであった。その厳しさは、1725年にジプシーを国境で逮捕した際、「容赦なく絞首台で処罰する」と命じたことに象徴される。

都市の建物も、王の信念を映し出していた。フリードリヒシュタット(Friedrichstadt)に建つ貴族の宮殿を除けば、国が建設したのは兵舎、要塞、市庁舎、学校、病院、救貧院——どれも質素で経済的であり、君主自身の姿勢をそのまま映していた。王室の食卓も同様で、妻ソフィー・ドロテア(Sophie Dorothea)や宮廷の取り巻きが頭を抱えるほど、彼はベーコンとエンドウ豆、目玉焼き、白菜と臓物を添えた「農民料理」を好んで口にした。

「兵隊王」の名が示す通り、彼の情熱は軍隊に向けられていた。40,000人だった軍隊は81,000人に増強され、常に制服を身にまとい、戦略と規律を自らの目で確認した。1715年のシュトラールズント占領では、軍隊を派遣して仮想敵国を恫喝するだけで十分と考え、外交的な圧力を戦略として使いこなした。「私をそっとしておけば、私はじっと座っている。しかし牙をむく者には、私もまた牙をむくだろう」と、彼は冷静に言い放った。

フリードリッヒの執務スタイル

若い頃すでに、フリードリッヒは、自分の健康も他人の健康も考慮しない厳格な執務スタイルを考案しており、部下は全員、彼と共に終日行動することを要求された。 一日の労働時間が10時間を下回ることはなく、彼の期待と要求に満たない部下の働きに対しては怒りを隠そうともしなかったという。フリードリッヒは仕事の遅い役人たちをたびたび脅してでも仕事に集中させ、従わない者は、大臣であっても自身の子供であっても、鞭で打擲することをためらうことはなかった。

軍人としての尊敬を国家全体に広げるため、1717年には士官候補生学校を設立し、地元の貴族に国家への奉仕と義務を教育した。彼自身の一日は厳格で、部下は終日、王の行動とリズムに合わせて動くことが求められた。「諸君は私の笛に合わせて踊るのだ。さもなければ、悪魔が私を連れ去りに来る」と言い放つその苛烈さは、秩序、組織力、時間厳守、徹底を国家の最優先事項とし、プロイセン国家の美徳を生み出した。

王としての冷徹さと厳格さの裏で、フリードリッヒ・ヴィルヘルムは、後に「大王」と呼ばれることとなる息子フリードリヒ2世に12項目の政治的遺言を残した。その中心には、「自分自身が敬虔で純粋な生活を送り、国家と軍隊に模範を示す」という一貫した信念があった。そして最後に、兵隊王らしい言葉を添える——
「この世界で王として名誉ある統治を行おうとする者は、自分のことはすべて自分で行うべきである。」

この言葉は、王自身の生き方を象徴すると同時に、プロイセンという国を形成した苛烈で厳密な秩序の精神そのものでもあった。苛烈で、時に残酷で、しかし徹底した規律と覚悟によって国を形作った「兵隊王」の影は、石造りの宮殿や兵舎の列の間に今も息づいている。王の厳格さと冷徹さは、単なる個人の性格ではなく、プロイセンという国家の骨格そのものであり、ベルリンの宮殿と兵舎の影には、プロイセンという国の運命が静かに、しかし確実に刻まれている——その秩序と覚悟の力は、やがて歴史の波を越え、世界にその名を響かせるのである。

参考:

welt.de, “Der Soldatenkönig prügelte seine Beamten zur Arbeit”, 25.02.2013, Jan von Flocken, https://www.welt.de/geschichte/article113882412/Der-Soldatenkoenig-pruegelte-seine-Beamten-zur-Arbeit.html

コメント

タイトルとURLをコピーしました