嘲笑された貧乏皇帝

シュパイヤー

中世には、帝国自由都市として、シュパイアーはドイツ国家の神聖ローマ帝国の最も重要な都市の1つであった。シュパイアーを有名にしている大聖堂は、現存する世界最大のロマネスク様式の教会であり、1981年以来ユネスコの世界遺産に登録されている。

Speyer. Foto (c): Udo Geisler

1030年には、当時の神聖ローマ皇帝であるコンラート2世によって、シュパイアー大聖堂の建設が始められた。宗教改革に際しては、1526年にこの地で帝国議会が開催され、これが第1回シュパイアー帝国議会である。結論はルター派に有利なもので、事実上各領邦に宗派の選択権を認める内容であった。しかし、1529年に開かれた第2回シュパイアー帝国議会では、こうした諸権利が再び否定され、新教派諸侯の猛抗議を招いた。これが「プロテスタント」の語源とされる。

大聖堂内には、建設を始めた皇帝コンラート2世らが埋葬されている。のちには、さらに7人のローマ皇帝、ローマ王たちやその妻の幾人か、そして多くの僧侶たちが葬られた。ここに埋葬されている人物の一人が、神聖ローマ皇帝ルドルフ・フォン・ハプスブルクだ。

この一見冴えない男については、ローマ教皇と選帝侯も誤解していたのだろう。 1273年10月1日、ハプスブルク家のルドルフ1世(1218〜 1291年)がフランクフルト・アム・マインでローマ王とドイツの王に選出されたとき、ルドルフはせいぜい移行期の男と見なされていた。すでに齢55歳に達していたルドルフは、王室に属していなかったことは言うまでもなく、帝国貴族としてもとても一流には属していなかった。ルドルフが属するハプスブルク家はまだなんらメリットを得ておらず、帝国貴族のライバルたちが、「貧しい伯爵」と揶揄して嘲笑するほどだった。

ルドルフは当時まだ伯爵だった。ハプスブルク家は、スイスのアールガウにある先祖代々の家から発し、10世紀からライン川の両側にいくつかの土地を取得、後にホーエンシュタウフェン朝に仕えた。 ホーエンシュタウフェン朝崩壊後のいわゆる「大空位時代」では、ルドルフは一族の力を高めることに成功し、ドイツ南西部で最も実力のある支配者となったのだった。それでも教皇グレゴリウス10世から見れば、彼は無害な候補者であり、皇帝選挙に際しては自身の拒否権を行使しなかった。選帝侯のなかで唯一投票結果に異を唱えたのが、ボヘミア王オタカル2世である。

オタカル2世

ルドルフ1世(1218-1291)は、ルドルフ・フォン・ハプスブルクとして知られ、同家のアルブレヒト4世伯の息子であり、1239年に父親が亡くなった後、後を継いで伯爵となった。彼の名付け親は、皇帝フリードリヒ2世であり、ルドルフも頻繁に宮廷を訪れていた。ルドルフは、 皇帝フリードリヒ2世 の死後、1273年にドイツ王に選出され、神聖ローマ帝国を大混乱に陥れた大空位時代を終わらせた。ルドルフは、新たに十字軍を立ち上げることを教皇に約束し、ローマ教皇領とシチリアに対するすべての帝国権利を放棄することで、教皇の承認を得たのだった。皇帝となったルドルフの最初の敵は、ルドルフをドイツの王として認めることを拒否したボヘミアのオタカル2世であった。 1276年、ルドルフは、オタカルに対して宣戦布告を行った。

フリードリッヒ2世

プシェミスル家のオタカルには、皇帝に盾突く理由がいくつかあった。オタカルの階級、所有する土地の規模や財力は、ルドルフよりもはるかに優っていた。そのため、オタカルは皇帝に服従することを拒否し、ボヘミアとその近隣諸国だけでなくオーストリアの大部分を含む、自身の王国で防衛を固めることにした。

しかし、オタカルは、貧乏な弱小貴族に過ぎないルドルフが、賢明な政治的判断と大胆さを持ち合わせるとは微塵も思っていなかった。確かにルドルフには財力には劣っていたが、これから数百年にわたって彼の王朝を特徴づける「財産」を持っていた。それは自身の子孫である。戴冠式の日に、ルドルフは2人の娘をバイエルン公国とザクセン公国に嫁がせ、それによって自身の権力基盤を大幅に拡大した。それで彼は彼の王権の最も差し迫った仕事に着手した。それは、大空位時代の混乱のなかで著しく損なわれた国の平和と帝国の権威、これらを回復させることであった。


そうすることで、ルドルフは積極的に味方となる同盟先を探した。歴史家は、ルドルフが発行した文書の28パーセントが、都市のために発行されたと試算した。都市特権を与えた場所は、ルドルフにとって最も重要な居住地であり、ルドルフの財源となっていたが、ルドルフがさらに北へは行かなかったため、ライン川とテューリンゲンの間だけであった。しかし、それでも、ルドルフは神聖ローマ帝国で長い間失われていた平和を勝ち取ったのだった。

失われた帝国の権利を取り戻すことを目的とした政策は、必然的にオタカルとの紛争を悪化させたのだった。ルドルフは、1246年に消滅したオーストリアのバーベンベルク家の所有地を引き継ぐため、シュタウフェン朝の崩壊を利用した。ルドルフは、長男アルブレヒトをゲルツチロル伯爵の娘と結婚させることで、権力基盤を拡大したのだった。逆に、国王の帝国財産政策については、ルドルフの財政基盤拡大を恐れた多くの諸侯をボヘミア側へと追いやったのだった。

1276年、ルドルフは軍を引き連れて、突如としてオーストリアに現れ、地元の貴族たちを連れていったのだった。オトカルは、ウィーンでルドルフに服従を誓い、ボヘミアとモラビア以外の、オーストリア、シュタイヤ―マルク(Steiermark)、ケルンテン(Kärnten)、クライン( Krain)、エガーラント(Egerland)といった領土を放棄するしかなかった。

しかし、オタカルにとってこれはせいぜい停戦程度のものだった。 オタカルは、シレジアで諸侯の支持を得た後、プシェミスル朝は1278年の夏に攻撃を開始した。ルドルフは、ほとんどの諸侯たちに置き去りにされたことに気づいた。諸侯たちは、ルドルフがの帝位の回復に成功したとは思っていなかったようでだ。

諸侯の支援を得られなかったルドルフは、もう一度、ハンガリーのラディスラウス4世と同盟を結び、オタカル軍を兵力の上で凌駕した。 1278年8月26日、両軍は、ウィーン北東部のデュルンクルート(Dürnkrut)とイェーデンシュパイゲン(Jedenspeigen)の間のマルヒフェルト(Marchfeld)で戦いに挑んだ。

オタカル軍はあらゆる切り札を手にしていた。 ルドルフ軍の4,500人の装甲騎士を上回る、約6,500の重装騎士を擁していた。さらに、オタカルは後方にも4,000人のハンガリー軍軽装騎兵を準備しており、その側面を数千人の歩兵が固めていた。この戦いの初戦は中世史に残る一大決戦となった。しかし、戦闘が始まってみると、オタカル軍の歩兵は野営地を守るのに精いっぱいで、戦闘はほとんど騎兵同士によって行われた。

軍事面でも、ルドルフは自身の能力を証明した。オタカル同様、ルドルフも騎士を3段階に配置したが、伝統的な戦法にはこだわらず、自軍の最強の部隊を丘の後ろに隠すように配置したのだった。ルドルフは、自軍から一団を選別すると、彼らを自軍の左翼へと延びるブドウ畑に忍ばせた。彼らは命令と同時に敵を側面から襲撃する手はずだった。ところが、この任務の指揮官を務めるウルリッヒ・フォン・カペレン(Ulrich von Kapellen)を説得するのは、ルドルフにとっても簡単ではなかったという。このような戦法は、騎士道の規範からは外れており、騎士にとって不名誉なことで、キリスト教的な価値観の上でも受け入れられるものではなかった。これは、ハンガリー人が、オタカルの騎士を弓矢やボーガンで次々と射抜いた攻撃にも当てはまった。

マルヒフェルトの戦い(Julius Schnorr von Carolsfeld、1994)

ルドルフ軍が、奇襲攻撃を開始した時、勝利はほぼ確実であるかのように見えた。しかし、戦闘が進むにつれて、ルドルフ軍も敵の猛攻を受け、ルドルフの騎乗する馬も攻撃を受けた。ルドルフは強い精神力で戦闘を続けたが、その時に隠してあったカぺレン率いる別働隊が、ボヘミア軍を急襲。予想しなかった攻撃に敵は防衛もままならず、ボヘミア軍はわずか数千人まで兵力を減らされたのだった。

戦争で捉えた敵軍兵を捕虜として捕らえても、後々身代金と交換で、解放せざるを得ない。どうもルドルフは、この考えを嫌い、捕虜を連れて帰らない決定を下した。オタカルが、逃亡を図って、オーストリア兵に殺された理由の説明もそこにあるのだろう。

このマルヒフェルトの戦いですべてが決した。オタカルの跡継ぎである息子のウェンゼル2世は、ルドルフのもう1人の娘を妻として迎え、一方で自身の息子のアルブレヒトとルドルフには、オーストリアの州を封土した。 これは支配地の中心をライン川南東に移し、後のハプスブルク帝国版図の基礎を築いた。 しかし、ルドルフが神聖ローマ皇帝に戴冠されることはなかった。

ルドルフは最終的に神聖ローマ帝国全体の内部平和を回復することに完全に成功したわけではなく、諸侯たちに任せて、帝国領土内に平和を維持する力、財源、決意を欠いていた。ルドルフは1291年に亡くなり、強力なハプスブルク王朝を樹立しましたが、息子の アルブレヒト にドイツ王の地位を継承させることはできなかった。皇帝の地位は、ハプスブルク家を離れ、しばらく他家へと移る。しかし、ルドルフの敷いた結婚政策、帝国統治政策は、同家出身ののちの支配者に受け継がれ、数百年もの間、神聖ローマ帝国皇帝の地位を独占するのであった。

シュパイヤー大聖堂に眠るルドルフ1世

参考:

welt.de, “Ganz unritterlich begründeten die Habsburger ihre Macht”, Berthold Seewald, 26.08.2020, https://www.welt.de/geschichte/article214280656/Marchfeld-1278-Habsburger-siegten-mit-unritterlichem-Trick.html

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