強盗騎士団と新任の選帝侯

タンガーミュンデ

ベルリンから西に120キロ。タンガーミュンデ(Tangermünde)という小さな町がある。現在ではザクセン=アンハルト州に属する、エルベ川沿いの町だ。以前はハンザ同盟に加盟していたこともある。 タンガーミュンデ 城の前にある広場には、神聖ローマ皇帝カール4世の銅像と、もう一人の男の像がエルベ川に向かって建てられている。これは、ホーエンツォレルン家から初めてブランデンブルク選帝侯となったフリードリッヒ1世の像だ。

タンガーミュンデ 城 (Source:tourismus-tangermuende.de)

1415年4月30日はコンスタンツ公会議のハイライトだった。皇帝シークムント(Sigmund)は、ニュルンベルク城伯フリードリッヒ6世(Friedrich VI. von Nürnberg)を歓迎した。ワシの紋章が描かれた帝国旗の下、フリードリッヒ6世はブランデンブルク選帝侯及びブランデンブルク辺境伯としての封土と、帝国議会の議席を受領した。これがホーエンツ家台頭の始まりである。

フリードリッヒ6世

15世紀初頭、ブランデンブルク辺境伯領は無法地帯と化していた。地元の支配者の家族が亡くなったため、皇帝カール4世は、1361年に息子である「怠け者のヴェンツェル」(Wenzel der Faulen)に領土を譲ったのだが、無政府状態の中で支配をほしいままにしていた。公然と強盗を行う強盗騎士の一団は領土を横断し、都市間の取引をほぼ停止状態に追いやっていた。

ポンメルン(Pommern)地方の公爵たちは防衛施設の整っていない都市に対して戦争を仕掛け、マクデブルク大司教もラーテノー(Rathenow)において略奪を行った。1410年の秋、悪名高い騎士、ディートリッヒ・フォン・キッツォウ(Dietrich von Quitzow)が私闘の訴えを行うことなく、不意にベルリンに攻撃をしかけたばかりか、町の一部に火を放ったとき、市民の不満は最高潮に達したのだった。

辺境伯ヨブストが1411年初頭に亡くなった後、ブランデンブルクは一旦、皇帝シグムンドの所領へと戻った。この地域一帯の状況が混乱していることは皇帝の目にも明らかだった。この状況を鑑みて、1411年7月8日、皇帝は、ニュルンベルク城伯フリードリッヒ6世をこの地の領主に任命したのだった。

齢40歳を迎えたフリードリヒは、政治的および軍事的に非常に有能だった。 1396年には、バルカン半島におけるトルコ人との戦いで皇帝シグムンドを支援していた。フリードリッヒが1412年6月にブランデンブルクにやって来たとき、ベルリン、ケルン(Cölln)、シュパンダウ(Spandau)の各都市は彼を救世主として歓迎した。もちろん、土着の貴族はフリードリヒの受け入れを認めるどころか、ただただ嘲笑するだけだった。アルトマルク地方の貴族の領袖であるカスパー・ガンス・ツー・プトゥリッツ(Kaspar Gans zu Putlitz)は、フリードリッヒを「ニュルンベルクの小物(Nürnberger Tand)」と呼んだ。ディートリッヒ・フォン・キッツォウは「ニュルンベルクに1年間雨が降り続けたとしても、 アルトマルク に来るべきではなかった」言い放った。(アルトマルクとは、現在のザクセン=アンハルト州の北部地域にあたる)


当初、騎士フリードリヒ・フォン・ホーエンツォレルンは戦場で彼らに対峙したが、1412年10月にクレメナーダムの戦い(Die Schlacht am Kremmener Damm)でひどく打ち負かされた。ポンメルン側には、オットー2世公爵とポンメルン=シュテッティン家のカシミール5世(Kasimir V. von Pommern-Stettin)、ブランデンブルク側には、フリードリッヒ1世とフランケン地方の騎士たちであった。この戦闘において、フリードリッヒ1世は、味方であるフィリップ・フォン・ウテンホ―ヴェン(Philipp von Utenhoven)とヨハネス・フォン・ホーエンローエ (Graf Johannes von Hohenlohe)を失った。二人の遺体は、ベルリンのフランシスコ会修道院教会に埋葬された。 フォン・ホーエンローエ伯爵はフリードリッヒにに非常に近かった為、フリードリッヒはホーエンローエ伯爵が倒れた場所に十字架を立てたのだった。 この十字架は後世に何度か修復され 今日でもクレンマーに残っている。

クレメナーダム に建てられた十字架

この敗戦により、フリードリッヒ1世側は劣勢に陥った。人々から恐れられていた強盗男爵であるマルティッツ(Maltitz)の領主は、不注意によってトレッビン要塞(Feste Trebbin)を失ったのだが、フリーザック(Friesack)、プラウエ(Plaue)、ビューテン(Beuthen)などの他の城については、征服は容易ではなかった。特に、5メートルの厚さの壁を誇る要塞プラウエは難攻不落と見なされていた。

しかし、ホーエンツォレルン側は軍隊だけでなく、辺境伯領ではそれまで知られていなかった武器、大砲を持っており、火薬を積んだ巨大な石の玉を次々と敵方に向けて撃ちこんだ。巨大な大砲は、機動性が低いことから「怠け者のグレーテ」(Faule Grete)と名付けられた。

「怠け者のグレーテ」(Faule Grete)

こういった新兵器を用いながら、フリードリヒは敵の城をひとつひとつ攻略し、廃墟としていった。 1414年2月、フリーザック(Friesack)が征服された後、ゴルッツォフ(Golzow)が続いた。捕らえられたゴルッツォフの領主ハンス・フォン・ロチョウは、懺悔服を着せられ、首にロープを巻かれた状態でフリードリッヒに慈悲を求めた。ついに、 キッツォウ の主城である プラウエ要塞 も陥落させられたのだった。

フリードリッヒ1世に屈し、跪く ディートリッヒ・フォン・キッツォウ (Source:tagesspiel.de)

1414年3月20日、フリードリヒはタンガーミュンデの州議会で反対勢力に対して法廷を開き、新しい和平命令を出した。 ヴェルナー・フォン・ホルツェンドルフ(Werner von Holtzendorff)やヨハン・フォン・ キッツォウ (Johann von Quitzow)のような強盗男爵は、財産の没収を宣言された。

秩序の回復がなった後、フリードリヒは1415年の初めにコンスタンツ公会議に参加し、その場で皇帝は彼の奉仕に感謝してブランデンブルクの選帝侯位と辺境伯位を与えた。

1415年7月6日、この公会議中に、異端者とされたボヘミアの改革者ヤン・フスの裁判もコンスタンツで行われ、火あぶりとされたが、フリードリヒ・フォン・ホーエンツォレルンは、当時、チロル地方で対立教皇ヨハネ23世を捜索し、彼を捕らえる任についていた為、フスの処刑には直接関与していなかった。

1417年、コンスタンツにおいて、皇帝は枢機卿によるコンクラーベを軍事保護下に置き、11月11日にオッド・ディ・コロンナ(Oddo di Colonna)を新教皇マルティヌス5世に選出し、キリスト教会のシスマ(大分裂)に終止符を打ったのだった。

新教皇マルティヌス5世

公会議終了の後、フリードリヒ1世はブランデンブルクへと戻った。ブランデンブルクでは未だフリードリッヒの支配が完全に確立されていないと判断したポーランドとドイツの軍隊は、1420年の初めにポンメルン公爵カシミール5世(Kasimir von Pommern)指揮のもと、辺境伯領に進軍した。選帝侯フリードリッヒ1世は、以前の敵であるカスパー・ガンス・ツー・ プトゥリッツ の援軍を得て、1420年3月27日にアンガーミュンデ(Angermünde)近くでカシミールの軍隊を打倒。こうしてホーエンツォレルン家のフリードリッヒ1世が、ブランデンブルクの地の支配体制を固めたことにより、ホーエンツォレルンとブランデンブルクは不可分の存在となったのだった。1415年10月21日、ベルリンの議会でブランデンブルクの貴族たちはフリードリッヒに忠誠を誓ったのだった。

参考:

welt.de, “Ein Hohenzoller bändigt die Raubritter”, 21.09.2007, Jan von Flocken, https://www.welt.de/kultur/history/article1202229/Ein-Hohenzoller-baendigt-die-Raubritter.html

tagesspiegel.de, “Frieden dank Kurfürst Friedrich”, 17.04.2017, ANDREAS CONRAD, https://www.tagesspiegel.de/conrad-andreas/4457640.html

tagesspiegel.de, “Die Quitzows verfolgen die Spur ihrer Ahnen”, 02.08.2014, TORSTEN HAMPEL, https://www.tagesspiegel.de/themen/reportage/berliner-traditionsfamilien-die-quitzows-verfolgen-die-spur-ihrer-ahnen/10283002.html

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