市長になった強盗騎士

リンブルク

【ハットシュタイン噴水】

リンブルクにはプレッツェ(Plötze)と呼ばれる広場がある。このプレッツェ広場は、もともとのプライチュヒェン(Pleitzchen)という名前ではすでに1339年に文献に見られる古くからある場所だ。第二次世界大戦での爆撃で被害を受けた家屋を取り壊し、現在のような広場となった。グラーベン通り(Grabenstraße)へ出る方角には、かつての市門であったディーツァー門(Diezer Tor)が城壁とともに建っていたが、1871年に取り壊されている。

このプレッツェ広場には、【酔っ払いの噴水】(Säuferbrunnen)と呼ばれている、おもしろい形をした噴水が建っている。大男が頭上に抱えた樽から直接ワインがぶ飲みしている。この像のモデルは、フリードリッヒ・フォン・ハットシュタイン(Friedrich von Hattstein)という男だ。これは20世紀の彫刻家カール・マテウス・ウィンター(Karl Matthäus Winter)によって赤い砂岩から作られた。噴水の裏側には、モデルとなった男の運命を簡潔に説明した小さな碑文がある。

プレッツェ広場(Plötze)にある
ハットシュタインの銅像

リンブルクの南東30キロほどのところに、ハットシュタイン城の城跡が残っている。この城がいつ建てられたのか正確にはわかっていないが、1156年の「ヴァルスドルフ創設証明書」(Walsdorfer Gründungsurkunde)には、おそらくそこの城の領主であったと思われる人物の記載がある。かつて、この城に住んでいたのが、フリードリッヒ・フォン・ハットシュタインだ。

ジークフリード・フォン・ラインベルク(Siegfried von Rheinberg)がアイヒェルバッハの城で結婚式を開いたのは1353年のことだった。根城であるハットシュタイン城で強盗騎士フリードリヒ・フォン・ハットスタインは、この機会を利用して名を上げようと考えていた。夜、霧の立ち込めるなか、ハットシュタインは数人の男と城を出発し、結婚式の饗宴を襲撃したのだった。花婿のジークフリード・フォン・ラインベルクは秘密の出口を使ってかろうじて脱出に成功したのだった。

リンブルクとフランクフルトの間には、商人が往来していたレン通り(Rennstraße)という大通りがあったが、ハットシュタインの住むアイヒェルバッハの城から近く、一団が略奪を繰り返したので、この大切な商業道さえも放棄せざるを得なくなった。道はすぐにひと気がなくなり、雑草に覆われて牧草地のように廃れてしまったのだった。強盗騎士団の被害にあっていた市民や農民たちは困り果てていた。ここでリンブルク市は、一計を案じる。この強盗団の首領である男に市長職を与え、町を守らせようとしたのだ。周辺の町や村に対する被害を食い止めようという案を出した。強盗三昧の生活を送っていたフリードリッヒはそんなオファーを受けるはずもなかった。

1357年、聖ヨハネの日に、フリードリッヒ・フォン・ハットスタインはリンブルグを訪問するため、強奪して新しい居城にしていたアイヒェルバッハの城を離れることとあった。そのニュースを耳にした男が、フリードリッヒに城を追い出されたジークフリード・フォン・ラインベルクに事の次第を報告したのだった。ジークフリードは同盟を結んでいた騎士の一団とアイヒェルバッハの城を攻撃し、城を再び取り返すことに成功した。

そうとは知らず、リンブルクを訪れていたハットシュタインは、市長職に就く報酬として提示された32ゴールドギルダーの提案を一蹴した。リンブルク市民を散々に侮辱して、自身の根城に戻ろうと引き返した。もうすぐで城に到着するというところで、ハットシュタインは自分の城で働いていた使用人に出くわす。使用人は、ハットシュタインの留守中、城が敵方に襲われ、強奪されたこと、仲間が全員殺されたことなど一部始終を伝えた。話を聞き終えたハットシュタインは、颯爽と馬でリンブルクまで取って返し、先ほど断った市長職を受けると宣言したのだった。

城を追われたフリードリヒ・フォン・ハットスタインには、市長になる以外の選択肢はなかった。これまで散々に悪行を重ねた、かつての強盗騎士はわずがな給与で町を守ることになったのだ。こういった滑稽な取引が成立した背景には、貨幣経済の発展による騎士階級の衰退と都市の台頭がある。フリードリッヒのような、もともとは高貴な家柄出の者でも、リンブルクのような都市が金の力で「購入」することができたのだった。市長となったフリードリヒ・フォン・ハットスタインは実際に強盗や盗賊から商人の馬車を守ったり、それなりに役目を果たしたそうだ。

フリードリヒ・フォン・ハットスタインの出身はハットシュタイン家である。この地方にはライフェンベルク家という貴族がいた。ともに12世紀頃に建てられたハットスタイン城とライフェンベルク城は、お互いにわずか1.5kmほどしか離れていなかった。領主はしかししばしば争いあうようになり、これが長年続く確執となっていく。両家の間には私闘が絶えなくなった。

市長となったフリードリッヒであったが、自身の出身ハットシュタイン家と長年対立していたライフェンベルク家との争いが再燃した時には、自ら戦闘に参加している。敵方の支配下にあった村を攻撃し、まだ眠っていた村人たちを残忍に殺戮したのだった。この襲撃に対して、ライフェンベルクの騎士たちは血を持って復讐することを誓い、ハットシュタイン家への攻撃を強めた。そしてとうとうフリードリヒ・フォン・ハットスタインの一団をリンブルクの城門まで追いつめたのだった。 1363年5月末、ここで激しい戦いが勃発。ついにライフェンベルク騎士団は市の司令官フリードリヒ・フォン・ハットシュタインを殺害したのだった。

その後もハットシュタイン家とライフェンベルク家の確執は続いた。 1428年から1435年まで「ハットシュタイナーによるフェーデ(私闘)」が絶え間なく続いていたが、1432年、ライフェンベルガーはフランクフルトとマインツ選帝侯と共にハットスタイン城をついに攻略し、占拠したのだった。フランクフルトとマインツが参加したことにより、ハットシュタイン城は1468年まで共同管理されることとなった。 1467年、城はウォルター・フォン・ライフェンベルク(Walter von Reifenberg)の手に落ち、破壊されたのだった。翌年、ハットシュタイン家はようやく城を取り戻したものの、破壊された城を再建するまでに30年を要したのだった。その為、城はますます維持が困難になり、徐々に荒廃していったのだった。

ハットシュタインの城跡

ハットシュタイン家という貴族に生まれながらも、強盗となって村々を荒らし、挙句の果てには市長となったフリードリッヒ・フォン・ハットシュタインの人生は注目に値するもであった。この波乱に富んだ人生を送った男の話を語り継ごうと、20世紀に入り「我、フリードリッヒ・ハインシュタイン」(Ich, Friedrich von Hattstein)という劇まで作られている。

リンブルク市の中央に建てられた銅像では、ハットシュタインは160リットルの大きな樽を持ち上げて、コルクの栓をする為にあけられた穴からワインを飲んでいる。これはハットシュタインが大酒飲みであったということではなく、樽を持ち上げるほどの力強さを表しているのだとう。この奇妙な経歴の市長を単に記念してのものではなく、一種皮肉めいた意味が込められているのはそのデザインを見ても明らかだ。実際の人物よりも大きく造られた記念碑は、市長が犬の上に立っているという奇妙な構図だけでなく、ベルトにかかった手錠とポケットに入った泥棒によって、権力者による暴力を表現しているのだという。

参考:

Unsere Nachbarn, “Die Herren von Hattstein”, Arnulf von Copperno, http://www.taurachsoft.at/bogensport/arnulf/artikel/nachbarn_hattsteiner.htm

Frankfurter Neue Presse, “Limburg: Der Raubritter, der Stadthauptmann wurde”, 15.07.2020, https://www.fnp.de/lokales/limburg-weilburg/limburg-ort511172/limburg-raubritter-stadthauptmann-wurde-13833838.html

feieraben.de, “Limburg-Stadtführung, Dom & Diözesanmuseum“, https://www.feierabend.de/Frankfurt-City/25-Berichte-ab-2016/01-Veranstaltungen-2016/03-Limburg-60260.htm

Limburg an der Lahn,”Plötze Limburg”, https://www.limburg.de/Rathaus-Leben/Anliegen-von-A-bis-Z/Pl%C3%B6tze-Limburg.php?object=tx,3252.832.1&ModID=6&FID=3252.1633.1&NavID=3252.133.1

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