王になった《猫背のフリッツ》| フリードリッヒ1世

ベルリン

シャルロッテンブルク城にある初代プロイセン国王像

ベルリンに位置するシャルロッテンブルク。その南西の角に聳える彫像は初代プロイセン国王フリードリッヒ1世である。

シャルロッテンブルク(Source:wikipedia.de)
初代プロイセン国王フリードリッヒ1世(wikipedia.de)

1701年5月6日、ベルリン市民はまるで戦争から凱旋してきたかのように王の一行を歓迎して迎えいれた。6頭引きの馬車63台を連ね、王は花で飾られた門を通り、橋を越え宮殿へと向かった。 馬車に乗っていたのは、つい4か月前までブランデンブルク選帝侯であったフリードリヒ3世である。プロイセンの首都であるケーニヒスベルクで、フリードリッヒは初代プロイセン国王に戴冠したのだ。


17世紀の終わり、ブランデンブルク辺境伯領は11万平方キロメートルもの広大な領土を所有していた。日本に当てはめると、北海道、青森、秋田、岩手を足したほどと面積である。その広大な領土はライン川下流から東プロイセンまで広がっており、150万人の住民も、統一された領土の領民というよりも、自分たちをポンメルン、辺境伯領、ラインラント、またはヴェストファーレンの出身だと考えていた。

1688年、父の逝去に伴い、フリードリヒ3世はプロイセン選帝侯位に就き、自身の政治的野心をこの国家統一へと集中させた。ある意味、彼は全領土を包括するものを探していた。ハノーバー出身の非常に知的な王女である妻ゾフィー・シャーロット(Sophie Charlotte)と共に、彼は王国としての尊厳を確立しようと躍起になっていた。

ゾフィー・シャーロット(Source:wikipedia.de)


国王になりたいという野心には、フリードリッヒの虚栄心が関係していた。フリードリヒは、出産直後に助産師によって誤って床に落とされるという経験をしていたため、生涯にわたり肩に障害が残ってしまった。当時から、口さがないベルリン市民は、フリードリッヒを「猫背の(傾いた)フリッツ」(Schiefen Fritz)と呼んでいた。そして、この時代の多くの君主と同様、絶対王政を体現したフランスのルイ14世に憧れを抱いていた。

この身体に障害を抱えていた王子は、素晴らしい考えを持っていた。ドイツ帝国にはハプスブルク皇帝以外に他の王が存在しなかった。つまり王位を望む者は、国外に領土を見つけなければならなかった。ザクセン選帝侯であったアウグスト2世は、1697年にポーランド・リトアニア共和国の国王となっている。 1609年、フリードリッヒはプロイセン公国(後の東プロイセン)を継承し、ブランデンブルクの地へとやってきた。この国はドイツ帝国に属しておらず、王位を宣言するのにふさわしい場所であった。
しかし、この措置については、当然、ウィーンにいる皇帝の承認が必要であった。レオポルト1世からその承認を得るのは容易ではなかったが、1700年、フリードリッヒに千載一遇のチャンスが巡ってきた。この年、スペイン継承戦争が勃発し、帝国軍は救援を必要としていたのだ。ブランデンブルクはこの状況を巧みに利用した。フリードリッヒはレオポルドに8,000名の兵士と武器を提供し、将来の皇帝選挙では常にハプスブルク家に投票することを約束。その見返りに、ウィーンは年間15万グルデンの支払いと、フリードリッヒのプロイセン国王への戴冠を認めることとなったのだった。その為、この一連の取り決めは《王冠条約》と呼ばれる。

神聖ローマ皇帝レオポルド1世(Source:wikipeda.de)

お膳立ては整い、今となっては戴冠の邪魔になるものは何もなかった。フリードリッヒは皇帝から「都合のいい時にいつでも」と王位を宣言する許可を得ることができた。 1700年11月末、ベルリンからプロイセンの首都ケーニヒスベルクに向けて長距離列車が発車した。 1701年1月17日、当時まだ選帝侯であったフリードリッヒに帝国の最高章として黒鷲の紋章が授与され、《プロイセンの王》(König in Preußen)という称号が与えられた。

戴冠式の祝祭は1月18日に行われた。フリードリヒ自身も式典の立案に加わった。金で刺繍されたドレスを纏った楽団が率いる宮廷役人と騎士によるパレードから始まった。列車は途中5回停車し、プロイセンの王国への昇格を高らかに発表した。


彼の王権を全世界に示す為、フリードリヒはケーニヒスベルク宮殿の大広間で、まず自身の頭に王冠を置き、次に彼の妻ソフィー・シャーロットを戴冠させ、それから2人のプロテスタント司教によって油を注がれた。それ以来、人々は「王立科学アカデミー」や「王立プロイセン軍」という呼称を用い、政府と当局の施設は「王立」と呼ばれるようになった。

フリードリッヒ3世の戴冠式 (Source:wikiwand.de)

プロイセンの王国への昇格により、フリードリヒ1世は、自身が収める国の政治的重要性を押し上げることに成功した。フリードリッヒは優柔不断な性格であったと伝えられ、名君と呼ばれるような君主にはなれなかった。しかし、プロイセンの統一国家の礎を築いたのは、間違いなくフリードリッヒであり、彼の孫の時代には、プロイセンは押しも押されぬヨーロッパの列強の仲間入りを果たすのである。《プロイセンの王》という称号を冠したフリードリッヒの孫にあたる、後のフリードリヒ大王は、1772年の第一回ポーランド分割後、正式に《プロイセン王》と呼ばれるのである。

参考:

welt.de, “Der Meisterstreich des Schiefen Fritz”, 20.07.2007, Jan von Flocken, https://www.welt.de/kultur/history/article1041927/Der-Meisterstreich-des-Schiefen-Fritz.html#:~:text=Friedrich%20wurde%20gleich%20nach%20seiner,F%C3%BCrst%20hatte%20eine%20geniale%20Idee.

maximini.eu, “Der schiefe Fritz  – erster preußischer König von 1701 bis 1713”, Januar 2021, Katja Maximini, https://maximini.eu/der-schiefe-fritz/

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