英雄を産んだ町娘 

レーゲンスブルク

【ゴールデネス・クロイツ】

レーゲンスブルクの旧市庁舎前には、高さ6メートルのドン・ファン・ダウストリア(Don Juan D’austria)の記念碑がある。オスマントルコに対して圧倒的な勝利を勝ち取った神聖ローマ帝国の英雄である。彼の母親、レーゲンスブルクの美しき市井の娘、バルバラ・ブロムベルク(Barbara Blomberg)が未婚でドン・ファン・ダウストリアを生んだとき、彼女には父親が誰であるか、はっきりとわかっていた。子供の父親は、他ならぬ神聖ローマ皇帝カール5世であった。

レーゲンスブルクの旧市街、ハイド広場(Haidplatz)に面した通りに、ホテル《ゴールデネス・クロイツ》(Goldenes Kreuz)がある。《黄金の十字架》と名付けられたこのホテルは、すでに16世紀には宿屋として使用され、貴族や外交官が宿泊したという。1530年頃、フェルディナント1世は、アーヘンでの戴冠式に出席する旅の途中でここに宿をとっている。神聖ローマ皇帝カール5世は、1532年から1541年までの帝国議会を含め、3度《ゴールデネス・クロイツ》に滞在している。1546年、この頃すでに妻イザベル(Isabel de Portugal y Aragón)を亡くしていたカール5世は、レーゲンスブルク帝国議会に出席するため、この町に滞在していた。そしてこの《ゴールデネス・クロイツ》で、美しき市井の娘バルバラ・ブロムベルクと出会い、束の間の恋を楽しんだのだった。

現在のホテル《ゴールデネス・クロイツ》 (Source: quermania.de)

1547年2月24日、バルバラは息子ヨハンを生む。皇帝は出生直後に私生児を容認し、母子の生活費も引き受けている。少年には父親が皇帝であることは知らされなかったが、1550年には母親から引き離され、ヨハンはスペインのレガネス(Leganes)で里親と一緒に暮らすようになった。

1557年、死期の近づいたカール5世とユステ修道院にて初めて面会している。翌年、カール5世が亡くなった時、皇帝は遺書のなかで、自身の息子であるフェリペ2世に異母兄弟の世話を頼んだのだった。フェリペ2世は父親の望みに従い、以前は秘密とされていた異母兄の存在を世間に公表した。ヨハンはこの時、ドン・ファン・ダウストリアという名前を与えられている。

皇帝カール5世との面会 / エドゥアルド・ロサレス作(Source:de.wikipedia.org)

ドン・ファン・ダウストリアは当初、神学の研究に専念し、将来は僧侶となるはずであった。しかし、彼自身は戦争の技術を学びたいという希望をもっており、異母兄のフェリペ2世も弟の戦争への熱意を尊重した。フェリペ2世は、弟に重要なポストを与え、1568年に地中海とアドリア海方面の将軍に任命した。

1571年、オスマントルコ打倒に向け、ドン・ファン・ダウストリアは、ローマ教皇ピウス5世からの推挙により、24歳という若さで神聖ローマ帝国艦隊の司令官となった。 1571年10月7日のレパントにおいて、ドン・ファン・ダウストリア率いる神聖ローマ艦隊はオスマン帝国に対して決定的な勝利を収めたのだった。この大規模な海戦は、地中海におけるオスマン帝国海軍の無敗神話が崩壊した瞬間であった。海洋におけるオスマン帝国覇権樹立の夢は、虚しくもレパントで潰えたのだった。

ドン・ファン・ダウストリア (Source:regensburg.de)

ドン・ファン・ダウストリアは、イスラム教に対するキリスト教の擁護者として、この世紀の海戦における華々しい勝利とその栄光を享受した。 1573年、彼はスペイン艦隊によりチュニス征服にも成功している。しかし、彼は健康上の不安を抱えており、1577年、兄フェリペ2世の要請で、ハプスブルク領オランダ総督に就任している。 1577年12月、深刻な病状に悩まされていたドン・ファン・ダウストリアであったが、プロテスタント軍を打ち負かすことに成功。 しかし、これが彼の最後の勝利となった。1578年10月1日、ドン・ファン・ダウストリアは現在のベルギーのナミュール(Namur)で31歳で亡くなっている。 死因は今日でもわかっておらず、毒殺であったかチフスによるものだったと推測されている。死後は、スペインで壮大な葬儀が執り行われ、その後エル・エスコリアル修道院に埋葬された。

エル・エスコリアルにあるドン・ファン・ダウストリアの霊廟 (Source:de.wikipedia.org)

私生児から神聖ローマ皇帝の不滅の大将軍へとのし上がったドン・ファン・ダウストリアを讃え、1978年、レーゲンスブルク市民は、旧市庁舎の隣のツィアーオルド広場(Zieroldsplatz)に彼の記念碑を建てた。ドン・ファン・ダウストリア所縁のホテル《ゴールデネス・クロイツ》は、三十年戦争が続く1633年11月、スウェーデン軍がレーゲンスブルクを占領した時、司令官ベルンハルト・フォン・ザクセン・ワイマール(Bernhard von Sachsen-Weimar)が占領していた。1863年には、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフも宿泊した。皇帝はドン・ファン・ダウストリアに大きな関心を持っていたという。宿泊客のリストには、バイエルン公国ルートヴィヒ1世も名前を連ねている。

このホテルには、1547年2月24日にレーゲンスブルクでドン・ファン・ダウストリアが誕生したことを記念した碑文が飾られている。

ホテル《ゴールデン・クロイツ》に残る碑文 (Source:de.wikipedia.org)

ドンファン・ダウストリアの母、バルバラ・ブロムベルクは、息子と離れ離れになった後、カール5世の要請により、帝国軍の幹部であるヒエロニムス・ケーゲル(Hieronymus Kegel)と結婚している。1551年、彼女は夫のケーゲルと一緒にブリュッセルに引っ越しており、ふたりは3人の子供に恵まれている。1569年、夫のケーゲルが亡くなり、未亡人となったブロムベルクは、フェリペ2世の勧めにしたがって、修道院に入る道もあったが、それを断っている。

バルバラと思われる女性の肖像、アルプレヒト・アルトドルファー作 (Source:welt.de)

息子のドン・ファン・ダウストリアがオランダ総督に任命された頃、子供の頃以来、二人ははじめて対面している。おそらくはその時の息子の勧めで、バルバラは修道院に入ることを決めている。1578年、ドン・ファン・ダウストリアが亡くなった後、フェリペ2世は修道院で暮らすバルバラに居住地の選択を任せている。バルバラは子供たちとともに、スペイン北部のアンブロセロ(Ambrosero)に移り住み、1597年12月18日、スペインで亡くなっている。ふたたびレーゲンスブルクの地を踏むことはなかった。

神聖ローマ皇帝カール5世と町娘バルバラ・ブロムベルク。1546年にレーゲンスブルクで出会った二人は、以来、二度と会うことはなかった。

カール5世とバルバラ・ブロムベルク

参考:

regensburg-bayern.de, “Don Juan de Austria geboren in Regensburg”, https://www.regensburg-bayern.de/kultur/beruehmte-persoenlichkeiten/don-juan-de-austria-regensburg/

regensburg.de, “Don Juan de Austria”, https://www.regensburg.de/kultur/kulturdatenbank/eintrag/118932

literaturportal-bayern.de, “Die Geliebte des Kaisers: Barbara Blomberg”,  Dr. Michaela Karl, https://www.literaturportal-bayern.de/themen?task=lpbtheme.default&id=678

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