皇帝妃の誤算

ケルン

【ローマ=ゲルマン博物館】(RÖMISCH-GERMANISCHES MUSEUM)

ケルンは、トリ―アやコブレンツと同様、ローマ人によって建設された歴史ある町だ。ケルン大聖堂の隣には、ローマ=ゲルマン博物館があり、ローマ時代の貴重な遺跡を展示している。この博物館は、世界的に有名となったディオニュソスモザイクが発見された大聖堂の南に、1946年に設立されている。そして1974年、博物館は建物をリニューアルしてオープンしている。

ローマ=ゲルマン博物館 (Source: roemisch-germanisches-museum.de)
1941年に発見されたモザイク画(Source:ksta.de)

ケルンはローマ人がやってくるまで、オッピドゥム・ウビィオルム(Oppidum Ubiorum )と呼ばれていた。ウビイイ族が住んでおり、その部族の首都であったが、広さはわずか1平方キロメートルほどだったという。ウビイイ族はゲルマン人の一部族であり、しばらくの間、ローマ人と協力関係を築き、ローマ人の為に軍事および偵察行動を行っていた。紀元前一世紀の終わりごろ、初代ローマ皇帝アウグストゥスが、エルベ川までのゲルマニアの拠点として、今日のケルン旧市街の地域で町を建てたのだった。

この集落に生まれたのが、ローマ史上悪名高き皇帝ネロの母親、アグリッピーナ(小アグリッピーナ)だ。彼女は紀元15年、ライン川左岸のこの小さな集落で生まれている。アグリッピナの母親(大アグリッピーナ)はアウグストゥスの孫娘であり、父親は、ローマ帝国ライン方面軍の最高司令官であるゲルマニクス(Germanicus)であった。当時、ゲルマ二クスはゲルマン人との戦闘の真っただ中であり、このウビィ族の集落を軍事基地として利用していたのだ。父親が亡くなった後は、母親のもとで一緒に暮らしている。

アグリッピーナはまだ若いころに、裕福で政治的に影響力もあるローマ人と結婚していた。しかし、ネロが生まれてからは、息子はアグリッピーナの野心を満たす重要な駒となる。まだネロが幼少のころから、アグリッピーナはいつか自分の息子を皇帝にすることを夢見て、その為には何でもする覚悟だった。その頃、37歳で皇帝位を継いでいた兄のカリグラ帝に対する陰謀に加わったのだった。しかし、企ては失敗し、カリグラは妹を無人島に島流しとした。カリグラ帝が亡くなってからは、父ゲルマニクスの弟クラウディウスが帝位に就く。これは、野心的なアグリッピーナにとって、またとないチャンスだった。

ローマに戻ったアグリッピナは叔父を誘惑し始めた。アグリッピーナの2番目の夫であるクリスパス(Crispus)もまた奇怪な死を遂げていた。この時、クラウディウス帝は結婚しており、2人の小さな子供がおり、二人はクラウディウス帝に非常に似ていた。しかし、クラウディウスは妻のメッサリナ(Messalina)を排除し、近親結婚を禁止するローマ法を廃止。わずか1年後、クラウディウスと彼の美しい姪は結婚に至るのである。

アグリッピーナにローマ皇帝の妻としての法的な権力はなかったが、実際には望んだことは何でも可能にする力を持っていた。クラウディウはアグリッピーナの願いなら、どんなことでも叶えるのであった。アグリッピーナの願いは、自分が生まれたウビィ族の村を、ローマの植民市の地位に昇格させることだった。そして、その新しい植民市は自分の名前を冠する。これまで女性に因んで名づけられた都市はひとつもなかった。クラウディウは妻の願いを叶え、このライン河畔の土地はローマの植民都市となったのだった。都市は「アグリッピーナの植民地」を意味する《コロニア・アグリッピーナ》と名付けられた。

ローマ=ゲルマン博物館に再現されたコロニア・アグリッピーナ時代の北門(Source:de.wikipedia.org)

ケルンはローマの植民市としての地位を与えられ、瞬く間に繁栄が訪れた。新しい都市の正式名称は、コロニア・クラウディア・アラ・アグリピネンシウム(Colonia Claudia Ara Agrippinensium)、略してCCAAと呼ばれた。ここに定住した退役軍人たちは、都市の名前の起源となった皇帝妃に敬意を表し、自分たちを誇らしげに「アグリピネーゼ」と呼んでいた。ウビイイ集落の住民たちはローマ市民の地位を得、間もなく始まった建設工事は、城壁、フォーラム、寺院、温泉、壮大な住宅や幅広い通りなど、紛れもなくローマの特徴を備えていた。

長さ70kmを超える水道は、町にアイフェルからの新鮮な飲料水を供給し、地下の木製パイプと鉛パイプが冷水を町全体に分配した。かつて小さな集落だった場所は、下水システムさえも備えるようになった。アグリッピーナの植民市は、ローマ帝国の再編の一環として、85年に低地ゲルマニア地区の都に昇格、ますます繁栄したのだった。

こういった様々な特権的地位によって、コロニア・アグリッピーナは経済的にも繁栄を享受し、ローマ帝国の北西で最も重要な貿易の中心地へと発展した。とりわけ、陶芸とガラス工芸は地域を超えた重要性を増し、ローマ、リヨン、イギリスからも商人が買い付けにやってくるようになった。2世紀にはすでに1万5千人がここに居住していたという。

息子のネロを巧みに王位継承者にすることに成功した後は、アグリッピーナにとって皇帝の叔父は彼女の計画の前に立ちはだかる邪魔者でしかなかった。皇帝の伝記作家スエトニウスによると、 54年10月12日の夕方、クラウディウスは毒キノコを食し、亡くなっている。とうとう、アグリッピーナの愛する息子に皇帝位が回ってきたのだ。当時17歳のネロが皇位に就いた時、アグリッピナは経験の浅い息子にサポートとアドバイスを与えることこそ母親としての義務であると考えた。

古代ローマの金貨《アウレウス》に刻まれたネロとアグリッピーナ (Source:de.wikipedia.org)

彼女の企てはうまくはいかなかった。過保護な母親は息子に皇帝としての決定権を与えず、それを疎んだネロはアグリッピーナの暗殺を企てたのだった。ネロは、水難事故に見せかけて殺害するべく、壊れやすく細工してあった船に母親を乗せ、ナポリ湾の遊覧を勧めたのだ。しかし、泳ぎが得意なアグリッピーナは九死に一生を得る。しかし、その後まもなく、彼女は自分の寝室でネロの放った刺客に殺害されたのだった。アグリッピーナが殺される直前、近衛兵たちに向かって自分の腹部を指さし、「刺すならここを刺すがいい。ネロはここから生まれてきたのだから」と言い放ったというエピソードは有名である。西暦59年のことだった。

母の死後、皇帝ネロは帝国全体でアグリッピーナの記憶を消すよう働きかける。彼女の誕生日である11月6日は、ローマ人にとって不吉な日であるとされた。アグリッピーナの名前は都市の名前からも消され、《コロニア・アグリッピーナ》は単に《コロニア》と呼ばれるようになり、それが《コロン》そして《ケルン》へと変わっていった。しかし、ケルンの人々だけはアグリッピーナを称えることをやめなかった。今日、ケルンの大手保険会社《アグリッピーナ保険》(Agrippina-Versicherung)や、《アグリッパバート》(Agrippabad)というスパ施設にもアグリッピーナの名前は使われている。そして何より、ケルンのカーニバルでは、ローマ風の衣装をまとった乙女としてアグリッピーナが登場するのである。

ケルンのカーニバルに登場するアグリッピーナ(左)(Source:de.wikipedia.org)

18世紀には、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel)作曲による3幕のオペラ《アグリッピーナ》(Agrippina)が作れれている。アグリッピナがローマ皇帝クラウディウスを没落させ、息子を皇帝に即位させるという話だ。1989年には、ケルン市庁舎の塔の上にヘリベルト・カレーン(He­ri­bert Cal­le­en)によるアグリッピーナの彫像が飾られている。

市庁舎の塔に取り付けられたアグリッピーナ像(Source:de.wikipedia.org)

現在のケルンの地でアグリッピーナが生まれてすぐ、父親ゲルマ二クスは、ティベリウス帝によってローマに戻されている。それからアグリッピーナは二度とケルンに戻ることはなかった。つまり現実には、この土地との間にあまり強いつながりはなかった。しかし、アグリッピーナの影響によりローマ植民市に格上げされてから、ケルンの発展が始まったのは疑いようがない。皇帝へと押し上げた実の息子に殺され、名付け親となった都市からも名前が消されたことは、アグリッピーナにとっても大きな誤算であっただろう。しかし、ローマ史上屈指の悪女と評されることの多いアグリッピーナも、ケルンでは今でも特別な存在であり続けている。

参考:

g-geschichite.de, “Neros Mutter gründet Köln”, Karin Feuerstein-Praßer, 17.03.2016, https://www.g-geschichte.de/plus/nero_agrippina_koeln/

roemisch-germanisches-museum.de, “AGRIPPINA – KAISERIN AUS KÖLN”, https://roemisch-germanisches-museum.de/Agrippina-Kaiserin-aus-Koeln

rheinische-geschichite.lvr.de, “Agrippina die Jüngere, Gründerin der Stadt Köln”, Portal Rheinische Geschichte, Dirk Schmitz, https://www.rheinische-geschichte.lvr.de/Persoenlichkeiten/agrippina-die-juengere/DE-2086/lido/57a9dcf66c7362.93193527

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