ノイス包囲戦 | ブルゴーニュ公シャルルの侵略

ノイス

ライン川の左岸、デュッセルドルフの一地区として穏やかな時を刻むノイス(Neuss)。街の象徴であるクウィリヌス大聖堂(St. Quirin)の重厚なドームを見上げれば、石畳の路地を吹き抜ける風が、かつてこの街が欧州の運命を左右する巨大な戦場となった時代の熱気を運んでくる。現在は平和な地方都市の面影を湛えるノイスだが、15世紀、ここには「ブルゴーニュの獅子」と呼ばれた野心家シャルル豪胆公(Karl der Kühne)の軍勢が押し寄せ、街の存亡を懸けた凄絶な包囲戦が展開されたのである。

1474年、ブルゴーニュ公シャルルはイングランドと同盟を結び、フランスとドイツを同時に呑み込まんとする壮大な野望を抱いていた。その足がかりとして彼が狙いを定めたのが、ケルン大司教領の要衝ノイスであった。対するノイス側の防衛は、ヘルマン・フォン・ヘッセン(Hermann von Hessen)司教の指揮下、わずか1,800人の精鋭が城壁を固め、押し寄せる大軍を迎え撃った。シャルルはイングランドとイタリアの混成傭兵部隊6,000人を投入し、一気に街を粉砕せんとしたが、ノイス市民の必死の抵抗の前に第一陣は無残に撃退された。速戦即決を阻まれたシャルルは、街を四方八方から封鎖する長期包囲戦へと戦略を切り替える。

ノイスは、エルフト川(Erft)がライン川(Rhein)へと注ぐ戦略的要衝に位置していた。ノイス軍はライン川の中州を死守することで、ケルンからの補給路を確保し、城壁内の飢えを凌いでいた。この状況を打破すべく、ブルゴーニュ軍はライン川に巨大なダムを建設し、中州を水没させるという驚天動地の土木作戦を開始する。一方、皇帝フリードリヒ3世(Friedrich III.)は救援を約束したものの、鈍重な帝国軍の編成には遅れが生じ、ノイスは半年もの間、孤立無援の恐怖に晒されることとなった。弾薬は底を突き、食糧も尽きかけた絶望的な状況下で、市民たちは奇跡を信じて城壁に立ち続けた。

1474年11月、ようやく皇帝フリードリヒは6万の軍勢とともにアンダーナッハ(Andernach)に到着した。この巨大な援軍の出現に、シャルルは包囲網の一部を解くことを余儀なくされ、街には再びわずかな物資が運び込まれ始める。デンマーク王による調停も試みられたが、勝利に固執するシャルルのプライドがそれを拒んだ。翌年、帝国軍は10万にまで膨れ上がったが、戦を好まぬ皇帝フリードリヒは決定的な攻撃を避け、膠着状態は春まで続いた。

1475年5月24日、ついに両軍はエルフト川を挟んで激突する。ブルゴーニュの槍騎兵とイングランドの長弓隊が猛攻を仕掛け、帝国軍の陣営は一時壊滅的な混乱に陥った。カンポ・ボッソ(Campo Bosso)伯爵率いるイタリア騎兵隊の追撃によりドイツ兵は次々と倒れたが、ここでミュンスター司教ハインリヒ・フォン・シュヴァルツェンベルク(Heinrich von Schwarzenberg)が自ら先頭に立ち、5,000の兵を率いて凄まじい反撃に打って出た。戦場は血で洗われ、陽が沈むまで一進一退の攻防が繰り返されたが、決定的な勝敗はつかなかった。

しかし、この頑強な抵抗こそが歴史を動かした。後方からスイス軍とフランス軍の影が迫り、背後を脅かされたシャルル豪胆公は、ついに膝を屈して交渉のテーブルに着いたのである。6月9日に和平が成立し、包囲開始から10か月が経過した1475年6月27日、ついにブルゴーニュの大軍はノイスの地から撤退した。小さな街が、欧州最強を誇った軍隊を退けた瞬間であった。

戦いの記憶を刻むクウィリヌス大聖堂の前に立ち、再び現在のノイスの街並みを眺めれば、かつてダムが築かれ、血に染まったラインの川面は、今は何事もなかったかのように穏やかに流れている。しかし、街角に残る古びた城壁の石組みには、自由を守り抜くために死力を尽くした先人たちの誇りが、今も深い刻印となって残されている。

参考:

deutschland-im-mittelalter.de, “Die Belagerung von Neuss”, https://deutschland-im-mittelalter.de/Militaer/Liste-Belagerungen/Neuss

hofvanbusleyden.be, “Das Lager Karls des Kühnen bei der Belagerung von Neuss 1475”, Adriaen Van den Houte, https://www.hofvanbusleyden.be/das-lager-karls-des-k-hnen-bei-der-belagerung-von-neuss-1475

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