ふたつの大聖堂ととある夫婦の話

マインツ

975年に礎石が置かれたマインツ大聖堂は、シュパイアー大聖堂、ヴォルムス大聖堂と並んでドイツで最も古い大聖堂であり、大聖堂を形作る赤い砂岩は非常に印象深い外観を与えている。マインツのランドマークであり、市民にとってはアイデンティティの一部ともいえる建築である。この大聖堂は、ウィリギス大司教が、ローマのサンピエトロ大聖堂をモデルに10世紀に建築を開始している。教会はドイツ王・皇帝に対する7度の戴冠式を執り行い、7回の火災を経験している。特にこの火災によって、教会は拡張され、教会の建築様式も徐々に変化していった。しかし、当初の基本的な大きさとその特徴的なロマネスク様式の外観は保たれたままであり、中世当時の面影を残している。

マインツに来て、このマインツ大聖堂を訪問しない人は少数派であろうが、市内中心部の大聖堂の向いにあるプロテスタント教会である聖ヨハニス教会を素通りする人は多いのではないだろうか。大聖堂の隣に建っているせいもあって地味な印象を与える教会であるが、マインツで最も古い教会であり、現存する司教教会としては、トリーア大聖堂に次いでドイツの地で2番目に古い教会である。この教会は、ハット1世大司教の下で900〜910年頃に建てられ、14世紀に再建された。守護聖人、洗礼者聖ヨハネを奉る教会である。

マインツ大聖堂の陰に隠れてひっそりと建つこの小さな教会が、2019年、突如として脚光を浴びることになる。この教会で、約1000年もの間手つかずだった石棺が見つかったのだ。考古学者と歴史家はこのヨハニス教会の中央身廊で、メディアと国際的な研究者チームが見守るなか注意深くこの石棺を開けた。石棺に横たわってた遺骨は、なんとマインツ大司教エルカンバルドのものだった。

エルカンバルト大司教の棺が発見された聖ヨハニス教会の内部(筆者撮影)
聖ヨハニス教会の入り口付近(筆者撮影)

エルカンバルト大司教。この人物は、ブランシュヴァイク近郊のエルスブルク(Ölsburg)の伯爵家の出身であり、30歳のころに修道院長になっている。神聖ローマ皇帝オットー3世のイタリア遠征においても軍事的に支援するなど、皇帝を強力に援助していた。オットー3世亡き後は、自身をマインツの大司教に任命してくれたハインリッヒ2世を支援しており、皇帝の忠実な僕だったという評価がされている。しかし、マインツ大司教である。帝国の大書記長として宮廷で重要な政治的役割を果たしていた。

石棺から発見された遺骨の研究によると、この大司教は40歳から60歳の間に亡くなったとされる。身長は当時の平均をはるかに上回る1.82メートルで、当時の典型的な生活習慣病である足の痛風に苦しんでいた。特定に成功したのは、第一にその服装である。故人のローブが金の編み込みを施された司教のものであったこと。そして、司教が特別な機会に身に着ける山羊皮で作られたサンダルのような靴を履いていたことがあげられる。そして第二に死亡推定時期である。死亡時期は950年から1050年である可能性が高く、その期間で埋葬場所がまだ確定されていなかったのが、このエルカンバルド大司教しかいなかったことによる。

この司教の名前を有名にしたのは、ある事件がきっかけだった。彼は《ハマーシュタインの近親婚》 (Hammersteiner Ehestreit)と呼ばれる騒動に関与したことで、歴史に名を残すことになったのだ。

この騒動は、1017年に、オットー・フォン・ハマーシュタイン(Otto von Hammerstein)とイルムガルト・フォン・ヴェルドゥン(Irmgard von Verdun)が結婚したことに始まる。オットー・フォン・ハマーシュタイン は、エイセル湖、ヴェッテラウ(Wetterau)、中ラインを支配する名家の出であり、ザクセン朝の神聖ローマ皇帝ハインリッヒ2世の友人でもあった。妻のイルムガルト・フォン・ヴェルドゥンは、ザクセン公ヘルマン・ビルング(Herman Bilung)を祖父に持つ、こちらも名門の出であった。ヘルマン・ビルングと言えば、初代神聖ローマ皇帝オットー1世が領土を留守にしたときには、その不在時の統治を任されたほどの帝国の重要人物である。そのヘルマン・ビルングの娘、マチルデ・ビルング(Mathilde von Bilung)から生まれたのが、このイルムガルト・フォン・ヴェルドゥンである。

しかしこの二人、家系図を遡ると血縁関係がつながるのである。オットーの曽祖父であるゴットフリートとイルムガルトの祖母ウダ(Uda)は兄弟なのだ。二人とも、ゲルハルト・フォン・メッツを父、オダ(Oda)を母として生まれている。この当時のドイツではローマ帝国の慣習を引き継ぎ、カノン法に基づいて近親間の結婚を禁じていた。この法によれば、オットーとイルムガルトは7度の血縁関係ということになり、本来、結婚は禁じられていた。結婚の禁止が7度から4度へと緩和されるのは、1215年に開催される第4回ラテラン公会議からであり、オットーとイルムガルトの結婚から200年も後のことである。

件のエルカンバルド司教はナイメーヘンで行われた教会会議の席で、オットーとイルムガルト の近親婚に対して公然と異を唱えたのだった。 皇帝ハインリヒ2世はオットーの友人であったが、マインツ大司教であるエルカンバルドの勧めにより、表向きにはオットーとイルムガルトの結婚に反対していた。

ここで重要なことは、エルカンバルト大司教は、オットー・フォン・ハマーシュタインに対して個人的な嫌がらせを行うべく、近親婚の問題を取り上げたのではなかったということだ。少なくとも当初はそうではなかった。この問題が起こった11世紀は、カトリック教会は腐敗しきっていた。教会の高位聖職者は、̪シモニア(聖職売買)によって売り買いの対象にされ、司教による結婚も公然と行われてた。こういった状況に教会内部から改革の必要性を訴えるグループがあった。クリュニュー修道会を中心とした修道院改革である。同じ頃、ロートリンゲン地方のゴルツ修道会(Abtei Gorze)でも同様の改革運動が起こった。改革に参加したのはケルン大司教ブルン(Brun)、マグデブルク司教アダルベルト(Adalbert)、レーゲンスブルク司教ヴォルフガング(Wolfgang)、他にもフルダ修道院、ロルシュ修道院など、名だたる修道院がこの改革に賛同・参加した。エルカンバルトもこのゴルツ修道院改革の影響を受けていたと思われ、改革への熱意が近親婚に対する過剰な反応となって表れた可能性もある。

オットーとイルムガルトは、近親婚による教会からの度重なる召喚命令にも従わなかった。その後、彼らは召喚命令への不服従で告発され、ふたりの結婚は強制的に無効とされた。そして1018年、二人はナイメーヘンで破門されたのだった。しかし、オットーはそんな決定に従う気など毛頭なかった。歴史家のウルスラ・レヴァルトによれば、オットーの妻への「盲目的な愛」は、結婚無効の判決を無視し、さらにはマインツ大司教区の領土を襲撃させ、大司教を暗殺しようとした。以降、この結婚紛争は激化の一途を辿る。オットーは エルカンバルドを捕まえる試みには失敗したが、 エルカンバルド の側近を捕らえることに成功し、自身の居城ハマーシュタイン城に投獄している。

皇帝ハインリヒ2世は、ビザンツ帝国との紛争に直面しており、盲目的な愛に捕らわれているオットーによる騒動を穏便に片付けるよう試みた。またイルムガルトの兄弟は、下ロートリンゲン公ゴットフリート2世(Gottfried II.)とゴツェロ1世(Gozelo I.)であり、この二人は当時非常に有力な諸侯であった。皇帝ハインリッヒ2世は、西方の帝国国境を防御する上で最も信頼できる同盟であるイルムガルトの兄弟への対応も十分に考慮したのだった。

しかし、「恋は盲目」というが、オットーは皇帝による直々の調停をも拒否するのであった。これにより帝国議会は夫婦の拘束を決定。オットーはハマーシュタイン城(Hammerstein)に立て籠もったが、皇帝軍に包囲され、4か月が経過した1020年のクリスマスに降伏したのだった。彼は財産のすべてを没収されたが、財産と引き換えに退去は許され、イルムガルトと一緒に放浪の旅へと出たのだった。しかし、それでも、暗殺されかけたエルカンバルド大司教の屈辱を濯ぐには十分でなかったようで、大司教はオットー夫婦への監視を続けた。

エルカンバルド はオットーへの復讐という目的を達成することなく、1021年8月17日にこの世を去った。そしてこのエルカンバルトの後を継いだのが、アリボ大司教(Aribo)である。アリボはバイエルンの伯爵家の子息として生まれ、ザルツブルクで高い教育を受けた。1020年、彼は、皇帝ハインリッヒ2世から直々に宮廷礼拝堂へと取り立てられ、翌年にはマインツ大司教位を授けられている。ハインリッヒ2世が逝去した後、アリボは選帝侯のひとりとして、自身の推薦するコンラート2世をドイツ王にすることに成功。1024年、コンラート2世はマインツでアリボによって戴冠している。このことからも、マインツ大司教アリボは、帝国政治において絶大な権力を誇る人物であったということが窺い知れる。

そして、このアリボ大司教が、前任者であったエルカンバルトからオットーとの確執を引き継ぐことになったのだった。

帝国議会による決定の受け入れを拒んだイルムガルトは、自らローマを訪問し、教皇ベネディクトゥ8世へ直訴した。ローマ教皇への直訴は、エルカンバルドの後継者であるアリボ大司教の名誉の問題へと発展した。アリボ大司教は 教皇ベネディクトゥ8世に自説を説明し、釘をさしたのだったが、教皇の使節団が参加して行われたドイツでの追加調査では、マインツ大司教に不利な結果となった。結局、アリボは司教の権利をはく奪されたのだった。

1027年のフランクフルト教会会議で、アリボは近親婚の一件を再度議論の俎上に挙げた。しかし、ハインリッヒ2世の後を継いで新皇帝となったコンラート2世は、自身の結婚も近親婚とされていたため、この一件を大きくすることを望んでいなかった。コンラート2世は、コンラディン家のシュヴァーベン公ヘルマン2世の娘ギーゼラと結婚していたが、この結婚は当時の教会法による近親婚とみなされた。実はこれが原因で、アリボ大司教はコンラート2世には戴冠を行ったが、その妻ギゼラへの皇后としての戴冠は拒否していたのだ。その為、皇后の戴冠はケルン大司教のピルグリムが代わりに行うことになり、これがきっかけで、王の戴冠式はマインツを離れてケルン大司教へと移ってしまう(ケルン大司教がアーヘンにて戴冠式を挙行)。こういったいきさつから、皇帝はオットーとイルムガルトに対する訴訟を早々と終わらせ、オットーは伯爵位も取り戻したのであった。二人の結婚は暗黙の了解となり、その後は幸せな結婚生活を送ることができたのだ。

この一連の論争で敗者となったアリボは、1031年、取り消された司教の座を取り戻すためローマに懺悔の旅へと出ている。 実はアリボは、このハマーシュタインの近親婚に関してだけではなく、教皇とは常に緊張関係にあり、両者の軋轢によって、このような結果となったと考えられる。この旅の成果がどうであったのかは伝わっていない。アリボはドイツへの帰路の途中、コモ湖で亡くなってしまったからだ。アリボはこのハマーシュタインの近親婚論争に負け、王への戴冠の権利をケルンに奪われたうえに、もう一つは《ガンダースハイム論争》(Gandersheimer Streit)と呼ばれる争いにも敗れており、踏んだり蹴ったりの晩年を送った。この3っつの敗北の中でも、王への戴冠の権利に関しては、その後のマインツ大司教がいかに臍を噛む思いをしたかを示す証拠が残っている。

(写真:マインツ大聖堂ガイドブックより)

上の写真は、キングメーカーと呼ばれたマインツ大司教ジークフリード3世・フォン・エプシュタインの記念墓碑だが、非常に珍しいデザインである。大司教は邪悪なものを征服するという意味で、ライオンとドラゴンの上に立っている。左右に立つ男は、ハインリッヒ・ラスぺ(左)とヴィルヘルム・フォン・ホラント(右)である。そして、ジークフリード大司教はその左右の男の王冠を摘まんでいる。この一見コミカルなデザインは、ケルン大司教に対して戴冠の権利があるのはマインツであるという主張を表しているのである。

下の写真は、大司教ペーター・フォン・アスペルトの記念墓碑である。左手には、ヨハン・フォン・ベーメンとハインリッヒ7世・フォン・ルクセンブルクが、右手にはルートヴィッヒ・フォン・バイエルンが立っている。司教はまたもや王冠に手を置いている(むしろ上から頭を押さえつけているかのようにも見える)。これもマインツ大司教の王への戴冠の権利を主張したデザインを取っている。この記念碑が作られたのは1330年頃なので、王への戴冠の権利を失ってからすでに300年後のことであり、歴代マインツ大司教はよほど悔しい思いをしてきたことがわかる。

(写真:マインツ大聖堂ガイドブックより)

イルムガルトの教皇への直訴は、同時代人からは批判の的とされたが、19世紀から20世紀にかけてその行動は評価を受けている。彼女の行動を忠実な夫婦のモデルとして、また教会の疑わしい規範に対する批判者とする見方が広がった。イルムガルトは確かに高貴な身分の出であったが、皇帝や大司教の決定に公然と反対したことは、当時の価値観では非常に稀なことであった。一方のオットーも、皇帝に歯向かうことさえ辞さず、結果として全てを失い、一文無しの流浪の身になったとしても、イルムガルトとの結婚を貫いた人物として歴史に名前を残すこととなった。

また《ハマーシュタインの近親婚》の発端となった エルカンバルド であったが、彼の棺が聖ヨハネ教会で発見されたことは、別の歴史的検証も示している。今日の聖ヨハネ教会は、マインツで最初の大聖堂であったという点である。

これにより、マインツは2つの大聖堂が隣接する唯一の司教区ということになる。ケルンやシュパイアーやヴォルムスなど他の都市では、初期の教会は新しい建物に統合されるか、遺跡として残っている以外、元の遺構完全に姿を消している。つまり、910年に奉献されたこのヨハネス教会は、東にあるマインツ大聖堂が1036年に奉献されるまで、マインツ大司教区の司教教会だったのである。

《ハマーシュタインの近親婚》で期せずして悪役を演じることとなったエルカンバルドとアリボ。エルカンバルト大司教の棺は発見された聖ヨハニス教会の地下に戻され、アリボ大司教の棺はマインツ大聖堂の宝物庫に展示されている。

マインツ大聖堂の宝物庫に保管されたアリボ大司教の棺(筆者撮影)

参考:

rheinische-geschichite.lvr.de, “Irmgard von Verdun”, Matthias Koch, http://www.rheinische-geschichte.lvr.de/Persoenlichkeiten/irmgard-von-verdun/DE-2086/lido/57c92881a0e849.22259113

welt.de, “Im Kampf gegen Inzest zog der Erzbischof sogar in den Krieg”, Antonia Kleikamp, 22.12.2019, https://www.welt.de/geschichte/article204487560/Mainzer-Erzbischof-Im-Kampf-gegen-Inzest-zog-er-sogar-in-den-Krieg.html

zdf.de, “Sarkophag-Rätsel gelöst: Toter ist Erkanbald”, 14.11.2019, https://www.zdf.de/nachrichten/heute/in-tausend-jahre-altem-sarkophag-liegt-mainzer-bischof-erkanbald-100.html#:~:text=Anfang%20Juli%20wurde%20der%20Grabdeckel,Johanniskirche.

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