コンラートとハインリッヒ |ザリエル朝のふたりの皇帝

シュパイヤー

シュパイヤー。《カイザードーム》と呼ばれるこの町の大聖堂には、ザリエル朝の歴代皇帝が眠っている。この大聖堂を建設したコンラート2世とその後を継いだハインリッヒ3世。この2人のザリエル朝の皇帝は、王権の強化を図り、帝国における皇帝権力の最盛期を現出した。

ザリエル朝は、10世紀、ヴォルムス(Worms)とカールスルーエ(Karlsruhe)間のライン河畔と、ラインガウ(Rheingau)とクライヒガウ(Kraichgau)間のライン川の両岸に、集中的、機能的な貴族による支配を築き上げた。

ザクセン人の支配者が亡くなった後、ザリエル家は自身を国王に推した。コンラート赤王(Konrad der Rote)は、10世紀、この一族の創設者であり、彼の曾孫であるコンラート2世は、東フランケン-ドイツ王へ、そして皇帝に選出された。コンラート2世が、1024年9月にマインツで王に選出されたとき24歳であった。マインツでの戴冠式の後、彼は帝国を回り始めた。

中世の支配者の慣習として、彼は馬に乗り、領土を回って支配を行った。彼の宮廷、僧侶、戦士、そして妻のギゼラ(Gisela)が同行した。最初の目的地はアーヘンであった。コンラート2世は、カール大帝の伝統の中に身を置いた。

コンラート2世は、帝国における彼の支配を明確にするため、パラティン礼拝堂への訪問中、伝説的な前任者カール大帝の王位に就いた。アーヘンから、 コンラート2世は帝国全体を旅した。彼はバイエルン、ザクセン、コンスタンツ主教区を訪れ、諸侯は新しい支配者に敬意を表した。

この当時は、王位の承認を得るために各地を巡行する必要があったため、彼は10か月間、諸国を周った後、ライン河畔の自身の拠点、シュパイヤーへと戻った。シュパイアーでは、彼は大聖堂を建てるために建築監督を雇った。この当時、大聖堂はキリスト教世界で最大の教会になる予定であった。

コンラート2世は、この大聖堂を自身と一族のための埋葬地にした。しかし、コンラート2世の生存中に大聖堂は完成せず、彼が生前、目にすることができたのは、大聖堂の地下室だけであった。

数ヶ月後、コンラート2世は再び出発した。彼は従者を引き連れ、帝国の一部であったイタリアへと旅立った。北イタリアのラヴェンナ近くで、彼は抵抗に会ったが、武力により制圧することに成功した。コラートは、武力による厳しい対応を見せつけることによってのみ、国を従わせることができた。

コンラートの本来の目的地はローマだった。ここで彼はドイツ帝国の統治者が達成できる最高の栄誉を受けるのである。1027年3月、ローマにおいて皇帝の戴冠式が行われた。

それから少し後、コンラート2世は帝国の領土を拡大する別の機会を得た。ブルゴーニュ公国の王が子孫を残さず他界したのだ。コンラート2世はブルゴーニュへと向かい、ブルゴーニュの王冠を手に入れた。

彼の支配の目的は、帝国を統合し、領土を平定することだった。コンラートは、王がキリスト教の支配を引き継ぐという考えをもっていた。コンラート2世は、自身を地上におけるキリストの代理人であると感じていた。死の直前、コンラート2世は一度だけシュパイアーを訪れた。 1039年、彼は痛風により、ユトレヒトで突然亡くなった。遺体はシュパイアーへと移された。そして、ザーリア朝の最初の皇帝は、大聖堂の地下室に埋葬されている。

コンラート2世の後を継いだ息子のハインリッヒ3世は、自身がキリストであると確信し、キリストのように統治したいと考えていた。彼は上から命じることで平和を実現し、帝国の問題や論争を解決できると信じていた。彼の支配は神権的特徴を帯びていた。しかし、彼の権威主義的な支配の方法は、ドイツ諸侯たちの抵抗を呼んだ。

イヴォワにおいて、 ハインリッヒ3世は、 ロレーヌの領有を巡って、フランス王アンリ1世に一対一の決闘を呼び掛けている。1053年、レーゲンスブルク司教ヴェルフ3世(Welf III)が率いる反抗的な南ドイツ諸侯たちが団結して王に対抗した。共謀者たちは殺害計画を作り上げた。しかし、ヴェルフ3世が突如死亡したため、計画は失敗に終わった。

ハインリッヒの王権に対する考えにより、王がキリスト教世界の頂点に立つよう、自分自身を様式化した。この考えにおいては、教皇は二次的な役割を与えられるのみであった。

ローマにほど近い、スートリ教会会議(Synode von Sutri)において、王と教会との最初の対立が勃発した。ハインリヒ3世は、バンベルク司教スイジャー(Suidger)が教皇として即位することを主張した。現職の教皇ベネディクトゥス9世は正式に退位させられ、彼と権力闘争を争ったグレゴリウス6世もハインリッヒによって追放された。ハインリヒ3世の推薦候補者が新しい教皇クレメンス2世として選出された。その直後、新しい教皇は、ハインリヒ3世と妻のアグネスに神聖ローマ帝国の帝冠を授けた。ハインリッヒの治世中、ハインリッヒ3世が武力によって支配していたロレーヌのように、帝国の国境では常に武力紛争が発生した。ハインリッヒは39歳で、ハルツ山地のボドフェルド王宮(Königspfalz Bodfeld)で死亡した。

コンラート2世とハインリッヒ3世。この二人による治世は、ザリエル朝の3番目の皇帝、ハインリッヒ4世へと引き継がれる。ハインリッヒ3世の治世、皇帝権はこれまでにない高みを経験する。しかし、強大な皇帝権力の誕生は、神聖ローマ帝国内の諸侯にとっても憂慮すべき事態であった。皇帝権のこれ以上の強化を望まないという点で、ローマ教皇とドイツの諸侯の利害が一致し、この後、皇帝と教皇による叙任権闘争へと発展してくのである。

ハインリッヒ3世がグレゴリウス6世を追放処分としたとき、そのグレゴリウス6世にヒルデブラントという修道僧が付き添っていた。それが後のグレゴリウス7世であり、ザリエル朝3代目の皇帝ハインリッヒ4世と、「カノッサの屈辱」と呼ばれる場面を演じるのである。

参考:

planet-wissen.de, “Salier”, Sabine Kaufmann, 14.04.2020, https://www.planet-wissen.de/geschichte/mittelalter/die_salier/index.html

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