ワイマールのゲーテとシラー

ワイマール

ドイツのワイマールにあるワイマール国立劇場。その前の広場に設置されたゲーテ-シラー記念碑は、世界中に複数個存在する同じデザインの記念碑のオリジナル作品だ。このヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ(Johann Wolfgang Goethe)とフリードリヒ・シラー(Friedrich Schiller)の銅像は、エルンスト・リーチェル (Ernst Rietschel)によって、1857年に制作されたものだ。ドイツ文学で最も尊敬されているこの二人の記念碑は、ワイマールの観光名所になっている。

ゲーテは成人期のほとんどをワイマールで過ごし、シラーは人生最後の6年間をこの町で過ごした。ゲーテとシラーは、文学と芸術の分野における協力を超えた友情を結んでいたことで知られている。両者ともにワイマールに住み、ワイマール古典主義として知られる文学運動の旗手であった。

1775年、ゲーテがカール・アウグスト公爵のワイマールへの招待を受け入れたとき、この町には6,000人の人口しかおらず、イエナ、アポルダ、アイゼナハ、イルメナウなどを含めたザクセン=ヴァイマール=アイゼナハ公国全体でも、人口はわずか10万人程度だった。この小国は、1756年から始まったプロイセンとオーストリア間の七年戦争による影響を大きく受けていた。ワイマールは勝利したプロイセンの側に立っていたが、この戦争により多くの命が失われ、多大な経済的打撃を受けたのだった。

しかし、その後、ワイマールを治めた聡明なアンナ・アマーリア公爵夫人のおかげで、この小国は再び経済的にも文化的にもその全盛期を迎えるのだった。華やかな好きな王女は、ワイマールを「文化都市」に変えようと努力した。そのため、彼女は1775年に公国の摂政となった息子のカール・アウグストのたっての希望を推進し、「若きヴェルテルの悩み」や「ゲッツ・フォン・ベルリシンゲン」などの作品ですでに名声を得ていたゲーテを宮廷へと招いたのだった。

当時18歳だった カール・アウグスト大公と、8歳年上だったゲーテはすぐに親しい友人となり、ゲーテは若い摂政の顧問となった。その1年後、ゲーテは高給で立法評議員に任命され、同時にワイマール国内で最高の政府機関の議席を得ることとなった。さらに、鉱業委員会の責任者、道路および水力工学委員会の責任者、戦争委員会の責任者、そして後に財務大臣として、ゲーテはその広範な能力によって様々な要職を任されることになったのだった。

ゲーテは銀と銅の採掘を促進し、通りと小道を改修したり、町の修復を行い、同時に公国の財政状況を回復させることで、その手腕を見事に証明してみせたのだった。ゲーテの友人であった大公も、ゲーテの貢献に大いに報い、 1782年、大公はヨーゼフ2世皇帝に、ゲーテを貴族に昇格させるよう要請した。

こうして貴族の仲間入りを果たし、《ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ》と呼ばれるようになったゲーテは、この公国にさらなる幸運をもたらすのだった。成功を果たし、有名になった詩人の存在は、ワイマールにさらなる偉人、知識人を引き付けた。神学、哲学、文学者のヘルダーに加えて、ゲーテは後にフリードリヒ・シラーをワイマールへと連れてきている。小さな公国は、ヨーロッパで最も重要な文化都市へと成長したのだった。

一方のシラーは人生で何度も引っ越ししており、1785年に初めてワイマールに来ている。その時、彼はゲーテの支援を求めたが、ゲーテちょうどイタリアに旅立ったばっかりだったので、シラーは再びワイマールを去っている。1786年にゲーテがイタリアから戻ってからは、シラーは1787年11月から1789年5月まで、あえてそのすぐ近くのフラウエンプラン(Frauenplan)へと引っ越した。しかし、シラーの創造性に対する羨望や嫉妬のせいか、ゲーテはシラーを完全に無視したのだった。それに対して、シラーはゲーテを自己満足のエゴイストであると評価している。

1789年、ルドルシュタット(Rudolstadt)で初めてシラーに会ったゲーテは、哲学と歴史の教授としてシラーをイエナへと遠ざけた。イエナではシラーは何度かの引っ越しを重ね、1795年、最終的にこの町に家を購入している。

1794年、ゲーテに再会したシラーは、それから頻繁にワイマールを訪れるようになり、ワイマールに戻ることに興味を持ち始めていた。1799年、シラーは完全にワイマールへと移り、1799年から1802年にヴィンディッシェン通り(Windischengasse)の賃貸アパートへと引っ越している。2階は家族のため、最上階はシラーの仕事部屋として借りていた。

1802年、シラーは、現在では《シラー通り12番》と名付けられているエスプラナーデ(Esplanade)に家を購入している。そして3年後の1805年、シラーはこの家で肺炎と過労の為に亡くなっている。シラーはワイマールのヤコブス教会(Jakobskirche)に隣接する墓地の地下室の大衆遺骨安置所に埋葬された。その後しばらくして、彼のものとされる遺骨は、公爵家の墓地のカスケットゲーテの隣に埋葬された。シラーの(ものと推測される)頭蓋骨は、数ヶ月間そこに保管された後、最終的にアンナ=アマーリア図書館のカスケットで保管されることとなった。

ゲーテとシラー。この偉大な二人の詩人を記念する像の建設プロジェクトは、ザクセン=ヴァイマール=アイゼナッハ公国の大公であるカール・アレクサンダー・アウグスト・ヨハン(Karl Alexander August Johann)と市民委員会によって計画された。1775年にゲーテをワイマールに連れて行ったカール・アウグスト大公(Karl August)の生誕100周年を記念して計画されたのだった。

当初、19世紀前半に、ドイツ語圏で最も有名であった彫刻家であるクリスチャン・ダニエル・ラウフが、このプロジェクトの為にワイマールへと招待された。ラウフは、ゲーテとシラーがアンティーク調のドレスを着た格好のデザインを行った。英雄的な人物にアンティーク調の衣装を纏わせて彫刻を作成するという慣習は、この時代には確立されており、ラウフのデザインもこれに倣ったものだったが、このプロジェクトではそのアイデアは却下されてしまった。ラウフの学生で、同じく著名な彫刻家であったエルンスト・リーチェルは、現代的な衣装に身を包んだゲーテとシラーの像をデザインし、そのアイデアにより、1852年12月、市と契約を結んでいる。完成した銅像は、実物より大きく作られており、特に、ゲーテはシラーよりもほぼ20 cmも身長が低かったにもかかわらず、銅像では、ほぼ同じ身長で表されている。

ゲーテが監督を務め、シラーの作品が数えきれないほど公演された劇場の前に設置された大きな石の台座に、二人の銅像は取り付けられた。ゲーテは向かって左側に位置し、左手はシラーの肩に軽く寄りかかっている。ゲーテは右手で月桂樹の花輪を握り、シラーの右手は花輪に向かって伸びている。ゲーテはその時代のフォーマルな法服を身に着け、シラーは一般的な服を着ている。リーチェルは、この彫像を完成させるのに実に4年を要したのだった。

リーチェルの彫像の正確な4つのコピーが、サンフランシスコ(1901)、クリーブランド(1907)、ミルウォーキー(1908)、およびシラキュース(1911)に設置されている。ドイツ系アメリカ人から贈られたものだ。2006年に中国の安亭に、縮小されたサイズの5番目のコピーが設置されている。ゲーテとシラーの像は、ワイマールを飛び出し、ドイツ国外でも彼らの偉業を今日に伝えている。

参考:

planet-wissen.de, “Der Politiker Goethe – Geheimrat und Minister”, Alfried Schmitz, 09.04.2020, https://www.planet-wissen.de/geschichte/persoenlichkeiten/johann_wolfgang_von_goethe/pwiederpolitikergoethegeheimratundminister100.html

“Schiller in Weimar”, Helmut Wurm, http://www.goethe-weimar-wetzlar.de/index-Dateien/Schiller%20in%20Weimar.pdf

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