ルターが掲げた《95ヵ条の論題》

ヴィッテンベルク

ヴィッテンベルク(Wittenberg)の中心地を東西に通るコスビガー通り(Cosbiger str.)。その西端にあるのがヴィッテンベルクの城教会(Schlosskirche)である。

1517年、10月31日、ヴィッテンベルク城教会の扉に、マルティン・ルターは《95か条の論題》と呼ばれる紙を張り出した。このルターによる教会批判は瞬く間にドイツ全土に広まり、カトリック教会の分裂を引き起こしたのだった。

ヴィッテンベルクの城教会の門 (筆者撮影)

ルターはドイツ、ザクセン地方の小村アイスレーベンで生まれた。洗礼を受けた日がトゥールズのマルティネスの祝日であったことにちなんで、マルティンと名づけられた。ルターは13歳になると自宅から離れ、マクデブルクやアイゼナハに学び、1501年にエアフルト大学に入学している。そこで哲学と法学を学んだ後、卒業後はエアフルトで教えていたルターだったが、1511年9月、シュタウピッツ(Staupitz)の勧めもあって、当時ザクセンの都であったヴィッテンベルクにできたばかりであったヴィッテンベルク大学に移って哲学と神学の講座を受け持つことになった。エアフルトの托鉢修道会である聖アウグスチノ修道会に入った。

この頃、ドイツ全土で贖宥状の販売が話題になっていた。ヨーロッパ全域の中で特にドイツ国内で大々的に贖宥状の販売が行われたのには理由があった。 ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世には、アルブレヒトという弟がおり、 マクデブルクとハルバーシュタット(Halberstadt)でそれぞれ司教位を保持していた。本来、一人がひとつの司教位を保持するものであるのに、アルブレヒトは二つの司教位でも飽き足らず、神聖ローマ帝国の選帝侯でもあるマインツ大司教位もその手に収めようと画策したのだった。 そこで、アルブレヒトはローマ教皇庁へ多額の献金を行うことで、複数司教位保持の特別許可を得ようと試みた。その策謀に絡んだのが、アウグスブルクの富豪フッガー家であった。フッガー家の入れ知恵により、献金はサン・ピエトロ大聖堂修復目的という名目で贖宥状の販売を独占的に行うというものだった。

アルブレヒト(Source:wikipedia.de)

アルブレヒトとフッガー家が考えたとおり、贖宥状の販売は盛況であった。ローマカトリック教会の総本山であるサン・ピエトロ大聖堂の修復に貢献することは、「人は善行を行うことで義となる」というカトリックの教義と一致し、それにより罪の償いが軽減されるという考えは多くの人に受け入れられた。「募金箱に入ったコインのチャリンという音で、魂が天国へと昇る。」という謳い文句が盛んに語られたと伝えられる。

これに対してルターの説は、聖書を通して神を信じることによってのみ救いが得られるという考えであるので、この考えは《信仰義認説》と呼ばれた。贖宥状販売に対する疑問を呈したルターは、公の場で、壁新聞のように多くの人の目に触れるようなやり方で教会を告発してみせたのだが、これは当時としては極めて一般的な方法であり、選帝侯の居城に隣接していた城教会の門は日常的に大学の掲示板として利用されていたという。 ルターが掲示した文書はラテン語で書かれており、一般市民には読めないものであった。つまり、ルターはこの文書を以って一般市民に問題提起しようしたのではなく、神学者との論争を望んだためだと言われる。

ルターが張り出した《95ヵ条の論題》(Source:wikipedia.de)

この城教会への論題の張り出しとともに、ルターは同様の内容の手紙を、贖宥状販売の「黒幕」であるアルブレヒトにも送っている。マインツ大司教アルブレヒトは、自らの収入の道が一神父によって絶たれてはたまらないと、ルターの案件をローマ教皇に託した。しかし、この頃のローマ教皇は、レオ10世である。レオ10世は、本名をジョヴァンニ・デ・メディチ(Giovanni de Medici)という。そう、イタリアのフィレンツェを中心に隆盛を誇ったあのメディチ家の出身である。レオ10世ことジョヴァンニ・デ・メディチは、メディチ家の黄金期を築いたロレンツォ・ディ・メディチの次男坊であった。ジョヴァンニはわずか16歳で枢機卿に、37歳で教皇に選出されており、最年少の教皇となった人物である。つまりは教皇の座を金で手に入れたのだ。贖宥状販売以前に、聖職ですら金が物を言う時代だ。バチカンのトップですらこの有り様である。ローマカトリック教会の腐敗ぶりは目を覆うばかりであった。

金融を抑えるメディチ家がローマ教皇になる時代である。ローマ教皇庁はルターの告発を大きな問題とは考えてはいなかった。この後、カトリック教会とルターの論争は、アウグスブルクの審問会、トリエント公会議などで継続されることになるのだ。この後もルターはドイツを二分する論争を巻き起こし、宗教改革を発端としたドイツ農民戦争、三十年戦争は、ドイツを荒廃させる戦いへと発展していく。

1546年2月18日、波乱の人生を起こったルターはアイスレーベン訪問中に亡くなり、1546年2月22日にヴィッテンベルクの城教会に埋葬され、その墓は今日でも城教会で見ることができる。

ルターの墓石(Source:kleio.org/de)

ルターの100年前に宗教改革を唱えたボヘミアのヤン・フスはコンスタンツ公会議で火刑に処せられたが、ではなぜ、ルターは処刑されることがなかったのか?これは、ルターが生まれた場所にも一因がある。ルターはザクセンで生まれた。ザクセンは神聖ローマ帝国内でも有数の諸侯であるだけでなく、皇帝を選ぶ権利さえ有する選帝侯であった。ザクセン選帝侯に支持されたルターは、たとえ神聖ローマ皇帝でもおいそれと手を出せない存在であった。

また、フスとルターの生きた時代も大きな役割を果たしたといえる。この時代に発展した活版印刷の技術が、贖宥状販売とそれに続くルター聖書の印刷に大きな役割を果たしたことを考えると、フスの生きた時代とルターが生きた時代は、宗教改革を推し進める上での条件が整っていたと見ることもできる。

参考:

luther.de, “Der Thesenanschlag und die Folgen (1517-19)”, https://www.luther.de/leben/anschlag/

planet-wissen.de, “Martin Luther”, Gregor Delvaux de Fenffe, https://www.planet-wissen.de/kultur/religion/martin_luther/index.html

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