13世紀、ハーメルン地方で守護職を務めていたのは、ハーフェルシュタインという伯爵家であった。この時代、ドイツではシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝バルバロッサと、ヴェルフェン家の有力諸侯ハインリッヒ獅子公が、皇帝のイタリア政策を巡り対立していた。この両者の対立でハーフェルシュタインは皇帝側に付いた。バルバロッサがハインリッヒ獅子公を帝国追放処分としたことで、バルバロッサ側に立っていたエーフェルシュタインはその恩恵を受け、この地域に都市の建設に成功した。こうしてハーメルン市は商業による経済力の増加によって発展してくが、このことが後に争いの種となる。
この頃、ハーメルンの律院はフルダ修道院の管轄であった。しかし、フルダはハーメルンから直線距離でも200㎞以上離れている。地理的にハーメルンから遠く、フルダ修道院の影響は届きにくいことから、ハーメルン律院の院長も地元の守護職にあったエーフェルシュタイン家から選出されるようになる。こうしてフルダ修道院の影響はますます小さくなっていった。反対にエーフェルシュタイン家は1256年にフルダ修道院に対する税収の貢納を辞め、同家によるハーメルンの支配はますます強まっていく。
実質的な領邦君主としてハーメルンを支配するエーフェルシュタインのもとに立ちはだかったのが、バルバロッサにハインリッヒ獅子公が追放された後、鳴りを潜めていたブランシュヴァイク=リューネブルク家であった。同家は失地回復に向け動き出す。ヴェルフェン家はハノーファーに王国を建設し、1200年頃にはヴェ―ゼル沿岸への進出を狙っていた。その進路上にあったのが、ハーメルンのエーフェルシュタイン家であった。
1259年2月13日、フルダ修道院は実質的な支配権を失っていたハーメルン市を500シルバーマルクでミンデン司教区に売却した。当時、「マルク」という通貨単位は貨幣ではなく、重量の単位、つまり約500ポンドまたは250キログラムの純銀を意味していた。ハーメルン市はミンデン司教区にあり、もともとハーメルン市に対して支配権をもっていた。この時代、教会の司教は、世俗的な領主としての機能も持っていたため、ミンデン司教もハーメルン市における実質的な領土的支配を開始しようとした。
この売買契約はケルン大司教が仲介し、同司教からハーメルン市と同市を実行支配するエーフェルシュタイン家に対して、ミンデン司教を新しい領主とするよう通達が出された。ハーメルン市とエーフェルシュタイン家にとっては寝耳に水の話であった。当然、従うことはできない。自らを新領主として認めようとしないミンデン司教ウェデキンド(Wedekind)は、1260年7月28日、ハーメルン市とエーフェルシュタイン家に対して戦闘を開始する。ハーメルン側は戦闘で市内に影響が及ばないように、市外に出て迎撃の姿勢をとる。こうして今日のニーダーザクセン州のダイスター門(Deisterpforte)の南にあるゼーデミュンデ村の近くで戦闘が行われた。
戦いは、ハーメルン市民側の壊滅的な敗北で終わった。この戦いを生き延びたハーメルン市民もミンデンで捕虜となった。この捕虜と引き換えに、ハーメルン市に降服を呼び掛け、ハーメルン市は休戦を求めた。しかし捕虜の大半はこの時に殺害されたという。この戦闘に参加した正確な人数と死傷者数は明らかになっていない。
しかし、戦闘が終わった後に、ハーメルン市がヴェルフェン家のブランシュヴァイク公に救いを求めたことから、戦後、アルブレヒト1世とヨハン1世が、ハーメルン市の所有権を主張する。1260年9月13日、 ブランシュヴァイクーリューネブルク公爵アルブレヒト1世とヨハン1世は合意に達し、ミンデン司教はアルブレヒト1世とヨハン1世のふたりの公爵に収入の半分を譲渡したのだ。こうして最後に勝者となったのは、ヴェルフェン家のブランシュヴァイク公となった。長年ハーメルンを実行支配していたエーフェルシュタイン家は、1277年、ハーメルンの守護職をアルブレヒト1世に売却しなければならなくなった。エーフェルシュタインの本城やオーゼンの城もヴェルフェン家へと渡り、エーフェルシュタイン伯領は衰退していった。ハーメルンはミンデン司教の支配から解放されたが、今度はヴェルフェン家の支配に入ることとなる。こうしてハーメルン市は19世紀までヴェルフェン家の支配に取り込まれるのである。しかし、ヴェルフェン家を領主と認めることで、都市特権の承認を得たのであった。
1277年10月28日、アルブレヒト1世はハーメルン市民に特権を与えた。彼は自身の勢力圏をヴェーザー川にまで拡大することに注力し、ハーメルンを約2000人の住民を抱えるヴェルフェン家領の中心都市へと発展させた。ハーメルンの町はブラウンシュヴァイク公国にある4つの主要都市の1つへと成長した。おそらく15世紀には放棄されたと考えられるゼーデミュンデ村の敷地に、郷土史協会によって建てられた記念碑が建っており、13世紀にこの場所で行われた戦いの記憶を繋いでいる。
この戦い自体は、戦闘規模も小さいものであったが、なぜこの戦いの知名度がこれほどまでに高いのか?それはこの戦いが、《ハーメルンの笛吹き男》として知られる伝説のカギとなると長い間考えられてきたからである。
このゼデミュンデにおける戦いでは、多くの若い市民も犠牲となった。彼らは市の自由を守るために自らの命を捧げたのだった。1940年に、《ハーメルン市史》を書いたシュパヌートはこの事件を「130人の子供たちの失踪」と関連付けたのだった。この説では、「笛吹き男」は市民軍の先頭に立った「ラッパ吹き」だったことになる。この説は200年間、指示されていただけでなく、ハーメルン市当局もこの説を指示していたという。つまり、「130人の子供が失踪した」という事件は、祖国の自由を守った話として語られたのだった。
しかし、このゼデミュンデの戦いが起こったのは1260年であり、「130人の子供が失踪した」とされているのは1284年である。それぞれの事件の間には20年以上もの違いがある。さらに、このゼデミュンデの戦いの歴史は14世紀、15世紀の年代記ではっきりと記載されており、この戦争の記憶を伝える為に、あえて130人の子供が消えたという伝説を創作する必要がないのだ。
現在では、《ハーメルンの笛吹き男》の話で失踪したとされる130人の子供たちは、東方植民に関連しているという説が主流となり、《ゼデミュンデの戦い》に関連づける説は衰退している。しかし、戦闘によるハーメルン側の死傷者は多大なものであったことが分かっており、捕虜とされ残虐にも殺害された村人も多数いた事実が、失踪したとされる130名の子供たちとの因果関係を想起したとしても自然なことであったのかもしれない。
参考:
dewezet.de, “Schlacht von Sedemünder”, Viktor Meissner, 27.07.2017, https://www.dewezet.de/startseite_artikel,-schlacht-von-sedemuender-_arid,2390151.html
『ハーメルンの笛吹き男、伝説とその世界』、阿部謹也著、2008年、筑摩書房
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