ハーメルンの笛吹き男

ハーメルン

グリム兄弟も描いたハーメルンの笛吹き男 | ハーメルン博物館

ハーメルンはヴェーザー川の畔にある。13世紀末、この町は製粉業で栄え、その為、町中にネズミがはびこるようになった。困った市長は、道化師の男に報酬と引き換えにネズミの駆除を依頼したのだった。依頼をうけた道化師は、笛を吹くと、ネズミがぞろぞろと出てきては彼のあとをついていったのだった。男はネズミをヴェーザー川の畔まで連れて行くと、ネズミはどんどんと川に飛び込んでいく。見事、町のネズミは駆除されたのだった。ところが、問題が亡くなると、市長は支払いを惜しむようになり、男への報酬を払わなかったのだ。男はそのまま町を立ち去った。

1284年6月26日、男は町に戻ってきた。今度は笛を吹くと、その美しい音色に魅了された町中の子供たちが男の後ろについていき、そして町を出て行ってしまった。子供たちはハーメルン近くの山に消えて、そのまま消息が分からなくなった。子供たちの両親は心配したが、子供たちがどこに消えたのか、だれにもわからなかった。しばらくして、二人の子供だけが町に戻ってきた。1人は盲目で、もう1人は聾啞で話すことができなかった。盲目の子供は場所を指し示すことはできなかったが、起こったことについて物語ることはできた。一方、聾啞の子供は、何が起こったのか見たはずだが、言い聞かせることはできなかった。

これがハーメルンに伝わる伝承だ。日本では「ハーメルンの笛吹き男」と呼ぶが、ドイツでは「ネズミとりの男」(Rattenfänger)と呼ぶ。これは、正当な報酬を支払わなかった市長に対する戒めについてのお話ともとれるが、いずれにしてもハッピーエンドのおとぎ話などではなく、聞いた人を暗い気持ちにさせる。この不思議な物語は、毎年、多くの観光客をハーメルンへと誘っている。グリム兄弟も 1816年に「ハーメルンの子供たち」(Die Kinder von Hameln)というタイトルでこの話を物語っている。そしてこれはファンタジーではない。1284年6月26日、130名の子供たちが町から消えたことは、ハーメルン市の歴史台帳に出てくる事実である。

この物語を不気味なものにしているのは、まずネズミ捕りを生業としてる笛吹き男の存在だ。中世では、ネズミがペストやその他病原菌の媒介者であるとは知られていなかったが、穀物をむさぼり食うため、危険な害獣と見なされていた。また宗教的にも、ネズミは悪魔の生き物であると考えられていた。その為、ねずみを駆除してくれる作業員は、有用であるとの評価を受けていたが、死刑執行人たちと同様、社会生活の外側の人間だとみなされていた。また、ねずみ捕獲の際には巧妙な罠をしかけたり、毒を使って駆除を行うことから、黒魔術を使うのではないかといった噂もあった。こういった社会にとって一種特異な存在であったことから、社会にもなじむことはなく、仲間と移動しながら生活するものが多かったという。

もうひとつこの伝承を不気味なものにしているのは、誰の目にも目立つ派手な格好の男が、130名もの子供を連れ去るという荒唐無稽なお話であるのに、笛吹き男が町に戻った日にちが、1284年6月26日とはっきり記録されている点だ。話のすべてが歴史的事実でないにせよ、こういった点がこの伝承に真実味を与えている。

今日まで多くの憶測が語られてきた。子供たちは疫病の犠牲になったのだろうか?東方植民のために連れていかれたのだろうか?ハーメルン市民は真実を隠蔽するために、笛吹き男の話を作り上げたのだろうか?

町にある古い門にはラテン語で次の文章が刻まれている。

《1556年、今から272年前に、魔法使いが130人の子供を誘拐した後、門が設立された。》

門の石は2つの部分で構成されており、新しい方は1556年、古い方には1531年の刻印が刻まれている。これから272年を計算すると、1259年になる。この間に、ハーメルンにとって多くの犠牲が出た《セデミュンデの戦い》(Schlacht von Sedemünder)が起こっている。この時、子供たちは誘拐されたか、もしくは戦争で死んだのか?

ハーメルン博物館の壁には、古い教会の窓が掲げられている。これは、消失してしまった教会の窓のレプリカであり、元の日付は1300年のものだ。 1650年に目撃証言を参考にし、窓が複製された。それは、「笛吹き男」と行方不明の子供たちを表現している。信仰深く敬虔なハーメルン市民がなぜ、教会の窓を伝説的なお話で飾ろうとしたのだろうか?1592年の別の描写は、笛吹き男が子供たちを町からコッペンベルグと呼ばれる山に導いている様子を詳細な画像で表している。これは一体なぜなのか?

ハーメルンの旧市街には、ブンゲローゼン通り(Bungelosenstrasse)という通りがある。ブンゲというのは太鼓の古い用語で、ローゼンは「ない」という意味なので、「太鼓のない通り」。ハーメルンで子供たちが失踪して以来、この通りで音楽を演奏することは禁止されており、ハーメルンの人々は今日までこの戒めを守っている。当時、笛吹き男はこのルートを通ったと言われている。

古めかしい家屋の壁には、高さ約5メートルの場所に装飾梁が埋め込まれており、その碑文には、「1284年の6月26日、子供たちが姿を消し、ハーメルンからそう遠くはないコッペンベルグでその消息が途絶えた。」とある。

コッペンベルグ。この山は野生が残っており、鬱蒼とした森におおわれている。そして至るところに巨大な岩が聳えたっている。キリスト教が伝わる以前、土着の宗教の礼拝所があった場所だという。地元の歴史研究家、ゲルノート・ヒューサム(Gernot Hüsam)は、ハーメルンの子供たちはたびたびここで集会を開いていた。そして1284年6月26日にも、子供たちは異教の祭りを祝っていたと考えている。

異教徒とは単にキリスト教以外を信仰する人たちのことであり、必ずしもそのおどろおどろしい言葉の響きが連想させるような悪魔崇拝を指しているわけではない。しかし、異教徒の宗教儀式は、キリスト教の敬虔な信者であったシュピーゲルベルク伯爵(Grafen von Spiegelberg)にとっては看過できなかった。 シュピーゲルベルク伯爵の3人の兄弟は、コッペンベルグ近くのコッペンブリュッゲ城(Burg Coppenbrügge)に住んでいた。伯爵とその傭兵は子供たちを待ち伏せし、殺害させたのだはないか?伯爵は死体を洞窟に隠し、その入り口を埋めて痕跡を隠した。

この殺人説が正しければ、なぜハーメルン市民は伯爵を起訴しなかったのか?ハーメルン市民はおそらく伯爵や教会当局に対する恐れから、子供たちが行っていた異教との儀式への関係を疑われることを避けたかったのではないか?あるいは〈異教徒〉というレッテルは、単に教会税を支払わなかった人々に付けられた呼称であったのかもしれない。教会税の支払いを拒み、その家の子供が連れ去らわれた・・・ 悲しみのやり場のなくなったハーメルン市民は、子供たちの失踪を隠すために笛吹き男のおとぎ話を作り出した。悲しみに沈んだハーメルン市民は、子供たちのことを忘れない為に、そして後世へのメッセージとして、彼らを描いた教会の窓を取り付けた。この説を裏付けるものとして、ハーメルン市立博物館に保存されている1592年の絵画には、そのヒントが隠されているという。

左に大きく描かれた笛を吹く道化師の男。右側には、道化師を先頭にコッペンベルクと思われる山を登っていく子供たちの様子が描かれている。不思議なのは、絵の中央に描かれた鹿だ。なぜここに不自然にも鹿を描く必要があったのか。しかも3頭。子供たちの殺害に関与したと思われるシュピーゲルベルク伯爵は3兄弟、そしてシュピーゲルベルク家の紋章は、前足を高く蹴り上げた鹿であった。

シュピーゲルベルク家の紋章(Source: biel-antiquariat.de)

これは単なる偶然か、それとも隠されたメッセージか。またコッペンベルクの山中に通じている巨大な洞窟の存在。これは笛吹き男の伝承ではつねに登場し、グリム兄弟も自身の本のなかで言及している。しかし、実際にはそのような洞窟は見つかっていない。これは子供たちの死体を隠した後、埋めた証拠だろうか。

現在、もっとも有力視されているのが、東方植民に関する説だ。東方植民は、貴族や領主が行っていた。入植者が、自由農民として耕作できる土地があることを保証した。入植者の募集については、《ロカトール》(Lokator)と呼ばれる専門のものにまかせた。《ロカトール》とは、一種の移民リクルーターとでもいったところだろう。募集を行うものは、注目を集める為、明るい色の服を身に着け、太鼓や笛などの楽器で音楽を奏でたという。訪れた町や村では、若者にアプローチした。当時は一家の長男のみが土地を相続できる時代である。土地を相続できる見込みのない農家の次男や三男にとっては、土地を持てる希望、冒険への渇望など、若者を移住へと駆り立てる要素は少なからず存在した。

ハーメルンの場合も、こういったリクルーターが大成功を収めた一例ではないか。13世紀の東部植民地化は、バルカン半島のモラビア、東プロイセン、トランシルバニアなどに焦点を当てていた。ハーメルンから1千キロ以上離れた場所である。子供たちが故郷に戻ることは二度となかってであろう。ゲッティンゲン大学の言語学者であるユルゲン・ウドルフ(Jürgen Udolph)も、この説をとっている。

ウドルフ教授は、子供たちの失踪の理由が東方植民であったという説の証拠として、10を超える地名と苗字の相関を発見したと主張している。ヴェーザー河畔のベヴェリンゲン(Beverungen)という地名は、わずかに地名が変わっているものの、今日のポーランドに向かうハイキングルートで2度見つかる。プリッツヴァルク(Pritzwalk)近くのベヴェリンゲンと、ポンメルン地方のシュタルガルト(Stargard)近くのベヴェリンゲン(現在のボブロブニキ)だ。ハーメルン近郊のハーメルンスプリングからの入植者も、ウッカーマーク(Uckermark)に彼らの痕跡を残した。それが、ベルリンの北にあるハンメルシュプリングだ。

ヴェストファーレン地方の歴史家、フリードリッヒ・フォン・クロッケ(Friedrich von Klocke)や、チェコのトロッパウ市(Troppau)のアーキビストであるヴォルフガング・ヴァン(Wolfgang Wann)などは、東部の入植者が今日のチェコ共和国、特に「ホッツェンプロッツのオロモウツ教区」(Olmützer Bistumsland von Hotzenplotz)でモラビアの方向に姿を消したと信じていた。

オロモウツの司教ブルーノ・フォン・シャウムブルク(Bruno von Schaumburg)は、13世紀の後半に自身の出身地から騎士たちを招集しており、モラビアのドイツ人入植地においても中心的な役割を果たした。ヴァーツラフ1世の治世中、モンゴル軍がシレジア南部地域に侵入。モラビアを含む地域全体を荒廃させ、人口を大きく減らした。オタカル2世は、1253年の就任後、モンゴル襲来によって過疎化されていたこの国の人口を増加させることに最大の関心を持っていた。ブルーノ・フォン・シャウムブルクは、テューリンゲン、フランケン、シュヴァーベン地方からロケーターを招集した。彼らロカトールが連れてきた入植者によって、モラビアの町や村は活気づき、ブルーノ司教はシェーンヘングストガウ(Schönhengstgau)とクーレントヒェン(Kuhländchen)の約200の村と町の創設者となったのだった。

この事実から判断するに、オロモウツのブルーノ司教の関与は疑われる。しかし、ブルーノ・フォン・シャウムブルクは、1281年2月に他界している。ハーメルンの子供失踪事件の起こる3年以上前である。それでもこの説をとるなら、前述のシュピーゲルベルク家の伯爵も東方植民事業において重要な役割を果たしたのではないかという疑念も生まれる。子供たちはこの時代の組織的な東方植民活動に関係しているのだろうか?

オロモウツの司教ブルーノ・フォン・シャウムブルク

また、失踪した「子供たち」というのは比喩的な意味で「ハーメルン市の子供たち」すなわち、大人も含まれていたという説もある。1940年代後半以降、「子供たち」が失踪したのは誘拐ではなく移民であるという説が繰り返し提唱されてきた。この場合、笛吹き男は、東方植民地を宣伝した広告塔ということになる。

また、今日でも根強く語られている説のひとつが少年十字軍に参加したとする説だ。ドイツ、フランスから希望を抱いて十字軍に参加した子供たちが、最後は奴隷として売り飛ばされてしまったという悲しい話である。こちらは紛れもない歴史的事実であり、両者の繋がりを指摘するのはもっともである。こちらも土地相続の望みがない農家の次男坊、三男坊が中心となり、明るい未来を思い描いて、希望に満ちて出発したという意味では東方植民と類似している。行き先が東か南かという違いだけだ。ただこの少年十字軍は、その発生が13世紀の初めと、ハーメルンで子供たちが失踪した時期よりも数十年も前の出来事であり、正確な時代考証に立つとこの説にも不都合が現れる。

失踪した子供たちは「ゼデミュンデの戦い」で亡くなったとする説、「少年十字軍」に参加したとする説、あるいは「東方植民」に参加したとする説。これらは、どれも歴史的事実として残っている出来事である。どうして、それらの出来事をおとぎ話の形で再構築する必要があったのだろうか?

いずれにせよ、伝説の謎を歴史的事実から解明しようとすると、最後には袋小路にはまる。どの理論についても推論の域を出ず、確固たる証拠は存在しないからだ。多くの学者・研究者が130名の子供たちの行方を追っているが、失踪したとされる子供たちはそもそも本当に存在したのだろうか?存在したのであれば、どうしてそのうちの一人でも名前が伝えられていないのだろうか?ハーメルン博物館の館長、ステファン・ダーバーノウ(Stefan Daberkow)は、ハーメルンの子供たちの失踪に関するどの理論にも懐疑的だという。

ダーバーノウは言う。

「結局のところ、笛吹き男の伝説は歴史上最も成功したデマなのではないか。」

参考:

hameln.de, “Der bunte Pfeifer, um den sich die Mythen ranken”, https://www.hameln.de/de/der-rattenfaenger/die-rattenfaengersage/der-rattenfaenger-von-hameln-raetselhaft-und-legendaer/

planet-wissen.de, “Der Rattenfänger von Hameln”, Alfried Schmitz, https://www.planet-wissen.de/natur/haustiere/ratten/pwiederrattenfaengervonhameln100.html

dewezet.de, “Schlacht von Sedemünder”, Viktor Meissner, 27.07.2017, https://www.dewezet.de/startseite_artikel,-schlacht-von-sedemuender-_arid,2390151.html

welt.de, “Das Geheimnis des Rattenfängers von Hameln”, Jan von Flocken, 26.04.2011, https://www.welt.de/kultur/history/article13259016/Das-Geheimnis-des-Rattenfaengers-von-Hameln.html

spiegel.de, “Siedlertreck nach Osten”, 01.02.1998, https://www.spiegel.de/politik/siedlertreck-nach-osten-a-4659683b-0002-0001-0000-000007810516

zwittau.de, “BRUNO VON SCHAUMBURG (SCHAUENBURG) UND HOLSTEIN”, http://www.zwittau.de/chronik_boehmen-maehren/brunovonschaumburg.htm

『ハーメルンの笛吹き男ー伝説とその世界ー』、阿部謹也著、筑摩書房

コメント

タイトルとURLをコピーしました