【ドイツの歴史】ケルン大司教列伝 ①

ケルン

ケルン大司教はドイツと神聖ローマ帝国のなかで重要な役割を担ってきた。中世以来、ケルン大司教は、《選帝侯》という神聖ローマ皇帝を選ぶ特権をもつ諸侯のひとりであった。カール4世が定めた金印勅書以来、この選帝侯は帝国内にわずか7名しか存在せず、この7名の選帝侯は絶大な権力を誇った。その為、次期皇帝を自家から出そうとするドイツの有力貴族は、これら選帝侯に時にはすり寄り、時には金銭を送り、ご機嫌を伺いながら皇帝選挙を優位に運ぼうとしたのであった。それら選帝侯のなかでも、ケルン大司教はカール大帝以来、特別な地位を気づいてきた。ケルン自体がカール大帝所縁の地であるアーヘンに近いという地政学的な理由もあった。オットー大帝の時代には、ケルン大司教は皇帝と血縁関係をもつ有力諸侯であり、その権勢はその後も数百年に渡って続くのである。宗教的影響力だけでなく、世俗的な政治権力をもった歴代ケルン大司教のなかでも、特に重要な人物について、その業績やエピソードを振り返ってみたい。

マテルヌス司教 | ケルン最初の司教

313年のローマ教会会議(Synode von Rom)と314年のアルル教会会議(Synode von Arles)に関する文書において、マテルヌス(Maternus)という人物がケルン司教として言及されている。この人物がケルンの司教として言及されていることで確定できるのは、すでにこの時代、ケルンには組織化されたキリスト教コミュニティが確立されていたということだ。
マテルヌスはローマ教会の集会で裁判官としての任務を遂行しており、ケルン司教はゲルマン地方だけにとどまらず、ローマ教会全体で高い名声を得ていたと思われる。マテルヌス司教はコンスタンティヌス皇帝と個人的に知己を得ていた可能性がある。コンスタンティヌス皇帝はケルンに滞在していた記録があるが、マテルヌスがライン下流地域の宣教師であったかどうかはわかっていない。

マテルヌスの生と死、そして仕事については信頼できる情報が欠けている。伝説では、彼はケルンに来る前はトリアーの司教であったと言われているが、現在、研究ではその事実の大部分が否定されている。同様に、マテルヌスによるベルギーのトンゲレン主教区(Bistums Tongeren)の創設の伝統もおそらく事実ではないと思われる。
不思議なことに、マテルヌスに対する個人的な崇拝はケルン司教区においても行われなかったどころか、マテルヌスの存在はしばらく忘れさられていた。中世以前は埋葬地さえ知られておらず、聖人として崇拝された形跡もない。

今日では、ケルンの南とケルン-ローデンキルヒェン(Köln-Rodenkirchen)にひとつずつマテルヌスの名前を冠した教会が残っている。ケルン大司教区では毎年9月11日を聖人マテルヌスの祝日としている。

マテルヌスに関する言及は、ケルン主教区がトリーアに続いてドイツで最も早く知られている主教区であったことを意味している。 マテルヌス司教の後には、794以降から現在までに93名が司教または大司教として就任している。

セヴェリン司教 | 聖マルタンの弟子

セヴェリン司教(Severin)はケルンのキリスト教会における最初期の人物である。彼の時代の教会がどのように組織・運営されていたのか、当時のキリスト教徒がちがどこに集まったかについてはあまり知られていない。セヴェリンはケルンで司教に指名された人物としては3番目であった。歴史的な詳細はほとんど伝わっておらず、伝説的な物語だけが今日に語り継がれている。
セヴェリンは、トゥールのマルティヌス司教(聖マルタン)の伝記に登場する。聖マルタンが397年に亡くなったとき、彼の弟子であり友人であるケルンのセヴェリン司教は、聖マルタンが天使によって天国へと運ばれるビジョンを見たと言われている。この伝承から、紀元400年頃にはセヴェリンはケルン大司教であったと考えられる。

セヴェリンの人生についてはほとんど知られていないが、聖人として崇拝されていたことはよく知られている。ケルンの聖セヴェリン教会がそうだ。ケルンにある今日のセヴェリン教会の元の建物は4世紀にローマの墓地跡に建てられたため、教会は非常に古いものだ。遅くとも6世紀にはすでにセヴェリヌス崇拝の明らかな痕跡が見られる。今日、教会の内陣の高いところにセヴェリンの骨が納められた霊廟がある。カラフルな織物、木の破片、その他のアイテムが見つかっている。これらはすべて5世紀から10世紀にかけてセヴェリン崇拝が行われていた証拠である。

ケルン大聖堂のセヴェリン霊廟 (Source:wikipedia.de)

ケルン大司教区には他にもセヴェリンの名を冠する教会が11か所もあることから、この司教の人気のほどがうかがえる。その人気を示すもう一つの証拠は、「セヴェリン」に由来する名前が現在でも各地に残っていることだ。たとえば、ライン地方の名前《フリングス》(Frings)またスカンジナビアのファーストネームに見られる《セレン》(Sören)などがそれに当たる。

セヴェリンはケルン市の守護聖人の一人になっており、 彼の名前はセヴェリン橋(Severinsbrücke)やセヴェリン地区(Severinsviertel)など、ケルンでの生活に頻繁に登場する。さらに、聖セヴェリン教会で毎週行われるセヴェリン市場でも彼の名前は残っている。

セヴェリン橋(Source:wikipedia.de)

ヒルデボルト大司教 | カール大帝に任命された大司教

800年頃にケルンに古い大聖堂を建て始めたのはおそらくヒルデボルド司教(Hildebold)であったと言われている。今日我々が目にする大聖堂の前身として建てられていたのは、中世初期の巨大な教会の複合体であった。ヒルデボルドは791年以来、カール大帝の「宮廷礼拝堂」を率いていた。

ヒルデボルドはカール大帝の最も重要な顧問であると同時に親しい友人でもあり、教会権力と世俗的権力の間に強いつながりが存在したことが認められる。つまり、教会と皇帝権力は相互補完の関係にあった。
795年頃から、ヒルデボルドはカール大帝から「大司教」の称号を授けられた。在職中、ケルン教区も大司教区の地位に引き上げられた。遺書の中でカール大帝はケルンを「ローマに次ぐキリストの最も優雅な花嫁」と表現している。ヒルデボルド大司教の在職期間中、今日まで続くケルン大司教区の卓越した地位に対する基盤が築かれたのだ。ケルン大司教区は今日214万人のカトリック教徒が擁し、ドイツ語圏で最大の主教区となっている。

ブルノ1世大司教 | 皇帝オットー1世の弟

ブルノはザクセン朝の始祖、ハインリッヒ1世の息子として生まれた。つまり兄は初代神聖ローマ皇帝となるオットー1世であり、ブルノは歴代ケルン大司教の中でも突出した家柄の出である。まだ幼少の頃から司祭となり、ユトレヒト大聖堂付属の学校(Utrechter Domschule)で教育を受けた。その後、わずか15歳の兄オットー1世は弟を宮廷に呼び寄せた。当時の宮廷は権力の中心であるだけでなく、知的・精神的な支柱でもあった。当時は皇帝の所在も一か所に定まっていない移動宮廷の時代であり、ブルノも兄に付き従って帝国全土を周ることとなった。

幼い頃、ブルノは帝国宰相兼大司教に就任し、宮廷の中心人物となった。 953年、オットー1世はブルノをロートリンゲン公に任じた。ロートリンゲン公領にはラインラント北部も含まれる。こうしてブルノがラインラントとのつながりを築いたことで、兄であるオットーもこの地方における権力を確かなものにすることができたのだ。同じ年にブルノはケルン大司教にも就任。オットー1世が神聖ローマ皇帝に戴冠するためイタリアへと旅立った時、ブルノはマインツ大司教と共に皇帝の代理人を務めた。戴冠式の後、皇帝はケルン大聖堂の隣にある宮廷で3日間の華やかな祝祭を催した。
ブルノは非常に高い教育を受けていたこともあり、高位聖職者の教育を改善し、そして才能のある人々を次々と宮廷に採用していった。こうして知的エリート達が重要な司教区を受け持つようになっていった。 この時代、皇帝権力と教会権力は互いを補完し合う理想的な関係を保っていたといえる。
ブルノの地位と皇帝との関係は、自身が12年間務めたケルン大司教区にも当然影響を与えた。ブルノは大聖堂を拡張し、とりわけ聖アンドレアス教会(St. Andreas)、聖マルチン教会(Groß St. Martin)、カピトールの聖マリア教会(St. Maria im Kapitol)といったケルンの教会、そして自身の安息の場となった聖パンタレオン教会(St. Pantaleon)を設立した。当時の人々はブルノを《聖ケルン》(Sancta Colonia)と呼び、コインを鋳造し、ブルノの名前をヨーロッパ中に広めた。

聖パンタレオン教会(Source:wikipedia.de)
ブルノ大司教の棺 (Source:wikipedia.de)

ブルノは自身が手にしていた権力と影響力にも関わらず、敬虔な僧侶としての性格を失わなかったと言われる。数々の修道院を創設したことでもわかるように、非常に信仰が厚かったブルノは、その死後すぐに列聖されたのだった。

ゲロ大司教 | ビサンツから皇女テオファヌを連れてきた大司教

他のケルン大司教と同様、ゲロ(Gero)はオットー朝の皇帝顧問を務めていた。948年にはケルン大聖堂とヒルデスハイム教会の律宗司祭であったと考えられるが、司祭になったのは18年後の966年であった。 969年に行われたケルン大司教を選ぶ選挙では、ゲロの兄であるマイセン辺境伯ティートマール1世(Thietmar I)が皇帝オットー1世と対立していたため、皇帝はゲロの大司教選出を保留した。

これまで宮廷で重要な地位を占めてはいなかったように思えるゲロ大司教だが、971年、外交上特に重要な「東西プロジェクト」によって歴史に名前を残すことになる。このプロジェクトとは、皇帝オットー1世を代表して、ビサンツ皇帝のもとに赴き、皇帝の息子の為に花嫁を探してくるというものだ。ゲロ大司教がこの政治的に極めて重要な使命を果たした結果、皇女テオファヌは現在のイスタンブールからローマへと旅立つ。972年、ローマ教皇が儀式を執り行うなか、ビサンツ皇女テオファヌはすでにオットー1世の共治王を務めていた息子のオットー2世と結婚したのである。これは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と新たに形作られた西ローマ帝国との一種の融合であった。この東西融合はオットー朝の名声を大いに高めた。

ビザンツ帝国滞在中、ゲロ大司教は聖パンタレオンを含む様々な聖人の遺物をビサンツ皇帝から受け取っている。またテオファヌと共に多くの芸術家や職人がケルンにやって来た。 彼らはビザンツ芸術をオットー朝にもたらし、ケルンへと広めた。

ゲロ大司教は自身の名前にちなんで名付けられたと考えられる《ゲロの十字架》(Gero Kreuz)なる壮麗な十字架を残しており、現在はケルン大聖堂で目にすることができる。ビザンツ芸術の影響は、例えばケルンで作成された本の挿絵や金細工職人の技術にも見受けられる。建築と学問の分野でもビサンツからもたらされた恩恵は少なくなかった。

ゲロの十字架(Source:koeln-dom.de)

ゲロは出家生活を促進し、ハルツ山地にある一族の領地に修道院を設立した。ゲロはケルン大司教区のライヒリンゲン(Leichlingen)に修道院を計画したが、計画を変更し、当時はまだリエージュ教区に属していたメンヒェングラートバッハ(Mönchengladbach)に聖ヴィート修道院(Abtei St. Vitus)を設立。現在はデュッセルドルフに属しているゲレスハイム(Gerresheim)にも修道院教会を設立している。

ヘリベルト大司教 | 神聖ローマ皇帝オットー3世の友人

ラインマイン地方出身のヘリベルト(Heribert)は、ヴォルムス大聖堂学校とゴルツ修道院(Abtei Gorze)で教育を受けている。ヴォルムスでは大聖堂のプロボストを務めている。ヘリベルトは帝国カトリック教会の強力な代理人として見なされている。

ヘリベルトは神聖ローマ皇帝オットー3世の親しい友人であり、オットーが治める帝国においてイタリアとドイツの帝国宰相を務めた。999年、オットー3世からの強力な後押しを受け、ケルン大司教に選出された。しかし、オットーが若くしてこの世を去った後は、ヘリベルトもその政治的影響力を失ってしまう。オットー3世の跡を継いだハインリッヒ2世との関係は緊張したままであった。

それ以来、ヘリベルトは自身の高い教育レベルと経験を活かし、ケルン司教区の運営に集中した。1003年、現在のケルン・ドイツ(Köln Deutz)にベネディクト会修道院を設立し、ラヴェンナとアーヘンの教会をモデルとして印象的な丸いフォルムの教会を建てたが、1376年に破壊されたため、現存はしていない。ヘリベルトは芸術的で精神的な生活を促進し、いくつかの既存の修道院を改革した。

ヘリベルトはケルンのグロス聖マーティン修道院(Stift Groß St. Martin)をベネディクト会修道院へと改築した。またヘリベルトは商才に富んだユダヤ人を保護することで、ケルンの経済活動を促進したばかりでなく、福祉も改善したと言われる。飢餓が発生し、近隣地域からケルンへと逃げてきた人々にヘルベルトは食糧、衣類そして住居を提供した。彼はまたケルンに慈善団体を設立し、ケルン市外でも同様の試みを行った。

ヘリベルトは若い頃の理想の修道院生活に従って、生涯を通じて非常に謙虚であり続け、貧しい人々を積極的に世話した。 死後はケルン・ドイツにある修道院教会に埋葬され、人々はヘリベルト大司教に対する礼拝を行っている。 彼の後継者でさえヘリベルトを《聖ヘリベルト》と形容した。ケルン・ドイツにある教会は今でもヘリベルトの名前を冠しており、彼の遺骨が納められた聖箱は何世紀にもわたって崇拝の対象となっている。

ケルン・ドイツにあるヘリベルト教会 (Source:wikipedia.de)

参考:

thema.erzbistum-koeln.de, “Große Geschichite 1700 Jahre Erzbistum Köln”, https://thema.erzbistum-koeln.de/grosse-geschichte/bischoefe

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