ウルム博物館 

ウルム

ウルム大聖堂からほど近い場所にあるウルム博物館は、1924年に設立された博物館であり、ウルムにある芸術、考古学、都市の文化史に関する展示物を扱った博物館だ。展示品は、ウルム地域の先史時代および初期の考古学的発見から、ウルムおよびアッパーシュヴァーベンで作られた後期(国際)ゴシックおよびルネサンスの絵画や彫刻にまで及んでいる。 ウルムは古くから手工芸品でも有名であったが、この地域の手工芸組合による16世紀から19世紀の作品コレクションも紹介されている。

聖マリア・マグダレーナの聖遺物容れ。ミヒェル・エアハルト作(1469ー1522)。ウルム、1475‐80年頃の作。素材:菩提樹。後期ゴシック様式。この胸像は20世紀初頭に博物館が入手。胸元の四角い蓋は、この胸像が聖遺物容れに使用されていたことを示唆している。聖遺物が胸像の中に収められ、豪華な留め金で閉められたようだが、その鍵は中の聖遺物同様失われてしまった。その豪華な服装によって、この人物はマリア・マグダレーナであると推測される。ウルムでも宗教改革が起こったことで、聖遺物そのものも、その意味を失ってしまった。そして、いつ頃からかリュスターヴァイプヒェン(Lüsterweibchen)として使用されるようになった。リュスターヴァイプヒェンとは、木製の女性像をあしらったシャンデリアのことだ。

ミヒェル・エアハルトは、1474年頃までにウルムに工房を構え、息子のグレゴール・エアハルト(Gregor Erhart)とベルンハルト・エアハルト(Bernhard Erhart)を含む数人の職人とともに働いていたと思われる。 エアハルトは著名なオランダ人彫刻家ニクラス・ゲルハルト・ファン・ライデン(Niclas Gerhaert van Leyden)のスタイルに影響を受けており、ストラスブールの彼の工房で働きながら、彼の作品について学んだと思われる。ブラウボイレン修道院(Kloster Blaubeuren)の主祭壇は、ミヒェル・エアハルトと1494 年にアウグスブルクに移り住んだ息子のグレゴール エアハルトとの共作である。また、ウルム旧市街にあるフィッシュカシュテン噴水(Fischkastenbrunnen)にある騎士の彫刻もミヒェル・エアハルトの作である。

子供を抱いたマリア像。作者不明。おそらくウルムのヴェンゲン教会蔵であった。ウルム、1510‐15年頃。素材:菩提樹。オリジナルの像の残りに17世紀に加工が施された。

聖ゲオルク。ベネディクト会修道会所蔵。バルトロメウス・ツァイトブロム(Bartholomäus Zeitblom)の工房作。ウルム、1495年作。シュトゥットガルト州立ギャラリーからの永久貸与。ツァイトブロムはネルトリンゲンで生まれ、ウルムで活躍した画家である。ウルム大聖堂の近く、プファウエンガッセ (Pfauengasse)3番地に工房を構えていた。ブラウボイレン修道院(Kloster Blaubeuren)の主祭壇やテュービンゲン近郊のキルヒベルク(Kilchberg)城礼拝堂の祭壇画をはじめ、数々の祭壇画を手掛け、1500年頃のウルムでは最も人気のある画家であった。1519年に流行したペストで死亡したと考えられる。

最後の晩餐。ウルム、1470年作。エルティンゲン(Ertingen)のカトリック教区事務所蔵であったもの。

ピエタ。作者不明。オーバー・シュヴァーベン、1730年作。素材:広葉樹。

受胎告知。ダニエル・マウフ(Daniel Mauch)作。ウルム、1510/15年頃。素材:広葉樹と針葉樹。マウフはウルムで生まれ、彫刻家として後期ゴシック様式のさまざまな祭壇画製作に取り組んだ。ウルム学派最大の芸術家としても知られる。1503年、マウフは大聖堂から500mほど離れたコルンハウスガッセ(Kornhausgasse)に自分の工房を開いている。1531年にウルムでの宗教改革とそれに伴う偶像破壊により、マウフの工房も経済的に低迷した。マウフは1540年にリエージュで亡くなっている。デュッセルドルフのクンストパラストに常設展示されている【三日月のマドンナ】(Madonna auf der Mondsichel もしくは、Oertel-Madonna)は長らく作者不明とされてきたが、今日ではマウフの作品であると考えられている。

キリストの復活。マルティン・シャッフナー(Martin Schaffner)作。ウルム、1516年頃の作。シュトゥットガルト州立ギャラリーからの永久貸与。マルティン・シャッフナーはウルム大聖堂の主祭壇を手掛けたウルム派の画家である。シャッフナーは、ウルムでバルトロメウス・ツァイトブロムに学んだ可能性があり、後にはアウクスブルクに移り、ハンス・ホルバイン(年長)のもとで学んでいる。シャッフナーの作品は、アルブレヒト・デューラーやハンス・ブルクマイル(Hans Burgkmair)の影響も受けているとされる。ウルムで画家活動を行っていたが、ウルムで宗教改革が起こった後は、わずかな作成依頼しか受けることがなかったという。

マテウス・キーヒェル(Matthäus Kiechel)所蔵であった家庭用の聖書。1596年に寄付。1589年、フランクフルト・アム・マインにて、ヨハネス・ファイアーアーベント(Johannes Feierabend)によって印刷された。この聖書の中には、マテウス・キーヒェルが1596年の5月28日に記入した手書きの覚書が、見開きのページに残されている。覚書には、彼がこの聖書を礼拝堂に寄付したことが書かれている。マテウス・キーヒェルは、ウルムの裕福な商人であり、市議会議員でもあった。ウルム美術館の最古の棟は、【キールハウス】(Kiechelhaus)と呼ばれるが、これは16世紀にここがマテウス・キーヒェル一家の邸宅であったからである。

この「ライオンメンシュ(ライオン人間)」と名付けられた置物は、このウルム博物館の一番の見どころとなっている。以前は、「ライオンマン」と呼ばれていた。ホーレンシュタイン・シュテーデルで発見された置物は、1939年にドイツの洞窟であるホーレンシュタイン・シュテーデルで発見された先史時代の象牙の彫刻であり、これは世界最古の動物の形をした彫刻である。動物の擬人化とも神の表現であるとも言われている。置物は高さ31.1 cm、幅5.6 cm、厚さ5.9 cmである。

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