シューマンは、1810年、5人兄弟の末子っとしてツヴィッカウ(Zwickau)で生まれている。シューマンは幼いころからハイネの詩に触れ、シューマンが17歳の時に一度だけミュンヘンでハイネと出会っている。
シューマンの歌曲の多くは1840年に書かれており、この年は《歌曲の年》と呼ばれている。シューマンを代表する曲である《詩人の恋》(Dichterliebe)も、「歌曲の年」に作られた曲であり、名曲としての評価を得ている。
ドレスデンで活動していたシューマンがデュッセルドルフにやってきたのは1850年。デュッセルドルフの音楽監督としてのポストを得たことが理由だった。デュッセルドルフで活動を始めたわずか3年半の間に、シューマンの作品の多くが制作され、作品全体の約3分の1を占めた。デュッセルドルフに生まれたハイネと、晩年をデュッセルドルフで過ごしたシューマン。二人がともに創作活動を行った時間はわずかであったが、その間に《詩人の恋》という傑作を生みだした。ハイネ記念館のすぐ近くに、シューマン記念館が佇んでいる。
シューマンの人生については、彼の作品に影響を与え続けたクララの存在にも言及する必要がある。音楽家としてのキャリアだけでなく、私生活でも困難の連続であったシューマンであったが、クララとの恋愛にも多くの紆余曲折があった。
シューマンは学生時代、その厳格な指導で有名であったピアノ教師フリードリヒ・ヴィークに師事するようになる。ヴィークの娘クララは当時まだ9歳だった。1830年頃から、シューマンはヴィークの家に住み込みでレッスンを受けることとなる。厳しく気難しいヴィークの指導に不満を募らせたり、練習のし過ぎで指を故障し、一度はピアニストをあきらめるなどの挫折を味わっている。シューマンはヴィークの新しい弟子として住み込みを始めたエルネスティーネと恋愛関係となり婚約まで発展したが、その後、婚約を解消している。この頃から、シューマンはクララとの恋愛が本格的に進展しはじめる。
しかしシューマンとクララの関係に気づいたヴィークは、クララをライプツィヒからドレスデンに移り住まわせたり、娘のクララをシューマンから遠ざけるためにあらゆる試みをするのだった。その度に、シューマンはクララへの愛情を強め、クララの後を追いかけるのだった。しかし、ヴィークは二人の恋愛関係を絶対に許さず、シューマンが自身の家へ出入りすることを禁止し、クララに合うことを徹底的に禁じている。ヴィークはシューマンに罵詈雑言を浴びせたり、顔につばを吐いたこともあったという。
父親からの執拗な妨害工作で疲れ、一度はシューマンとの別れも覚悟したクララだったが、シューマンから贈られた《ピアノソナタ第1番》を弾いてシューマンの気持ちに応えた。二人は結婚を決意したのだ。シューマンはヴィークと話合いの場を設けたが、そこでも結婚の許可を得られなかった。ヴィークはクララと演奏旅行に出かけ、シューマンとクララの距離はまた遠ざかる。しかし、二人とも何とか連絡を取り合い、気持ちを支えあった。
ヴィークとの和解は不可能と考えたシューマンは、1839年、クララの同意を得て、ヴィークと訴訟を起こしている。そして翌年、シューマンとクララの結婚を許可する判決が下され、二人の結婚が成立した。結婚式にはフランツ・リストも出席し、二人を祝ったという。
結婚後、二人は幸せな家庭生活を開始し、二人の間には8人もの子供が生まれた。ともに音楽家であった二人の生活は時にはうまく行かないこともあったという。特にクララは、音楽家としての仕事と主婦としての仕事の両立に苦しんだという。しかし、お互いの境遇に理解を示し、二人は支えあった。
晩年、シューマンは精神障害を発症してしまう。病気に苦しみ、自身の人生を悲観したシューマンは自殺未遂を起こす。ライン川から身を投げたのだったが、飛び込むところを偶然にも漁師が目撃しており、救助されたのだった。その後、シューマンは、ボン近郊エンデニヒの療養所に入り、晩年の2年間をそこで過ごしている。
ある日、病院から危急を知らせを受け取ったクララは、すぐにシューマンのもとに向かった。この時のことをクララが後に述懐している。「それは夕方6時から7時のころのことでした。彼は私を認めて微笑み、非常な努力を払って―もうその頃、彼は四肢の自由がきかなくなっていました―彼の腕を私に回しました。私はそれを決して忘れません。世界中の宝を持ってしても、この抱擁にはかえられないでしょう」
シューマンが息を引き取ったエンデニヒの療養所は、現在、シューマン記念館となっている。
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