ヘッセンから来た弓の名手

マールブルク

ヘッセン方伯の息子オットー

ヘッセン方伯のハインリヒ鉄公(Heinrich der Eiserne)は、2人の息子と1人の娘をもうけた。彼は長男のハインリッヒに国を継承するように命じ、もう一人の息子オットーには学校で勉強してから聖職者になるように命じた。しかし、オットーは聖職者になることには興味を示さず、2頭の良い馬を購入し、良い鎧と強力な弓矢を手に入れ、父親に気づかれぬよう出馬した。ライン川沿いのクレーフェ公国の宮廷に来たとき、彼は射手のふりをして奉仕を求めた。クレーフェ公は彼の立派で力強い姿が気に入り、喜んで彼を雇い入れた。オットーはまた、芸術的で良く訓練された射手であることを示したので、クレーフェ公はすぐに彼を昇進させ、他の人よりも彼に信頼を置いた。

その間、彼の兄であるハインリッヒが早逝。ハインリッヒの妹が嫁いでいたブラウンシュヴァイク公は、嫁の父親であるハインリッヒ鉄公の死を待ち望んでいた。嫁のもう一人の兄であるオットーについては誰も知らず、死んだと思われていた。誰もがブランシュヴァイク公に不満を持っていたことから、ヘッセンの領民はこの状況について悲しみに暮れていた。その間、オットーはクレーフェ公の良き兵となり、公爵の娘であるエリザベートとも愛を育んでいたが、自身の高貴な血統についてはまだ秘密にしていた。

この状況は、ある男が登場するまで数年間続いた。アーヘンへの巡礼に向かう途中であったハインリヒ・フォン・ホンブルグ(Heinrich von Homburg)というヘッセンの貴族が、途中でクレーフェに立ち寄り、なんとそこで昔から知っていた公爵を発見したのだ。その騎士はオットーを見るなり、直ぐに主人であることを見抜き、当然のように主君の前で頭を垂れた。これに驚いたのはクレーフェ公である。騎士が自分の射手に対して敬意を表したことに驚き、この騎士を呼んで、すべてを打ち明けるように言った。そして、クレーフェ公はヘッセンの全領土の命運が、自分のお気に入りの射手にかかっていることを知った。クレーフェ公は喜んでオットーに娘を授け、オットーは花嫁と一緒にヘッセンのマールブルクへと引っ越していったのだった。

歴史上のハインリッヒとオットー親子

1321年、ハインリッヒ鉄公こと、ハインリッヒ2世は、マイセン公フリードリヒの娘であるテューリンゲンのエリザベートと結婚した。ハインリッヒはエリザベートを姦淫で非難し、彼女は1339年にアイゼナハへと戻り、兄の保護の下そこで暮らした。そして1367年にアイゼナハで亡くなり、そこに埋葬されている。エリザベートはハインリッヒ2世との間に5人の子供をもうけており、そのうちのひとりが伝説に出てくるオットーである。しかし、伝説では、オットーにハインリッヒという兄がいたことになっているが、実際にはオットーが長男であり、そのような兄はいなかった。

ハインリッヒ2世&オットー2世の相関図。エリザベートという名の女性が複数名いて複雑だが・・・

この伝説はよく知られている話であるが、一番よく知られているのは、ゴットフリート・キンケル(Gottfried Kinkel)が1846年に記述したライン地方に伝わる12の冒険談のうちのひとつである。オットー2世は、伝説にあるとおり、1338 年にディートリヒ7世・フォン・クレーフェの娘であるエリザベートと結婚しているが、ふたりの間に子供はいなかった。マールブルク大学にはこの伝説の壁画が飾られているが、これはオットーとエリザベートの二人が結婚後、マールブルクに移り住んだからである。

マールブルク大学の旧講堂にある「オットー デア シュッツ」の壁画

オットー2世は1339年からミュールハウゼンの帝国総督を父と共同摂政として務め、父親が抱えていたフルダ修道院長ハインリヒ7世・フォン・クランルッケン(Heinrich VII von Kranlucken)に対する私闘(フェーデ)にも参加している。オットー2世はスパンゲンベルク(Spangenberg)に居を構え、そこで 1366 年に亡くなり、カルメル派の教会に埋葬されている。

参考:

sagen.at, “Otto der Schütze“, https://www.sagen.at/texte/sagen/grimm/ottoderschuetze.html

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